さよなら、オオカミ少年の自分《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:城裕介(プロフェッショナルゼミ)
「あなたのやりたいことは何ですか?」
「僕は自分と周りが笑っていられる仕事がしたいと思っています」
そう入社前の面接で答えた。あのころの自分は夢見がちだった。2011年、僕は個人の住宅のリフォームや新築を請け負う会社の営業になった。
自分が甘い幻想を抱いているというかすかな予感はあった。でもアルバイトも対してやっていなかったのもあったからか、「何が幻想なのか?」よくわかっていなかった。
新人で3か月の研修を経て、いきなり営業として駆り出された。そしてその認識の甘さはすぐに明るみに出始めた。
「お客様から連絡がきちんとないってお怒りの電話が入ってます!」
そんな電話が立て続いた。僕は自分のキャパもわからず、自分の何がわからないかもわからず、無我夢中になっていた。1個のミスが数十倍に膨れ上がり、自分の業務を圧迫した。何をどう処理したらいいか全くわからなくなっていた。
職場からは完全に「出来ないやつ」のレッテルを貼られた。そして1年後の6月12人入社したその年の新人の中で唯一の左遷をされた人間となった。
「城君は一度、人の下について現場のことや、基本的なことを学んだほうがいい。それでしばらく様子を見よう。それでも改善が見られないときは……」
いくら鈍い僕にもその言葉の続きくらいはわかる。これは今にして思えば上司の温情だが、それでも自分のプライドがはっきりと傷つけられた音がした。
「最近仕事どう?」
旧友が話しかけてきた。何か後ろめたい感じが自分の中にあるのを感じた。
「まぁぼちぼちやってるよ。まぁ辛いこともあるし、辞めたくなることも多少はあるよ。それでもお客様に引き渡しが無事に終わるとホッとしてさ」
嘘だった。その嬉しいことの何10倍もつらいことのほうが多かった。でもそう言わなかったらやっていられなかった。本当は辞めたくて、辞めたくて仕方がなかった。でもそうすることもできなかった。
クレームを起こしたのは、僕自身の責任だ。そして、僕以外の会社の同期はそれを問題なくクリアしていた。僕だけが厄介者扱いだった。
この会社は確かに新人にものすごい仕事を振るブラック企業かもしれない。でも忙しいからって連絡するのを見送り、やらなきゃいけないことを先延ばしにしたのは僕だ。業務がキャパシティを超えているのはわかっていても、そのせいで締め切りに間に合わなくなったのに、それを誰にも相談できずにいたのも僕だ。
それは周りよりできないと認めるのが怖かったからだ。僕は自分で自分の問題を大きくしていた。当たり前のことが当たり前にできなかっただけだ。会社を変えたところで何も変わらない。だから辞めるといえなかった。
そうやって過ごしていくうちに大学の同級生や実家の家族、学校の友達に会うのがだんだん億劫になってきた。「忙しいけれど、頑張っている自分」の仮面を被り続けていたからだ。そうやっていると彼女とも喧嘩が絶えなくなって別れた。
「しっかりしてよ」
別れる直前の彼女の言葉が耳に残っている。その通りだと思うけれど、そんな言葉が欲しかったんじゃなかった。ほんとうただ弱音を言っても支えてほしかった。でも僕と彼女の求めているものと食い違っていたのだからもうどうしようもなかった。そうしてどんどん僕はこれまでの接点を失っていった。プライドもボコボコに砕かれていた。
それから会社の先輩の下について、現場の手伝いをした。毎日怒られた。毎日苦痛だった。でも食らいつかなかったら、自分の居場所なんてどこにもなくなってしまうだけだから必死だった。周りの同期が自分より活躍していても、後輩が自分より輝かしい成績を上げても気にしないようにした。気にしても同じ土俵に上がることすら僕にはできないのだから。
そうして現場でしごかれた僕は1年後、新築現場の施工管理になった。新人として入社して3年目のことだった。それで少しだけ救われた気持ちになった。だが、建築の現場はトラブルの連続だった。僕自身もそうだけれど、会社としても新規事業に近い新築事業はまだまだ手探りのことばかりだった。そのとばっちりを食うのは施工管理の僕だし、さらにその下にいる職人たちだった。怒鳴り声が飛ぶこともしばしばだった。
そうやって現場をこなしていって、なんとか終わらせていた。そうしてお客様に引き渡しをする。
「ありがとう」
そうお客様に言われると、ほっとする。だが、それもつかの間次の現場が容赦なく動き出す。徐々に僕は疲弊していた。あるときの飲み会の場で僕はある先輩にこう尋ねられた。
「城はいったい何がしたいんだ?」
ガーンと鈍器で殴られたみたいな気持ちだった。「僕はなんでこの仕事をしているんだろう?」
「自分と周りの人たちを笑顔にしたい」
そう掲げて仕事をしていた。それなのにお客様に喜んでもらっても、出てくる気持ちは「ほっとした」だった。それこそがやりたいことのはずなのに。
営業の仕事が好きだったのか?
