メディアグランプリ

「ええじゃないか」とフィリピーナ


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:水峰愛(ライティング・ゼミ木曜コース)
 
自宅から一番近いという動機で、環八沿いにある、某・フィリピンスナックに通っていたことがある。
そこには底抜けに明るいフィリピン人のママと、ビビアン・スーように可愛いホステスのアミィちゃん(仮名)がいた。ママはいつも、巣鴨か上野あたりに売っていそうな派手な柄物のカットソーに、フリルのミニスカートを合わせていて、口紅は決まって目の覚めるような蛍光オレンジだった。
私が店の扉を開けると、「いらっしゃい!会いたかった!」と、花のように笑い、頼もしい力で抱きしめてくれた。
彼女はバナナが好きで、しょっちゅうカウンターの中で食べていたが、本場の食べ方は日本流のそれとは違い、皮を柄の無い方から剥くのだった。「ママはバナナが一番好きなの?」と尋ねたことがある。
「一番好きなのは、柏餅ダヨ」と言っていたが、彼女が柏餅を食べているところを見たことはない。
 
お店に通っていた理由のひとつは、ママが料理上手だったからだ。
上京してからというもの、母の手料理を食べる機会もめっきり減っていた私にとって、ママの作るシンプルな家庭料理は、実家の母の味を思い出させるものだった。
「ママのご飯、本当に美味しい」
私がそう言うと、喜んでどんどんお代わりを出してくれた。
 
私はいつからか、母に会いたい気分の時、店に行くようになっていた。
それは例えば、仕事の勉強が煮詰まった時、ダンスの発表会の前日、夫と喧嘩をした日。
どんな日も、彼女は派手な笑顔で私を迎えて、愛情のこもった料理を振舞ってくれた。
常連のお客さんたちが、常識的で物腰が柔らかく、精神的な余裕を感じられる大人たちだったという点も大きい。私のような女性のひとり客も、入りやすい店だった。
 
あれは私が趣味のダンスを習い始めてすぐのことだ。
先生から声をかけて頂いて、少し大きな舞台で踊ることが決まっていた。
普通、生徒の初舞台は、スタジオが主催する発表会が主流だ。しかし私は、協会が運営するイベントに出演することになっており、多大なプレッシャーを抱えていた。
ただでさえ気が小さく、本番に弱い私である。練習では先生から容赦ない指導を受け、ストレスで衣装のサイズ直しが必要になるくらいには痩せていた。
週末は朝から夕方までダンスの稽古に費やしてはみたものの、本当にダンスが好きかどうかもわからなくなっている状態だった。
「ああしんどい」
そんな言葉がふいに口をついて出るようになった時、私は店の扉を開けた。
 
この店は、いつ行っても、必ず誰かが歌を歌っている。
なぜなら2時間歌い放題のカラオケスナックだからだ。
いつもは数人しかいないカウンターがその日はほぼ満席で、お客さんたちは既に盛り上がっていた。そんな時に行くと、私の歌う歌を誰かが勝手にセットすることがある。
乾杯もそこそこに、ママの手料理もそこそこに、私は盛り上がりの輪の中に問答無用で放り込まれた。
考えすぎて自閉ぎみになった頭の中に、無理やりエナジードリンクを注入されるような荒治療が、多分そのときは心地よかった。
 
何曲目かの歌(ラテン調の曲だ)を私が歌い出すと、常連の片岡さん(仮名)が、おもむろに席を立って踊り出した。
そうすると、ママもすかさずフィリピンのステップで煙草片手に踊り出し、気遣い屋のアミィちゃんもそれに続いた。
そうなればここで引き下がっては女じゃないとばかりに謎の勇姿を見せ、次に席を立ったのは私で、それに触発されたよっちゃん(仮名)と、牛若さん(仮名)もフロアに躍り出た。
気づけば全員で、狂喜乱舞の大団円。
やけっぱちじみた盛り上がりの中で、デタラメな踊りを踊りながら私は、「ああ、これは『ええじゃないか』だな」と、思った。
「ええじゃないか」とは、江戸時代に起こった民衆運動で、人々がひたすら「ええじゃないか」を連呼しながら街中で踊り狂ったという、歴史の教科書でおなじみのあれだ。背景には、不安定な社会情勢があったと言われている。
だとすれば、「ああしんどい」と思っていたのは、そしてつかの間の癒しをここに求めていたのは、多分私だけじゃなかった。
片岡さんもよっちゃんも牛若さんも、本当はみんなそうだったのかもしれない。言葉には出さないけれど、そうやって憩いの場を共有することで芽生える集合意識のようなもので、お互いを支え合おうとしているのかもしれない。
いや、むしろみんなそれぞれ、私とは比べものにならないくらいの重責を、社会で背負って生きている。ある人は会社を経営しているし、またある人は大企業の幹部だ。
だとすれば。
 
私がどれだけの大失敗をしたところで、一体誰に何の迷惑がかかるっていうの?
 
そう思うと、失敗が怖くて追い詰められていた自分が、無性におかしくなってきた。
おかしくておかしくて、泣き笑いでママを見ると、何の事情も知らないはずの彼女は、いつものように派手に笑った。そしてそれはいつ見ても、大輪の花のようだった。
 
先日、フィリピンに大きな台風が上陸し、何人もの方が犠牲になったと聞いた。
お店には今はもう行けていないけれど、ママやアミィちゃんのことを思い出すと同時に、彼女たちの家族や友達が無事だったらいいなと思う。
***

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2018-10-10 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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