メディアグランプリ

成功したければ、騙されればいい。


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:オノカオル(ライティング・ゼミ)

雑居ビルの4Fでエレベーターは止まった。

ウェーブがゆるくかかった長い髪をかきあげながら、
お姉さんはやさしく微笑んだ。
クリッとした目がとてもチャーミングだ。

「みて、すごいでしょ?」
彼女が伸ばした右手の先に、その光景は広がっていた。
僕の両手をいっぱいに広げてもまだ足りないぐらいの、
巨大な絵画が部屋の正面ど真ん中に飾られていた。

海に月が沈んでいる。
アクアブルーにサーモンピンク、そしてサンセットイエロー。
幻想的な世界の中で、シャチやイルカが飛び跳ねている。

誰もが名前を知るその画家の本物の画を、僕は初めて見た。
いまとなっては、それが本物かどうかも極めて怪しいところだが。

僕は、振り返ってお姉さんを見た。
腕を組んだまま彼女はこっちを見つめ、
意味深な笑みを浮かべながら深く頷いた。
僕はなんだかよくわからないまま、
曖昧な笑みを浮かべて浅く頷いてみせる。

当時、僕は大学の1年生だった。
何の用事もなく新宿の街をブラついているところを、
そのきれいなお姉さんに捕獲されたのだ。

「素敵なパーカーだね」
それがお姉さんの第一声であった。
驚いて立ち止まり、周りを見渡してみる。
付近でパーカーを着ていたのは、確かに僕だけだった。
吉祥寺の古着屋で2980円で購入した紫色のパーカーである。
パーカーにしてよかった。紫色にしてよかった。新宿に来てよかった。
声を掛けられたときはまだ、そう思っていた。

「知ってる? 紫は芸術の色なんだよ?」
お姉さんはニコニコしながらそう言った。
僕が素直に知らなかったですと言うと、
お姉さんはごくごく自然に立ち話をはじめた。

ん〜と、これは新手のナンパか?
だとしたならば僕にとってそれは、とても好都合な話だった。
なにせヒマなのだ。用事がなくて新宿に繰り出しているぐらいだから。

そのとき何を喋ったかは、じつはよく覚えていない。
すっかり舞い上がっていたのかもしれない。
シャンプーなのか香水なのか、
妙にいい匂いがしたことだけは覚えている。

他愛もない世間話をしたあと、
お姉さんは満面の笑みを浮かべてこう言った。
「近くでアートの展示会をしているの。よかったら一緒にこない?」

そう言いながらお姉さんの手は
既に僕のパーカーの袖口を掴んでいる。
すべての男は袖口を掴まれると、弱い。
いや、そんなの僕だけかも知れないが、とにかく弱い。
気づけば僕は、とある雑居ビルのエレベーターまで連れてこられていた。

どんな思考回路なのかは自分でもわからないが、
きれいなお姉さんとムフフな何かが起こるかもと思っていたのだ。
相当な自惚れ野郎である。
我ながら、まったくおめでたいヤツである。

水色を基調にした絵画の大群に圧倒されて、
ぼーっと立ち尽くす僕にお姉さんは訊いた。

「どう?」
「え、ああ、すごいですね」
すごいですね、という小学生以下のそのリアクションにも
お姉さんはどこかうれしそうだった。
「でしょ? やっぱり大きいと迫力がちがうよね」
「ん〜、まあ、そうですね」
お姉さんはまたしてもニッコリと微笑んだ。
「映画とかも大画面で見たい映画ってあるじゃない?」
「ええ、まあ、ありますね」
「絵も一緒だと思うの」
「はあ、まあ、そんなもんですかね」

どの絵が特に気に入ったかとか、
私は断然いちばんデカいのがいいとか、
芸術は心を豊かにして人生に潤いを与えくれるとか、
お姉さんはうれしそうに話しつづけた。

そうしているうちに、救いようのない大馬鹿野郎の僕でも
これが新手のナンパではないことに気づきだす。

「でもね、無理しなくていいからね。
価格帯はいろいろあるから、ゆっくり選んでね」
カカクタイ? ん?? いまなんつった???

