メディアグランプリ

携帯電話を忘れて旅に出たら


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
http://tenro-in.com/zemi/62637
記事:田島奈緒(ライティング・ゼミ特講)
 
 
「あ。ケータイ置いてきちゃったみたいです」
高速道路に入ってすぐのことでした。私はふと、手元のバッグが軽いことに気づきました。
「え! どこかに入ってない? 鳴らしてあげようか」
同乗の人が電話をかけてくれますが、車内は静まりかえったまま。
 
うん。なんとなく思い出しました。
出がけに犬の散歩に行ったのです。
おそらく今ごろ私の携帯電話は、散歩用のバッグに入ったまま、玄関の片隅で光っているでしょう。
 
私たちは都内で活動するアマチュアオーケストラのメンバーで、河口湖畔での合宿練習に向かっていました。私はこのオーケストラでコンサートマスターを仰せつかっているので、指揮者を含め、誰かが緊急連絡を入れてくる可能性は高いのですが、ないものは仕方がない。
こうして、はからずも一泊二日のデジタル断食が始まったのです。
 
携帯電話を忘れて出かけてしまった経験をしたことがある人にはご理解いただけるかもしれませんが、手元にあの小さな電子機器がないと気づいたとたん、なんだか心細いような気持ちになるものです。
こういうときに限って大切な連絡が入ったりするのではないかと不安になります。
まあ私の場合、帰宅したら一件の着信もなく、届いているメールもメールマガジンだけで、ほっとするのが半分、誰からも必要とされていないような寂しい気持ちがするのも半分、という結末になることが多いような気もします。
 
スマホがないと生きられない人だと思われたくない、という小さな見栄を張って、忘れてきた電話のことは努めて考えずにいましたが、さすがに家族にだけは知らせた方がいいだろうと思いました。
立ち寄ったSAで公衆電話を探します。そういえば、お財布にテレホンカードを入れずに歩くようになったのはいつからだったでしょう。少なくとも10年前は予備も含めて数枚は持っていたと思うのですが。
 
それから電話番号。子供の頃は、自宅はもちろん祖父母の家、友人の家、母親がよく立ち寄る先など最低でも10か所は暗記していたと思うのですが、今はすべてスマートフォンが記憶してくれています。
外付けメモリみたいなもので、ナシでは本体(私)の能力が著しく低下する有様。
奇跡的に、おぼろげに記憶していた夫の携帯電話番号が当たりだったものの、もし覚えていなかったり少しでも間違えて覚えていたら、次はどんな手があったか、今は思いつきません。
ちなみに、人間は十桁までの数列なら楽に覚えられるそうです。現在の携帯電話番号は十一桁。覚えられない理由はこれのせいにしておこうと思います。
 
現地到着後も、外付けメモリのない私はいろいろな場面で役立たずでした。
私のハードディスク容量は多くないのです。自分でメールした内容さえも細かいところは覚えておらず、確認されても「えーっと……。今、メールが見られなくて……」。
現金を持たずに出歩くことを「丸腰」と言ったりしますが、今や、スマホを持たずに出かけることも丸腰、もしかしたら現金以上に心許ないかもしれないな、と思いました。
 
もちろん写真も撮れません。河口湖畔といえば美しい富士山が見られますが、今回は心に焼き付けて。音楽仲間との記念写真もナシ。
録音もできません。あとで誰かのをもらいましょう。
メトロノームにもなりません。
ぽっかり空いた時間になんとなくいじるものもありません。
SNSなんて論外です。
 
でもそれ以上に、今回、できなくて困るな、と思ったことは三つでした。
まず調べもの。会話の中で出てきた言葉や曖昧な記憶をきちんと確認したい、それも今すぐ! というタイプなので、それができないことは想像以上にストレスでした。
次にメモ。ふと浮かんだ思考の断片を、消えないうちにメモしておいて、あとから深く考えたり別のメモとつながったりする瞬間が喜びなのです。非日常こそメモしたいことがたくさん。書きとめるのは最悪、そこらへんの紙でいいとしても、ストックはスマホにあるので消化不良でした。
そして最後に目覚まし時計。これは予想外でした。日頃は電話を目覚まし時計として使わないので意識していませんでしたが、ないと寝るのが怖い。久しぶりにモーニングコールなるものを利用しました。
 
合宿が無事に終わり、帰宅した私を玄関で待っていたのは、下駄箱の上に乗せられたスマートフォンでした。
着信は3件。メールとアプリのアラートが数件ずつ。
着信のうち1件は、所在確認のための鳴らしてもらったものですし、いずれも緊急性はありませんでした。ええ、そうでしょうとも。と、いつもの通り、安心しながら少しいじけて。
 
短いデジタル断食で得たものは、と考えると、語れるほどのものは特にないかもしれません。
持たなくても大丈夫という自信を得たわけでもなければ、なければ時間が有効に使えるなどと言うつもりもありません。
ただ、もはや「電話」ではないこの小さな機械に自分がどこで依存しているかを知り、代替手段を考えたことで、新しい扉が開いた音が聞こえたように、思うのです。
 
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2018-10-25 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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