「飛んで灯を知る休職者 ~戦略的撤退を選んだ日~」《週刊READING LIFE Vol.143 もしも世界から「文章」がなくなったとしたら》
2021/09/13/公開
記事:珠弥(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
もしも世界から文章がなくなったとしたら、二年半前の私は、まるで違う人生を歩む羽目になっていただろう。
恐らく、斜に構え、目上の人が嫌になり、自分は何の取り柄もなく、社会不適合者なのだと思い込んだ、嫌な人間になってしまっていたかもしれない。
2019年某夏の日、私は前職のとある福祉施設を、休職することになった。
限界を自覚したのは、休職する数日前のことだった。いつも通り、残業をしていると、私と上司であるK先輩しかいない瞬間があった。タイミングを見計らったかのように、K先輩からぼそっと低い声で問いかけられたことがきっかけだった。
「コップで例えると、今どのくらい?」
“こっぷでたとえると、いまどのくらい”
K先輩はこちらには目もくれない。皺だらけのワイシャツを腕まで捲った筋肉質な両腕が、書類とパソコンの間で動かされ続けている。
私は頭の中で、K先輩が発した言葉達を、文字変換しようと試みる。少しして意味を理解しても、切り返す言葉は出せなかった。
デスク脇に置いている手元のコップを思わず見る。ぞんざいに開封された頭痛薬の袋が残っていた。自身が頭痛薬を頻繫に飲んでいることに気が付いてしまって、私はついに泣き出した。もう無理だと悟ってしまった。
K先輩とI課長に離職したいと申し出ると、I課長から復帰することを強く望まれ、一旦休職を取る流れになった。
「まずはゆっくり休んで。元気になったらまた戻っておいで」
応接室で優しく言うI課長。その横にいるK先輩は、顔をしかめながらI課長を見ていた。
購買部はこの1~2年で、若手職員がどんどん休職と離職をしてしまう状態になっていた。昼休みが惜しくなるほど、人手が足りず、残業が立て続いた。
福祉ならではかもしれないが、原因の一つとして、給付金制度を使った注文が多かった。申請があると、障がいのあるお客様向けに役所へ申請する書類を整えたり、段取りや状況を伝えたりする電話業務が発生した。当然ながら一人一人の状況や事情も異なるため、かなり時間のかかる作業となる。
I課長は、そんな“ブラック部署”と周囲から呼ばれ始めた購買部を、立て直すと意気込んで異動してきた新しい上司であった。
対してK先輩は、私の入社当時から君臨している購買部のエース。実質、現場を回すリーダーの役割をしていた。
入社当時、私の新人研修をしてくれたのもK先輩だ。初めての男の先輩ということもあってか、考え方や意図がお互いにすれ違うことが最初は頻繁に起きた。そのせいでお互い言い争いもしたし、逆に愚痴を聞いてもらったこともある。それでも、休職間際まで来た私にとっては、戦場で唯一生き残ってしまった兵士のような存在だった。
K先輩は、I課長が戻っておいでと言ったことが心外だったらしい。強い語気で私に言葉を投げかけた。
「無理することはない。本当に残念ではあるけど、この部署のために戻る必要はない」
今度はI課長が顔をしかめた。
私には、刺々しい言葉の裏側にある、K先輩の諦観と自棄が、ひしひしと伝わってくるような気がした。同時に、顔をしかめてくれる、I課長が部署に革命を起こしてくれるのではないかという、変な期待も捨て切れなかった。
本当は私も、頑張りたかった。I課長が部署異動してきてくれて、K先輩直下の部下になって、まだ三ヶ月しか経っていない。一年の氷河期を耐えて、やっと立て直せる兆しが見えた矢先だったのに……
けれど、片頭痛の頻度は増すばかりで、職場に向かう足取りは重くなる一方で、遅刻や欠勤が増えていた。私はもうあらゆることに耐えられなくなっていたようだった。応接室で休職届を受理してもらう中でも、悔し涙は溢れてしまった。
夏という半端な時期、担当業務の引継ぎ、お世話になった方々へのお詫びや挨拶、異動してみたかった部署での経験……
