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コミュ力のない女が社会に出る前に知っておきたかったこと


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:秦笑子(ライティング・ゼミ日曜コース)

 
 
「思い上がりだよ」
メールにはそう書いてあった。
 
「会社を辞めて、資格を取るために国家試験を受けます」
という、私の送ったメールに対する、同級生からの返信の1つがそれだった。
 
確かに思い上がりと呼ばれても仕方ない。私がそのメールを書いたのは、新卒で入社してからたった1年後。まだ、就職氷河期だった頃だ。大手IT企業に就職できた自分はラッキーだった。私のメールを受け取った同級生の中には、就職できずにいる者も何人かいた。配慮に欠けていたと今なら思う。
 
私の退職理由も、客観的には傲慢なものだった。
一言で言えば、「暇だったから」だ。
 
仕事で即戦力になる特技があれば別だろうが、新卒社員にできる仕事は限られる。誰でもできるような雑用を手伝い、勉強しながら伸びていく。
ところが、私が配属された部署は、「誰でもできるような雑用」が少なかった。自社製品について細かい知識がなければできない業務が多かったからだ。そこそこ仕事らしい雑用は、2年前に入社した若い先輩がやってしまい、私にはあまり回ってこなかった。
 
私のメンターに任じられた中堅の男性社員は優しい人で、「あまり仕事をあげられなくてごめんね」と謝った。内気で自己アピールも苦手だった私は、もっと手応えのある仕事をくれと上の人に噛み付くこともできず、ただ暇を持てあましていた。
 
「この会社はさ、ものすごくデキるやつと、ものすごくデキないやつが辞めていって、どうでもいいような中間層だけが残るんだよ」
 
隣の席のベテラン社員が冗談交じりに語り、私のモチベーションはさらに下がった。これから何年もかけて、「どうでもいいような中間層」になっていくのは嫌だった。
 
退屈な日々が半年ほど続いたころ、別の部署に配属された同期と昼食を食べていると、彼女が「配属先の都合で簿記の資格を取るために勉強しなければいけないんだけど、難しくて困るの」と話した。
 
その時初めて、「簿記」というものを知った。
「やることがあるなんて、うらやましいな」と思った。
 
休日に書店に行って、一番簡単そうな簿記の問題集を買い、毎日少しずつ問題を解いてみた。義務でやっているわけではないからか、けっこう面白かった。
 
退屈な日々を変える力が自分にないなら、このまま勉強して資格でも取ってみようかな、と思いついた。しかし、中途半端な資格では、大した変化は起きないだろう。
 
暇な時間を使って、簿記に関する資格をネットで調べて見た。
最も難しそうなのは、「公認会計士」か「税理士」だった。どちらも何をする仕事なのかはよくわからなかったけれど、このまま今の部署に適応するよりはましに思えた。
 
私が最終的に受けようと選んだのは、公認会計士だった。会計士試験の合格率は、当時で8%程度。平均2〜4年勉強した受験生のうち、9割以上が不合格となる試験だった。それでも会社を退職して受験しようと決めたのは、「簿記」という言葉を初めて聞いてからたった3、4ヶ月後だった。
 
「俺は、お前から見放されたんだな」
退職したいと伝えた時、部長は苦笑いして言った。
 
退職の手続きが終わり、私は「会社を辞めて、国家試験を受けます」というメールを友人たちに送った。たった1年で、せっかく入れた会社を辞めてしまい、周囲に迷惑をかけているという罪悪感があった。同世代ならわかってくれるだろう、応援してくれるのではと勝手に期待していた。
それを「思い上がり」と叩かれ、もともと人見知りで人付き合いの苦手だった私は、さらに閉鎖的になった。
 
会計士試験の予備校には、1年で一発合格を狙う「短期合格チャレンジコース」があった。2年以上勉強する受験生が大半で、全体の合格率が8%しかないのだから、このコースの合格率が奇跡的なことは間違いなかった。
それでも、予備校のパンフレットには、「チャレンジコース」出身である男性の合格体験記が、笑顔の写真とともに掲載されていた。実績がゼロじゃないなら、自分にも可能性はあるはず。そう思って、私は一般的な2年コースではなく、チャレンジコースに申し込んだ。
 
お金がなかった、というのもある。退職後は実家に戻って親の世話になったものの、予備校の学費までは頼めなかった。自分の貯金から支払える学費は1年分が精一杯だった。
 
そうして、2003年4月、水道橋の予備校での受験生活が始まった。毎日朝7時前に予備校に着き、模試をこなし、授業を受け、空き時間は自習して、夕方帰宅する。ひたすら、その繰り返しだ。
 
私は予備校の中で友人を作らなかった。
 
同じ大学の学生同士、浪人生同士、喫煙室仲間など、予備校に通う受験生たちには幾つかのグループがあり、どの講師の授業が良いか、他の予備校はどうか、どの問題集が良いか、など、それぞれに情報交換していた。
 
他の受験生にとっての1年目は「お試し受験」だ。私はどうしても1年で受かりたかった。信頼性のない口コミ情報はいらなかった。試験に関して質問があるなら、会計士の資格を持つ予備校講師に聞くのが最も確実だ。余計な問題集に手を出すより、予備校のテキストや模試を完璧に復習することにした。
 
他人との会話など、無駄な時間だと思うことにした。予備校にいる間は、弁当を食べるわずかな時間を除いて、すべて勉強にあてた。生まれて初めて自腹で学費を払い、会社をたった1年で退職したという負い目のある私は、大学受験の時よりはるかに真剣だった。
 