施工管理の仕事が好きだったのか?
建築の仕事は好きなの?
自分に問いかけたその答えは全部NOだった。そもそもの建築がわからないまま入った僕はやってみないとわからないからと建築をやった。
職人さんが忙しい中でどんなにいい仕事をしたとしても、完成した現場がどんなに素晴らしいなと思ったとしても、僕は大してなんとも思っていなかった。必死にやったのは解雇の危険があるからで、決してやりたいことをやっていたわけじゃない。
入社前に思っていた、「自分と周りの人が喜んでほしい」って具体的になんなんだ?
じゃあ僕は何がしたいんだろう?
僕は周りに嘘をつき続けていた。「自分はやりたいことをやっていて大変だけど楽しいんだ」と。そして、僕はその結果自分自身にも嘘をつき続けていたことにこのとき気づいた。
「やりたいことは何?」と聞かれても、「わからない」というのが正直な答えだった。
すっかり自分を見失ってしまっていた。それからしばらくして僕は会社を辞めた。忙しく疲弊する中で、やりたいことも見失い、休みは体を休めるだけで手いっぱいな自分に耐えられなかったのだ。
でも、会社を辞めてのんびりできるほど僕の経済状況には余裕はない。慌てて次の会社を探した。そうして僕は次に予備校に入った。子供たちに夢を与えられると思ったから、なんて思っていた。でも結果は散々だった。
予備校は建築と一緒でわからないことの連続だった。そして大事なことは生徒の成長ではなくて「数字」だ。
上司には「自発的に勉強しろ」と言われていたのに、僕はそれを無視した。動かなきゃいけないのに、身体は動かなかった。やろうという気にならなかった。
「城は何がしたいの?」
「何もしてないのによくそんなことが言えるね」
上司はあきれ顔でそう言った。その時にようやく僕は気づいたのだ。
結局僕は「何もしたくなかった」ということに。そして、そのことを認めたくなかったことにいまさらながら気づいたのだ。
「お前が何をしたいのかわからないよ」
その上司は最後に吐き捨てた。僕は何も言い返せなかった。なぜ最初の会社にいたときに、うまくいっていないことを隠そうとしたのか? そして、やりたいことをやろうとしているはずなのに、何一つ行動していないのは何故なのか?