全てが中途半端のままで、自分自身がやるせなく、嫌悪しながら、私は職場から逃げ出した。
もういいじゃない、やれることはやっていたよ、健康が一番大事だよ、固執するほどいい勤務条件じゃないでしょ、少し休んで本当にやりたいことしなよ……
職場の状況や、私自身の表情を見て、家族や友人は第三者目線から感じたことをそのまま伝えてくれた。
頭の片隅では、やっぱりそう見えるんだなあと思いながらも、私は心の中でそっと、家族や友人たちに反論していた。
(違う。私は、まだあの職場でやりきっていない。このままだと新しい業務に耐えられなかったと思われてしまう)
何よりも、私が固執していたのは、休職中のR先輩の復帰だった。
K先輩の一つ下であるR先輩も、業務をばりばりとこなす素敵な先輩だった。R先輩にとって私は初の部下で、同性でもあったため、可愛がってもらった自負はある。
同僚やパートさんが休職と離職してしまう部署の中で、R先輩とは業務も、悩みも、管理職や社内の労働組合への掛け合いも、一緒に共有して取り組んでいた。私にとって大切な戦友だった。
I課長の計らいで、私は二人の先輩の直属の部下という立ち位置で新体制を迎えた。だからこそ、復帰したR先輩が働きやすい場所に整えてから、身の振り方を考えるつもりだった。けれど、一人になった途端、R先輩と共有できていた思いや訴えは、私なりに管理職の方達へ投げかけても、言葉が届くことはなく、消滅してしまった。
休職して最初の一週間は、ひたすら自室に引き籠って、泣き続けた。
休職して二週間。ここまで来ると、いつまでも泣いていても気が滅入るだけだからと、少し外の空気を吸いたく感じられるようになった。
愛犬と散歩をしたり、一人で出かけたりするようになってから、仲が良かった職場の人達からちらほらと連絡が届くようになった。I課長からも近況報告が時たま入ってきた。
“館長が、朝礼で貴方の仕事に対して、お客様からお礼の電話があったと、褒めていました”
I課長からの一文を見た時、気持ちがカッと嫌な方向に熱くなった。
私をおだてればいいと思っているのか!
そう一喝してやりたい気持ちと同時に、なぜ私の声は、言葉は、響かせることができなかったのだろうかと悲しくもなった。
ざわつく感情を落ち着かせようと深呼吸をする。
ふと、そういえば館長はどうしているのだろうと少しだけ、気になった。
館長とは一度だけ、長話をさせてもらったことがある。
R先輩の休職を受けて、管理職に響かないなら最後の砦だろうと、労働組合に直談判をして、玉砕した時期。本当にもう誰にも届かないなら、訴え続けた声も、感情にも、蓋をしてしまおうかとやさぐれ始めた時期でもある。
K先輩が、館長とのご飯に誘われたそうで、先輩から私にも声がかかった。
生まれつき全盲の館長は、K先輩の腕に支えられながら、私達と一緒に施設を出て、最寄りの駅前にある居酒屋まで向かった。
「10時の方向にハイボール、6時の方向にお箸、つまみはえんどう豆でお箸の真上にあります」
館長が一人で食事ができるように、K先輩は配膳の位置を時計に見立てて説明する。館長は瞑ったままの瞳を、さらに弧を描くように皺を寄せながら微笑む。K先輩に睨まれて、私は慌ててメニューを読み上げた。
「サラダと肉料理、一品物だとおでんや串カツ、焼き鳥とかがあります」
「魚はありそうかな?」
「えっと、焼き鮭かししゃもか、刺身の盛り合わせがあります」
刺身の盛り合わせ、という単語に首を傾げた館長に気が付いて、私はさらに読み上げた。
「マグロ、ホタテ、アジとサーモンみたいです」
「じゃあ、それと唐揚げも頼もう」
穏やかな会話をしつつ、館長はハイボールを見えているかのようにジョッキを持ち上げて呑み始める。そのまま少しすると、館長はK先輩に部署の状況や、K先輩自身の異動希望について出した答えの経緯などを話し始めた。
二人の会話をボックステーブル越しに聞きながら、私は沈黙を保つ。というか、聞いていていいのだろうか、私は席を外した方が良かったのではないだろうか?