部屋にずらりと並ぶ絵画は、大小様々なものがあった。
スケールの大きなものから小さなものまで色々あったが、
驚くべきことにどんなに小さなものでも数万円は下らなかった。

そしてもっと驚くべきことに、
お姉さんの口調は“買うことが前提”になっていた。
キンキンに冷房が効いた雑居ビルの一室で、僕は冷や汗を流す。

まるで漫画みたいなシチュエーションだった。
いま俺は、絵を売りつけられようとしている。

考えろ。行動しろ。そして、乗り越えろ。
僕は絵を凝視しながら、ない頭をフル回転させた。

ひとまず、経済力のなさをアピールすることからはじめてみよう。
財布を見せてしまうのが手っ取り早い。

幸いなことに、財布の中には5千円札が1枚と
千円札が2枚しか入っていなかった。

それでもお姉さんは引かなかった。
「クレジットカードは?」と訊いてきた。
涼しげな笑みだ。僕は震え上がった。

しかしこれまた不幸中の幸い。
僕は大学1年生で、上京したてだった。
だからクレジットカードはまだ、持っていない。

覗き込んでくるお姉さんに対して
僕は財布の中身を1枚ずつ取り出して見せた。

学生証。
TSUTAYAのT-POINTカード。
マツキヨのポイントカード。
寮の近くのラーメン屋の替え玉無料券。
駅の近くの牛丼屋の大盛り無料券。

それらを際限なく出していると、
やっとお姉さんの顔にも諦めの表情が滲んできた。

期限切れになったカレー屋のトッピング無料券が出てきたとき、
遂にお姉さんは「うん、もう大丈夫」と口にした。
お腹いっぱいになってくれましたか。よかった。
心底ほっとし、ようやく僕は財布をしまった。

そのあとお姉さんからは、見に来てくれたお礼だと言って
その画家の絵が入ったポストカードを貰った。

「1000円ね」な〜んて言われないかビクビクしながら、
引きつった笑顔で受け取った。

とまあこんな風に、僕は“勧誘”に弱い。

手相の勉強をさせてあげたら宗教に入らないかとガチで誘われ、
アンケートに答えてあげてたら、おそらくは使えないであろう
映画鑑賞券を大量購入させられそうになったり、
書店に行って本を買うつもりが英会話教室の無料体験を受けていたり、
女の子のいる店に入ったらウーロン茶だけで1万円取られたり、
ラーメン屋でチンピラから売られたケンカを買ったり。
自慢ではないのだけれど、こうして例を挙げればキリがない。

数年前はこんなことがあった。

とある日の、会社からの帰り道のことだ。
陽が沈み切ろうかという時間帯だったと思う。
もうすぐで家に着こうかというところに陸橋があるのだが、
その橋の上に、男性がひとり立っていた。

歳は40代半ばぐらいだろうか。細身の男性である。
通り過ぎようとした僕に、彼はか細い声で話しかけてきた。

「ここはどこでしょうか?」

おいおい、記憶喪失かよ。
心の中で思わず笑ってしまった僕に、
彼は申し訳なさそうにつづけた。

「千葉県の市川まで帰りたいんです。
最寄りのJRの駅はどこになりますでしょうか?」

妙にへりくだった、丁寧な話し方だった。
思わず事情を訊くと、彼はボソボソと喋りだした。
よくよく話を聞くと、財布をなくしてしまったらしい。
スイカも財布に入れていたから、帰りようがないのだ、と。

それは大変だ、と僕は同情した。
ちなみにJRで帰りたいとすると最寄りの駅は市ヶ谷になり、
その場所からはまあまあの距離があった。

僕がそのことを伝えると、
彼は歩くのは苦にならないと微笑んだ。
ただ、電車賃だけはどうにもならないので、
見ず知らずの他人にこんなことを頼んで申し訳ないが、
500円だけ貸して頂けないかと、彼は僕に頭を下げた。