なんのことはない。僕が理想だけ掲げて何もしようとしない、オオカミ少年だったからだ。そして僕自身が全く気付いていなかった。けれど周りの人たち、少なくとも予備校の上司は確実に気付いていた。
「何がしたいの?」
正直全く分からなくなっていた。いや「何もしたくなかった」というのが正しいんだろう。売りたくないものを無理に売りたくなかったし、興味のない建築現場を無理して頑張りたくもなかった。
そこから、その日暮らしでアルバイトを転々とした。
「こうやってただ時を費やすだけではいけない」とは思うけれど、もう自分が何をしたいのか何もわからなくなっていた。オオカミ少年の自分が、もう自分でも信用できなくなっていた。
僕も28歳になり、このころには結婚する人もいる中でふらふらしてるというのも億劫だった。でも何をしたらいいのかわからずにいたし、その状況で面接なんてできなかった。考えていることがそのまま出てしまうから面接したって落ちてしまうだけなのは自分でもわかっていた。
そうやってふらふらしていた僕のことを救ってくれたのはある一言だった。
「城さんに僕は救ってもらったんです」
後輩はあるときそう言った。たまたま後輩に呼ばれて食事に行ったときのことだ。後輩はこういった。
「自分のやりたいことは自分で決めればいいんだよ、って言ってもらってすごい救われたんです」
「いや、僕は自分のことが何にも見えてなかったし思い切り自分のことを棚に上げてたんだよ」
僕は、このころには「やりたいことをやっている自分」の仮面をかぶせきるのに疲れ切っていた。こういったら後輩はきっと僕をかわいそうな目で見るだろう。失望だってするかもしれない。だけど、後輩のリアクションは僕の予想とは違った。
「いや、そうじゃないんですよ!」
後輩は強くそう言った。
「城さんはあのころ僕らの話を一生懸命聞いてくれてて、それですごく楽しそうにしていて、すごくうらやましかったんです!」
僕は後輩に喜んでもらえるのがうれしくて、悩みを打ち明けられるのがうれしくてアドバイスをしていたときのことを思い返した。。口はうまくなかったし、伝わらないこともあった。それで伝わらないときはメッセージを送った。
僕は大学に入る前から人見知りで、自分のことが大嫌いだった。そんな自分を変えたくて試行錯誤していた。自分から新しくダンスをはじめ、ボランティア活動をして、人見知りなりに自分の世界を精いっぱい広げようとした。うまくいくことばかりじゃなかったけれど、その過程は楽しかった。新しい世界がどんどん広がっていくのを感じていた。
そして後輩が入ってきたときに不思議と自分と同じ悩みを抱えている人間が少なからずいることに気づいた。そして多分人一倍悩む性格だったから、そういった悩みを聞くのも一緒に考えるのも苦じゃなかった。そうして相談してくれた後輩の眼がそれまでより力強く輝いているのを見るのが好きだった。
「やりたいこと」ってそういうことじゃないか?
彼と話していて突如そんな想いが湧いてきた。その当時を振り返ると青臭いし甘かった。現実を見ていなかったとも思う。それでも僕はその当時今の僕にはなかったエネルギーと勢いがあった。後輩がそう言っていたように。なぜそれは失われてしまったんだろう?
「でも、それを仕事にしていくのは厳しいよ。だってさ、そうやって生きていくんなら批判もされるし、炎上するかもしれないんだよ? 城がそれに耐えられるとは思えないんだけど」
あるとき僕が書くことをしてみようと言ったに友人はそう言った。
「そうだよな」
僕はあのときそう答えた。友人の言葉は確かにそうだと思った。批判されるのは確かに怖かった。後輩にならまだしも、世間一般に向けて僕が発信できることは何もないように思えた。よく見えてもいない世間に発信して伝えたいことを見つけられなかった。
このときだったんだ。あの当時「やりたい仕事」に何か崇高な理由を捜していた自分は「書きたい」という気持ちは下賤なものに思えた。でもそうじゃなかった。それこそが大事だったんだ。あの瞬間に僕は現実から逃げてオオカミ少年になったんだ。
彼の言葉は「書いてみよう」という勇気を僕にくれた。だからって怖くなくなったわけじゃない。けどもう僕はやりたい気持ちから目を背けるオオカミ少年でいるのはやめようと思った。そうやって僕は天狼院書店のライティングゼミの門をたたいた。そして書き続けて先月からプロフェッショナルゼミに所属することになった。
そうやって新しいステージに行くたびに、自分の力量のなさと、書くスピードの遅さを痛感する。周りは毎週毎週記事を投稿してくる。なのに、時間かけて書く自分の書くものより面白いものばかりだ。自分が決めたことの壁の高さにひるみそうになる。逃げ出したい気持ちもないわけじゃない。
でも怖くてもいいんだと思った。これまでごまかしていた気持ちをごまかせないし、現実も突きつけられる。その代りにやりたいことをしているこの気持ちに嘘をついていないと言える。書いていると楽しいと思える。そんな単純なことにうれしくて泣きだしそうになる。
そんなささやかなことがオオカミ少年からさよならして新しい自分になっていく実感をくれるのだ。
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