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たったひとつのささやかなやりかた。「夢」をかなえるための処方箋


西部さん たったひとつの

 

記事:西部直樹(ライティングラボ)

 

小さい夢は、どのくらい叶っただろうか?

小さい頃の夢は、無人島で暮らすとか、宇宙の探検家になるとか、ウルトラマンになるとかだった。
残念なことに、それらの夢は今のところ叶ってはいない。
無人島で暮らすのは、すぐにでもできそうだ、ある程度の努力で。でも、暮らしたいかと問われたら、暮らしたくはない。
宇宙の探検家は、現在その需要はなさそうだ。
ウルトラマンは、機会があればなってみたいが、方法が皆目見当もつかない。

いや、ここで述べたいのは、小さい頃の夢ではなく、小さい夢である。
ごくささやかな夢である。
叶えるには、いささかの努力とか、労力がいるかもしれないし、あるいは僥倖を期待するしかないような。
でも、それは何万人に一人の幸運とか、ごく稀な人しか叶えられないものではない。
宝くじの一等が当たるのは数百万人に一人だ。
歌手とか映画俳優とかは、ごく僅かの人しかなれない。
そんな大それた夢ではない。

学校の帰り道、好きな子と一緒になれないだろうか、とか、通勤の電車で座ることはできないかな、とかとか。もう、夢見るより、帰り道に待ち伏せろとか、始発に乗れば、座れるぞ、と厳しい指摘を受けそうな、そのような夢である。

私が小学生だった頃は、ホームドラマの全盛期だった。
ホームドラマというは、家族の有様を描いて、なんだかほっこりするようなお話である。
いうなら、小路幸也氏の描く「東京バンドワゴン」、あるいは「サザエさん」の世界である。

田舎の小学生だった頃、テレビドラマの世界はまさに夢の世界だった。
東京の日常や、喫茶店の有り様、調布とか杉並とか、よくわからないけど何かいい雰囲気の地名、めくるめく世界だった。

そのなかでも、小父さんたちが仕事帰りに小料理屋に集い、「女将、いつものね」と頼む、一つの店に「常連」立ちが集うシーンに、とても憧れたものだ。
田舎の小学生には小料理屋自体なになのかわからなかったし、いつものと言っても、何がいつものものなのか、皆目見当もつかないものだったが……。

そう、私は「常連」というものになりたい、という夢があったのだ。

常連という言葉には、なにやら字面や響きに大人の匂いがする。
常連という言葉には、なにやら社会的繋がりとか、地域との連帯とか、を感じる。
常連という言葉には、なにやら秘密めいた特別な感覚がある。

「常連」というものになりたかった。
どうすれば、美しい「女将」なるものに「いつもの」と声をかけ、「あらまあ、今日はどうしたの」などといわれるようになるのだろう。

高校の頃、地元のラーメン屋に足繁く通っていたことがある。
小さな田舎町だったので、高校生が行けるような店はそこしかなかった。
ラーメン屋といっても、子ども相手の店なので、メニューは一つ、ラーメンだけ。
店に入って、店番のおばちゃんに「ラーメンね」と念を押すだけである。
なにやら秘密めいたものや、大人の匂いなどなく、チャーシューの香だけがあった。

ラーメン屋さんでは、ダメなのではないか。
大学に入って、学生時代はやっぱり「常連」というものになって、青春を謳歌しようではないか、と思った。
アパートの近くの喫茶店に入り浸ったというか、時々食事に行った。まあ、それだけなので、常連というにはほど遠い。
成人になったら、いよいよあこがれの小料理屋なるものにいって、「女将さん」などと懇ろになったりして、と思ったのだが……、私は飲めないのだ。ほとんど飲めない。アルコール分解酵素がほとんどないことに気がついた。そして、貧乏な学生は小料理屋などは高嶺の花、安い居酒屋で周りが酔っぱらうのを傍目に、コーラを頼む日々であった。

それは、社会人になっても変わらなかった。最初の仕事は遅くまであり、飲みに行くことなどできなかった。
やれやれ。
いつになったら「常連」なるものになれるのか。嘆息の日々であった。

幾星霜経たことか、気に入った喫茶店を見つけて通い詰めれば、ある日その店の扉に「突然ではありますが、この度お店を閉めることになりました。長らくのご愛顧ありがとうございました」と張り紙があった。
料理がうまく、店員さんも気さくな居酒屋を見つけ、これはこれはと通い詰めても、突然「この度店長が代わることになりました。これまで通りのご愛顧を」と見知らぬ店長からあいさつされ、そして料理はまずくなり、馴染みになりたかった店員さんもどこかへ行ってしまった。かくも「常連」への道のりは長く険しかった。

「常連」に憧れを抱いて半世紀、なることを諦めたことはなかった。
諦めなかったら、いつの間にか「常連」になっていた。

何も、その店の常連になろうとしていたわけではない。
何も、その店のスタッフと仲良くなろうとしていたわけではない。
何も、その店の他のお客さんと知り合いになりたいと思ったわけではない。

「常連」になった居酒屋は、
オフ会の会場を探すのが面倒になって、毎回その店を使っているうちに、スタッフにも顔を覚えられ、スタッフの顔も覚えた。「やあ、いつもの通りお願いね」と、少々厳つい店長に声をかけると、何もしなくてもその日の美味しい料理が運ばれてくるようになった。
厳つい店長というのが、憧れた艶やかな女将とはかけ離れているのが、残念といえば残念ではある。

そして、ある書店……、そう、書店の「常連」になったのだ。

書店は毎日のように通う店はあれど、「常連」となったところはない。
書店員さんと馴染みになったり、その書店にいる他の客と仲良くなったりということはない。
そもそも書店に日参するのは、その書店が好きだからでも、その書店でなくてはならないわけでもない。少しはあるけれど……、決定的要因ではない。
書店に行くのは、本を探しに行くので、○善でも○○堂でもジュ○○堂でも、どこでもいいのだ。本が置いてあれば。

その書店は、その書店でなければならないものがあった。
小さな店なので、品揃えは近くの巨大書店にはどうしても見劣りはする。
しかし、そこに行かなくてはいけないわけがあった。
読書会であったり、著者を招いた講演会であったり、演劇のワークショップだったり、なんだりかんだり。
そこでしか得られない体験があった。
足繁く通わざるを得なかった。

足繁く通えば、いつしか店のスタッフとも顔も見知りになり、「最近はどう?」などと雑談をかわすほどになる。

足繁く通えば、その店で顔を合わせる他のお客さんもいる。何かのワークショップで一緒になれば、自然と言葉も交わすようになる。そして、店が終わったあと、すこし聞こし召したりもする仲になる。

書店という知的響きに大人の匂いがする。
書店という存在に社会との繋がりが生まれる。
書店という場所は少し秘密めいたものがある。

いつもの店に行けば、スタッフから声が掛かり、いつもの席に座り、心が安らぐのである。

常連というものに憧れ、なってみたいと思いつつ、半世紀の年月を経て、その境地をえることができたのである。

そう、夢は叶った。小さな夢だったけれど。
持ち続け、待ち続け、動き続けて叶ったのである。

夢を叶えるためには、ただ夢を持ち続け、叶うように行動し続けるしかない。
当たり前のことなのだけれど、夢を見ているだけでは叶わないのだ。

これが、「たったひとつのささやかなやりかた」である。

さて、今日も東通りを歩いて、そこに行きましょうかね。
***
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