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乳がんサバイバー、術後3年生き延びました!


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記事:安光伸江(ライティング・ゼミ夏休み集中コース)
 
 
がんと診断されて生き延びている人のことを「サバイバー」というそうだ。
 
 
私の乳がんが発覚したのは、3年前父が急逝した少し後のことだった。胸の異変に気づき、父の死後よく家に来てくれるようになっていた従姉に相談すると「これはすぐ病院に行った方がいい」と翌日車で連れて行ってくれた。母が3ヶ月ごとに通っていて父の死後は私が連れて行かないといけない病院でもあった。
 
 
乳腺外科だけ午後からも新患を受け付けていて、問診票にことこまかに状況を書いておいたら、先生は最初から険しい顔をしていた。「見せてください」と言われて患部を見せると、こりゃヤバいな、という雰囲気がただよっていた。何しろ胸の色が変わっているのだ。その日はマンモグラフィーとエコー検査をして、針生検といって患部の細胞をとって検査に回すところまでだった。
 
 
マンモグラフィーは痛いという話を聞いていて、だから私はそれまで乳がん検診を受けていなかったのだけど、思ったより痛くなかった。エコー検査は熱いジェルを塗ってうりうりうりうり、とスキャンするんだけど、途中から二人がかりになり、「よ~く見ますからね」とすごく時間がかかった。脇の下のリンパ節を見ている時など「これ、血管ですよね~」なんて二人で話している。「がんですか」と聞いたけど「それは先生からお話しますから」と教えてくれなかった。
 
 
そして先生のところに戻ると、マンモグラフィーの画像は左胸が真っ白、右胸はきれいだった。右がきれいでホッとしたけど、素人の私が見ても左はヤバいよな、ということはわかった。良性の可能性もほんの少し残されていたけど、先生は「99%、いや99.9%、乳がんですっ!」ときっぱり言った。「手術しないという選択はありませんか?」と聞くと「ありますよ、むしろ、手術できるかどうかが問題なんです」とのことだった。
 
 
その頃母は寝たきりに近く、ひとりで家に置いておくわけにはいかなかった。だから通院での治療にしようね、と母と話していたのだけど、お盆あけに検査結果を聞きに行った時、先生は前とはうってかわった柔らかい表情をして
 
 
「先日お話した通り、やはりがんでした。手術、いつにしましょう?」
 
 
……ちょ、ちょっと待って、母を置いて手術なんてできない! と大騒ぎになったんだけど、その後病院の相談室の方でも動いてくれ、私が手術を受けて入院している間、そしてその後生活が成り立つようになるまでの間、母を別の病院に入院させてもらえることになった。
 
 
生まれて初めての入院の上に、母と私の二人分の入院準備をしないといけないので大変だったけど、従姉の助けもあってなんとか乗り切った。手術には親戚が何人も立ち会いに来てくれて、私は術後のせん妄もなく、ぱっちりと目が覚めた。病室に運ばれるエレベーターの中で「悪いところ、全部取りましたからね! 全部取りましたからね!」と先生が力説していたのをよく覚えている。
 
 
内臓を切ったわけではないので入院中の食事もおいしく、明るい入院患者だった。先生や看護師さんたちもよく面倒をみてくれた。人にケアしてもらうのってうれしいんだな、と、母の世話はするけど自分のことはどうでもよかったうつ病患者の私が少しずつ元気になった。
 
 
その後母も家に戻り、介護保険利用も始まり、私は抗がん剤の点滴を受けることになった。ハゲるわむくむわ、抗がん剤なんて二度とやりたくないと思った。母の世話は十分とは言えなかったけど一生懸命だったし、母も頑張ってくれていた。
 
 
私の乳がんはだいぶ進行していたので手術できるだけで御の字だったらしい。胸だけでなくリンパ節も全摘したので左腕は今もしびれが残っている。抗がん剤は再発防止のためにやると理解していたが、ギリギリのところで命拾いしたようだ。抗がん剤の2種類めは副作用がひどくて半分でギブアップし、その後1年間ハーセプチンというがんにだけ効く薬を点滴。その後はホルモン剤を何年間かに渡って飲む、という日程になった。点滴は3週間ごとだったが、薬をもらいにいくのは3ヶ月に一度。そして半年ごとに採血やらCTやらの検査が入った。
 
 

父譲りで血管が細いため、点滴や採血は大わらわである。一度でうまく行くことはあまりない。湯たんぽで暖めたり、こすったり、「出にくいですねぇ」と言われるのにはもう慣れた。一度などは採血専門のところで2回やってもうまくいかず、泣きながら救急部の看護師さんに採血してもらったこともあった。
 
 
そんなこんなで半年ごとの検査はなんとなくクリアしてきた。そして今日8月14日、いよいよ術後3年(正確には2年11ヶ月だが)の検査を受けることになった! 本当は明日の予定だったけど、大型台風の予報なので病院に相談したら、前日に来るように言われたのだ。急遽予約を入れるので時間がかかるかも、という話だったけど、思いのほかすいすい進んだ。
 
 
採血のところではやっぱり「出にくいですねぇ」と言われたけど、その前に自主的に腕を温めていたおかげで一発でとれた。エコーの先生も穏やかな表情だった。「じゃ、腕を上げてください、リンパ節も見ます」と言われた時はびくっとしたけど、ほかの先生を呼んでくることもなく無事にすんだ。CTも予約じゃなく急遽入ったからいつまで待つかわからないという話だったのに、わりとすぐ呼ばれて、すぐすんだ。
 
 
そして先生との面談だ。いつもの先生は手術日だから、別の若い先生とお話をした。みごと、再発転移なし! というお墨付きをいただいた! やった! 死んだ両親が守ってくれたのに違いない。
 
 
そう、母は私がハーセプチンの点滴をあと数回残している頃に、がんのため亡くなったのだ。その1年前くらいにとったCTはきれいだったのに、気がついたら末期がんで手がつけられなかった。私はがんと闘病しながら母の介護をしていたけど、母の具合が悪くなってもう一人では介護できないから介護体制を変え病院に入れることになり、そこで検査をしたら腫瘍がみつかったのだ。もしかしたら母は「おねえちゃんの病気を代わってあげたい」なんて思っていたのかもしれない。私のがんがうつった、なんてことはないだろうけど、これ以上私に負担をかけまいとして死んでいったのだな、と思うこともよくある。
 
 
検査に行く前も仏壇に線香をあげた。バスで病院に行く途中に安光家の墓があるお寺が見えるので、数珠を持って行って車窓から拝んだ。両親の眠る墓に直接参ることはしなかったけど、お盆でもあるし、気持ちだけ、ほんとに気持ちだけ、拝んだ。
 
 
そのおかげもあってか3年の検査を無事クリアしたのはとてもうれしい。帰りのバスは別ルートだったのでお墓には行かなかったけど、天国の両親に心から感謝した。ぜったい、守ってくれてる。
 
 
乳がんの3年生存率は95%ほど、5年生存率が92%ほどだと新聞に載っていたが、せっかく95%に入れたんだから、これからも元気な乳がんサバイバーでいようと思った。
 
 
お父さんお母さん、守ってくれてありがとう。

 
 
 
 
 

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2019-08-15 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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