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メディアグランプリ

これが本当の臨死体験


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:かもめ(ライティングゼミ・日曜コース)
 
 
平成30年2月20日、私は、横断歩道を歩行中、前方不注視のタクシーに轢かれ、頭部を強打、背骨を折る重傷を負った。
 
衝突する直前から地面に横たわるまでの記憶がない。
タクシーが自分に迫ってくる映像は覚えている。背後から、「危ない!」という叫び声がしたことも覚えている。
地面に横たわりながら、思わず腰に手を当てた。持病の腰痛が悪化していないか気になったのだ。路面に叩きつけられたわりには、腰は痛くない。
どうやら頭を打ったようだ。頭を触ると、大きなたんこぶができている。少し出血もしている。
 
意識はある。
 
タクシーのヘッドライトが停止したまま私を照らしている。痛いほど眩しい。無遠慮に私を照らす鉄の塊に対し、恐怖を感じた。こいつが俺を轢いたのか。
 
立てるぞ……
 
私は、真っ白な灰になる直前のあしたのジョーのように,よろよろと立ち上がった。
すると、どこからともなく、「立つんじゃないっ!」「動かない方がいい!」と声がかかった。
(そうか……頭がやられてるってことだな)
要するに、脊髄を損傷しているとか、脳内出血するとか、そういうことなのだろう。私にもそれくらいの医学的知識はあった。
 
死ぬのかな……
 
私は,もう一度,横たわり,冷たいアスファルトに頬を押し付けた。
横断歩道を歩行中の男性が車にはねられ頭部を強打、搬送先の病院で死亡が確認されました。そんなニュースが他人事のようにこだまする。
 
まあいっか。
 
死を覚悟したときの率直な感想は、今思えば投げやりなものであった。
死ぬことに対する恐怖は全くなく、ただ受容する。それだけのことだった。
もちろん、一瞬ではあるが,残していくことになる妻や子のことも考えた。
しかし、不思議なことに、妻や子のために死ぬわけにはいかないのだ、という生への執着は完全にゼロであった。
家庭がうまくいっていないわけではない。自分で言うのも何だが、私は結構なレベルのイクメンである。息子のことは命に代えてでも守りたいと思っているし、誰よりも深く愛している。妻だって苦労を共にしたかけがえのないパートナーである。私が死ねば悲嘆に暮れるのは目に見えているし、苦労させたくもない。
しかし、それは後になってみればそう思うというだけの話であり、事故直後の私の感覚は、まあいっか、というものであった。
私は、非情な父、夫なのであろうか?
 
なかなか救急車来ないなぁ、なんでみんな助けに来てくれないのだろう、そんなことを考えているうちに、私は何やら大げさな固定器具を付けられ担架に乗せられた。
救急隊員が言うには、私は、何度も同じことを聞いていたと言うが、さっぱり覚えていない。
 
幸いなことに、1年を超えるリハビリを終え、事故前と同じというわけにはいかないが、まあまあ日常生活には影響ないくらいに回復した。
 
臨死体験というと、体から意識(のようなもの)が抜け出して、上から自分の身体を見ているとか、三途の川を渡ろうとしたら、死んだばあちゃんが出てきて「お前はまだこっちに来るな」と言われたとか、そんな非日常的な体験をいうことが多いのではないだろうか。
私が死の一歩手前で感じた感覚は、そのようなファンタジックなものではなかった。ひょっとしたら、私の体験はまだまだ臨死体験と呼べるようなものではないのかもしれない。お前の体験はまだ甘いよ、1歩手前どころか3歩手前だよ、というレベルなのかもしれない。
 
他の人の経験の真偽はわからないが、自分が死にかかってわかったことは、死にゆくときの感覚は、端からみるほど重大事ではない、ということだ。眠くなったから寝ようかな、という程度のものだったということである。
 
それにしても、生に対する執着をこれほどまでにあっさり放棄できてしまう自分には唖然とした。最愛の息子や妻さえも、どうでもよくなってしまう。それまでの人生を否定するかのような、軽薄さなのである。
 
臨死体験をすると死ぬことが怖くなくなるという。
私の場合も,それは当てはまる。
ただ,死ぬことは怖くなくなったが,生きていくことに虚しさを感じることがある。どんなに一生懸命生きても、最後には、すべての執着から離れてしまうのである。愛する人も大切な想い出も,たんぽぽの綿毛を吹き散らすように,飛んで行ってしまうのだ。
 
もちろん、私個人の体験を一般化すべきでないことは承知している。たった一人の人間の経験からすべてを語るつもりはない。
しかし,私個人にとっては、本で読む臨死体験よりも、自分が命を張って得た経験の方がはるかに真実に近い。
 
これから先、私はどのように生きていくべきなのだろう。
少なくとも、人の命は地球より重いのだから一生懸命生きなければいけない、という単純な見解に与することはできなくなってしまった。
逆に,生きる意味などない、人の一生はうたた寝中に見る一瞬の夢でしかない,という見解に共感してしまう。こういうのをニヒリズムというのか。
 
しかし,人生に意味がないのなら自殺するよ、というのは短絡的に過ぎる。
生きていれば素晴らしい瞬間はたくさんある。美しい風景,美味しい食べ物,素晴らしい大自然,あふれるほどの幸せ。私はそれを感じることができる。今も,愛する家族に囲まれて,幸せな時間を過ごしている。
 
私は,生きているのだ。
 
たとえ一人の人間の人生など取るに足らないものだったとしても、それでもなお、私たちは生きていかなければならない。
人間は,目の前にある幸せを感じ,感動して,生きていけばそれでよいのだ。
意味などなくても,タンポポの綿毛よりも軽い命だったとしても。
これが臨死体験から得た教訓である。
 
 
 
 
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2019-10-10 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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