500円。
なるほど、そういうことか。
社会人になって大人の社会に揉まれた僕は、
以前よりはこの世界の成り立ちみたいなものを理解していた。

彼は、お金がほしいのだ。
市川になんて帰らないかもしれない。
どんな理由があるのかはわからないが、
僕から小銭を貰えないか、画策しているのだ。

不思議と怒りはなかった。
頭を下げた彼のすっかり薄くなった頭頂部を見ていると
何だか複雑な心情になってしまい、僕は「いいですよ」と答えていた。

ただ、財布の中を覗いてみると適当な小銭がない。
100円玉や50円玉が1枚ずつ。
これでは500円に満たない。
もし本当に帰るのだとしたら、市川までは帰れない。

僕はあまり深く考えることなく、
財布の中にあった千円札を抜き出していた。
彼は驚いたような顔をした。小銭でいいんです、とも言った。

でも、500円玉はないのだから仕方ない。
「飲み物でも買ってください」と、
僕はそのまま千円札を手渡した。

彼は何度も何度も頭を下げて、
まるで賞状を受け取るみたいにして紙幣を受け取った。
そして絶対にお返しするので、住所を教えてほしいと僕に言った。

正直ここまでくるとその千円にさして未練はないので、
僕は「返さなくてもいいですよ」と答えた。
どうせなら、騙されてみようと思ったのだ。

すると彼は、水浴びした犬のようにぶるぶると首を振った。
「いや、これはプライドの問題ですから」と、頑なに譲らなかった。

そこまで言うならと、僕は住所を書いた紙切れを渡してその場を離れた。
一度だけ振り返ると、彼はまだ深々と頭を下げていた。

周りにそのことを話すと、誰もが僕を馬鹿にした。
ある者は呆れ、またある者は怪訝な顔をし、
またある者は心配までしてくれた。

「まんまと騙されたね」
「しかし薄々気づいてて千円札渡すかね!」
「その手口、最近流行ってるんだよなあ」
「タチの悪いカツアゲじゃん、それ」

僕に向けられる意見は様々だったが、
“住所まで教えてしまった”ことは誰にも言わなかった。
住所という圧倒的な個人情報を教えてしまったという、
言いようのない気味悪さを感じてはいたが、
時間を巻き戻すことは誰にもできない。

僕は自分の軽率さにほとほと呆れながらも、
“心配してもしょうがないことは心配しない”という
己のポリシーに基づき、その一件を忘れてしまうことに決めた。

それから数ヶ月後のことだ。
差出人の書いてない封筒が、家のポストに届いていた。
宛名には僕の名字があったが、なぜかカタカナで書かれている。

すっかり例の一件を忘れていた僕は、
マンションのエレベーターに乗り込みながら
無意識かつ無造作に、その封筒を開いていた。

中から千円札が1枚出てきた。
ノートをちぎったような紙に、ボールペンで書かれたであろう
お世辞にもキレイとは言えない文字が並んでいる。

それは、あの日橋の上で会ったおじさんからの手紙だった。

ウソをついて騙してしまってすいませんでした、という謝辞。
職を失い、住まいを追われ、あのときは
ネットカフェに泊まる金も尽きていたということ。
お願いした額より大きな額を渡してくれて驚いたということ。
その後、生きていくために空き缶回収やビッグイシュー販売を経て、
いまは何とかかんとか毎日食っていけているということ。
そして返金が遅くなってしまってすいません、という二度目の謝辞。

僕は、何度も何度も頭を下げるおじさんの姿を思い出していた。
手紙の最後には、こんな感謝が綴られていた。

ずっと歩きっぱなしでノドがカラカラだったこと。
もちろんお腹も空いてたけれど、ともかく水が飲みたくて、
だから「飲みものでも買って」と言われてうれしかったということ。

「すいませんでした」ばかりが並んでいた手紙の最後の最後で、
彼は「ありがとうございました」という言葉を使っていた。

僕は、お人好しの大馬鹿野郎かもしれない。
そして実際、そうなんだろうとも思う。
でもそのときばかりはこう思ってしまった。
騙されるのも悪くない、と。

世の中にあふれる“誘惑”の数々。
お金を稼ぐことだって、ダイエットすることだって、
特殊なスキルを身につけることだって、
いい文章を書くことだって、モテることだって、
人生を理想の方向に変えていくことだって。

それらが一日で叶うような夢の方法なんて、
この世には存在しない。

そう、魔法なんてないのだ。

だけど、いや、だからこそ。
もしそこに夢を見たならば、
いっそ騙されたと思って信じ切ってみればいいと思う。

まずは頑張ってやってみて、最後まで全力を尽くせばいい。
たとえうまくいかなくても、志半ばで倒れることがあっても、
後悔や反省はやり抜いてからでいい。そう思っている。

だから僕は貪欲に、“おいしい”話に手を伸ばす。
騙されてみる。
それは大抵、おいしい話なんかじゃない。
それでも信じて、やってみる。
だって他でもない自分が、そこに手を伸ばすと決めたんだから。
おいしくなるかどうかは、いつだって自分次第だ。

今日も、もがき苦しむ。
映画を見たり小説を読んだり、英語やスペイン語と格闘したり、
フィットネスジムでハアハア言いながら体をいじめ、
ヒイヒイ言いながらこの記事を書いている。

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2017-05-09 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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