頭の中に疑問符を出し続けたまま、黙々とマグロを食べていると、館長がややあ、と私に話しかけた。
「貴女の上司として、来年度にI課長を異動させて、K先輩には異動をもう一年だけ堪えてもらうつもりでね。代わりに、部署を立て直せる一年として協力してもらえるかな」
やさぐれ期に入っていた私は、箸を止めずに館長の言葉に生返事をする。館長の隣に座るK先輩をちらっと見たが、今度は私を睨んでこなかった。視線は交わらないままだ。
「もう少ししたら、購買部に春が来るといいんだけれど」
私は、館長のその言葉に、箸の動きをぴたりと止める。なんだ、春って。
館長は、突然の沈黙に戸惑った表情を少し浮かべながら、気配を頼りに私がいる方向へ顔を向けている。
部長、課長、組合に所属する他部署の職員達……
どこの誰に対しても、私達若手職員の言葉は響かなかった。館長に伝えてみてもいいのだろうかと、目の前にいるのにとても悩む。今更、とも思ってしまう。
けれど、これを逃したら、もう二度と伝える機会が来ない気もした。K先輩が今日連れてきてくれた意味を少しだけ考えてみる。真意はわからない。震える拳を机の下に隠して、私は息を深く吸い込んだ。
「館長、春は、私にとっての春は、R先輩が元気に復帰するまで来ないのです」
一言、思いを口にしてみると、次々に言葉が洪水のように溢れ出した。
私は部署で感じていること、もう休職と離職が起きないようにしたいこと、K先輩も大変なこと、思いをひたすら声に出した。連なる言葉達を聞き漏らすまいとするかのように、館長はじっと手を組みながら、私の言葉が切れるまで耳を傾けてくれた。
話を一通り聞き終えた館長は、首を傾げながら問いかけてきた。
「ねえ、今の言葉、何かにリストとしてメモとかしてきたの?」
私よりも先に、K先輩が素早く割り込む。
「館長、彼女は今、箸の手を止めて、きちんと館長の方を向いて話しています」
館長は少しだけ笑いながら、再び口を開いた。
「いやー、まるで本の一説を聞いているような、綺麗な文章のようだと思ってびっくりしているんだよ」
音を頼りに、館長は両目を開いて、私の方を見ながら続けざまに言う。
「ちゃんと、伝えてくれてありがとう」
全盲の館長にとって、私の言葉は文章として、暗闇に点字として浮かび上がったのだろうか。小さな灯火として、館長の心に点けられたのだろうか。
真偽は定かではない。けれど、館長の言葉は、少なくとも私の真っ黒になりかけていた心を、灯してくれた。
館長や先輩方には本当に申し訳ないが、結局私は休職後に復帰せず、退職することにした。
勤務期間二年半のうち、一年程伝わらないもどかしさに打ちのめされてばかりいた。けれど、ひたすら救世主を待ちながら、救いの手を求める声を出し続けていてもダメだと思い直した。私は自分の休職を、ようやく逃亡ではなく、戦略的撤退だったのだと、弱さが前面に出てしまった自分を受け入れることができた。
心身の余裕を取り戻したことで、館長が私の言葉に耳を傾けてくれたことも思い出すことができた。そうやって一度気が付くと、皮切りとなって、周りの人が発信してくれていたメールの内容が、温かいものに溢れていたことにも気が付けた。
私の長所と部署の問題を書き連ねて、力を貸してほしいと綴ってくれたK先輩のメール。
体調を案じてくれるパートさんたちからのメール。
何もできないことを謝罪する、組合員の職員からのメール。
同僚たちからのご飯のお誘いメール。
辞める間際になってからだなんて、と都合がいいなあとも思わなくもない。
恐らくだけれど、満身創痍だった私の圏内に届かなかった言葉達は、休職期間を挟んだことで、受信範囲が拡張された私には届いたのではないかと思う。
もしも世界から文章がなくなったとしたら、沢山の誰かの胸中にあった思いが、どこにも届かないまま、消えて行ってしまっただろう。
その場で声を出せずに飲み込んだ思い、沈黙や咄嗟の嘘に隠された本音、瞬間に抱いた情熱……
言葉にできなかった思いは、書物やメールや手紙としての媒体になれず消えてしまうだろう。当事者や第三者、未来にさえ届くことがないまま、自身の中で消えてしまうだろう。
休職前の私であったら、周囲からメールで届けてもらっていた温かい思いを、受け取るどころか気が付くこともないまま、どんどん嫌な人間になってしまっていただろう。
時間を経てようやく受け止められた私のように、もしかしたら今頃管理職の誰かには、職員の誰かには、過去の私の言葉は時差で届いているのかもしれないし、届かないまま終わってしまったのかもしれない。
そんな前職での経験があるからこそ、私は今、こうやって文字を綴ることで、出会った人達への感謝を届けられるようになりたいと思うようになった。
また、この世界のどこかにいる寂しい思いを抱えている人に向けて、一瞬だけでも心を温めてあげられるような何かを、届けられる人になりたいと思うようになった。
世界に誰かを思う気持ちがあふれている限り、文章を通して、誰かの心を灯せるようになると信じていきたいと思う。
□ライターズプロフィール
珠弥(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
二年半ごとに転職を繰り返し、IT系営業部に落ち着く。片頭痛とは今でも戦っている。働く傍ら、日常体験を軸に執筆修行中。心を温められるような、記事を届けられるようになりたい。2020年12月~天狼院書店で受講開始。
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