メディアグランプリ

仕事中たらこパスタのレシピを英訳していた私が、ベンチャー企業に転職した話


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記事:松島香織(ライティング・ゼミ 夏季集中)
 
 
「こう、さ、うまーくやっておいてよ」と、上司が言う。右手の指を左手の指の間に挟み込んでガチャガチャと突き合わせる、彼のお気に入りジェスチャーを交えながら。
当時の私は社会人3年目。珍しく発生したクレームの対応に悩み、今後の進め方を相談するために、上司に声をかけた矢先の出来事だった。
そのままクルっとパソコンの方に体を戻す上司の背中を眺めながら、「あのジェスチャーをあと何回見ることになるんだろう」と思ったのが、私が転職したいと思ったきっかけだった。
 
この上司が率いていた当時の私のチームの仕事は、月末月初こそ多少慌ただしくなるものの、それ以外の日々は極めて穏やかに過ぎていく、言い換えるならば、「社内ニート」に近いものだった。
することはほぼ無いけれど、業務時間中はとりあえずパソコンの前には座って仕事のふりをしていなければいけない。そんな中で当時の私が最もよくやっていたのは、知っている料理のレシピを持ちうる限りの英語力をもって英訳し、Wordに書き込むことだった。
特に力作だったのが、当時一番の好物だった、たらこパスタのレシピ。
 
私が就職活動の際に強く願っていたのは、「できるだけ考えたくない」だった。自分で考えたくない、言われるがままに動くだけの会社の歯車になりたい、と思い選んだ就職先なので、当時の私の見る目は正しかったといえる。そんな希望通りの環境を手に入れたにも関わらず、私は転職を希望したのだから、人の心というのは分からないものだ。
 
英訳したいレシピも底をついてきた頃、ついに一念発起し、転職活動を始めた。社会人4年目に入っていた。しかし、新卒から丸3年間レシピの英訳にいそしんでいた私を雇ってくれる企業は、当然のことながらなかなか見つからなかった。
まず、書類選考が全く通らない。新卒での就活と違い、転職ではこれまでの経験と実績がものをいうが、アピールできる実績など何一つないという事態に直面し、今の自分は歯車にすらなれないのだと気づいたときの悲しさといったら、なかった。新卒の時の就活で落ちたときよりもずっと悲しかった。新卒の時にはあったであろう多くの可能性を、自ら潰していたことに気づいたのだから。
 
それでも、人事部門に勤める家族や友人の力をフルに頼って仕上げた、ギリギリ嘘ではない履歴書で、私はなんとか転職先を見つけることができた。転職前の会社とは一から十まで全てが違う、ベンチャー企業だった。
社会人として、本当に一からのスタートとなった。
面接の時から欲しいのは「即戦力」と言われていたが、できることなどほぼゼロ。それでも、そんな自分を採用してもらえたことが奇跡に思え、ただ目の前にふってくる問題を一つずつ解決していくことに必死だった。
打ち合わせに出ても話している内容が分からず、その場ではなんとなく話をあわせて取り繕い、後から調べて追いつく。そんなことを繰り返していたら、毎月の残業時間はあっという間に200時間目前だった。ただ、その会社のメンバーほぼ全員が同様の労働時間だったので、私の経験不足が故の効率の悪さは特に咎められることもなく、ただただ周りに追いつくのに必死で働き、日々は過ぎていった。
 
そんな生活が半年くらい続いたころ、私はふと気づいた。自分が会社の歯車として機能することになんとも言えない喜びを感じていることに。
それまでは「言われたままに動くだけ」という自虐的な意味合いを込めていた「歯車」だが、自分が役に立つ存在であると感じさせる自己肯定感と、組織の一員であるという所属意識を感じさせる力をもっていたのだ。
 
この時私が感じた感覚は、いわゆる「やりがい搾取」といえるもので、それによって過重労働をしていただけとも言えるかもしれない。実際、体力的にはかなり厳しい日々が続き、あと少し同様の環境が続けば本格的に体を壊していた可能性も高い。
ただ、自分が仕事において役に立てたと感じたこと、それによって得た自己肯定感は、その後も仕事を続けていくうえでの大きな原動力となった。
 
最近は、「働き方改革」を目指して行われた残業時間削減のおかげで、以前のような働き方はしなくなった。もちろん、ちゃんと食事をとれて夜は眠り、週末は休む生活ができる方が、人間としては良いには決まっている。子供が生まれた私は、どうしたってあの頃のような働き方はできない。
それでも、振り返ってみると、転職したばかりの、歯車としての充足感をもって働いていた日々が輝かしく思えることも多い。レシピ英訳の日々から歯車の生活に飛び込んだように、またいつか、この凪のような日々も変わるのだろうか。
未来のことはまだ何も分からないが、その変化が再び訪れたときのために、いまは静かに爪を研ぎ続けるのみである。
 
 
 
 
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2020-08-15 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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