試験勉強中は、数人のごく親しい友人としか会わなかった。同級生の結婚式でさえ、申し訳ないと思いながら出席を断った。「思い上がり」という言葉はトゲのように刺さったままで、自分を知っている人に会うのが怖かった。
 
勉強は辛くなかった。やることもないのに会社に行き、席に座って終業時間をただ待っていた日々に比べたら、24時間を自分で決めたことに使える生活はやりがいがあった。成績は順調に伸びていった。予備校のテストで成績上位者の中に名前が入ることも増え、ベテラン受験生に追いつきつつあることを実感した。
 
しかし、正月明け、1本の電話が私をどん底に叩き落とした。
 
親友の訃報だった。
 
彼女とはクリスマス近くに会って、また会おうねと話したばかりだった。
 
衝撃はあまりにも大きく、机に向かって勉強していても、ふとした拍子に涙が出てくるようになった。予備校では、ハンカチとティッシュが手放せず、マスクで顔を隠し、風邪のふりをして鼻をかみながら授業を受けていた。
心のストレスは、身体にも影響した。右手の湿疹がひどくなり、鉛筆が握れないので、指に包帯を巻くようになった。突然、左耳に水が入ったように聞こえにくくなり、耳鼻科で突発性難聴と診断された。不整脈になり、夜中に過呼吸を起こして救急車で病院に運ばれたことも一度あった。
 
心が悲しみで出血し続けているのに、無理をしていることは明らかだった。
それでも、絶対に試験に落ちるわけにいかない、と私は思った。これで不合格になったら、親友が亡くなったせいで落ちたことになってしまう。大好きだった彼女を理由にするのは絶対に嫌だった。
 
2004年8月、会計士試験の本番が終わった。
 
それから1ヶ月以上、家でほぼ寝たきりだった。体力も気力も使い果たしていた。
 
結果は、「合格」だった。
 
簿記という言葉さえ知らなかった私が、1年で公認会計士試験に合格した。
ようやく、自分の決断が「思い上がり」ではなかったことを証明できたのだ。
 
再就職先は、100人くらいの規模のコンサルティング会社に決めた。新卒で入った会社のような何千人、何万人と社員がいる大きな組織には、もう入りたくなかった。
 
資格の力は、20代の私を支えてくれた。いくら自己アピールが下手な小娘でも、資格の価値が守ってくれた。北海道から沖縄まで飛び回り、上場を目指すベンチャーや、倒産寸前の老舗企業など、普通に会社員をしていたら訪れないような幾つもの現場に入り、経験を積むことができた。
 
ところが。
 
20代の終わりに結婚して子供が生まれると、状況が変わった。
夫は毎日深夜まで残業するのが当たり前で、子育ては私がほとんど1人で担っていた。ちょうど会社で育児休暇などの制度が整備されたため、出産後は1年間の育児休暇を取得し、復帰後は時短勤務にさせてほしいと申し出た。
 
「秦さんは子育てで出張も残業もできないし、時短勤務にするなら、報酬を下げないと他の人とバランスが取れない。時短勤務の間は、給料を以前の半分に下げさせて欲しい」
会社の役員は、「これはあなたを守るためでもあるから」と付け加えた。
できる仕事が違うのに、同じ給料をもらっていたら、他の人から反感を買うだろうから、と。
 
1年間の育児休暇が明けて会社に復帰した私は、会議室でそう告げられ、そうですか、と、つぶやいた。役員の言っていることが本当かどうかはわからなかった。いったい誰が、私の給料を知ることができ、もらい過ぎだと怒るのだろうか。なぜ半分にまでされなければならないのだろうか。
 
胸の中はもやもやしていたが、言い返す言葉にはできなかった。これは会社の決定で、私に変えることはできないのだ、と思えた。
 
会社の側にも事情はあった。当時はリーマンショック後の不景気で、コンサルティングの仕事はかなり減っていた。まして、時間に制約のある社員にもできる仕事を見つけるのは難しかっただろう。
しかし、給料が減らされるということは、会社にとって価値の低い人間になったということだ、と私は受け取った。あれほどボロボロになって取った資格も、忙しく働いてきた経験も、すでに私を守る力を失っていたのだ。
 
その後、私の給料が出産前の水準に戻ることはなく、2年後に転職した。
今度は会計士という資格を必要としない職種についた。
 
転職してすぐに、2人目の子供ができた。
今度は育児休暇もほとんど使わず、出産して3ヶ月後には仕事に復帰した。在宅勤務の可能な職場だったので、時短勤務にもしなかった。
 
「子供がいるから、できない」は、もう言いたくなかった。熱を出した赤ん坊を抱えながら、パソコンに向かって仕事をした。同僚には独身女性も多かったので、そういった大変さについて、職場で話すことも控えていた。体験のない人にはわからないと思ったし、同情されるのも嫌だった。
 
「できません」を言わない私の業務量はどんどん増えていった。定時で帰らなければならないので、子供が寝ている夜遅く朝早くに自宅で仕事をし、会社にいる間も黙々と仕事をこなした。
上司もワーキングマザーだったので、私の負担を察して、仕事の一部を同僚に引き継ぐよう手配してくれた。
 
ルーチンワークは引き継ぐことで減ったが、難易度の高い企画の仕事は残った。提案をまとめ、計画を立て、スタッフを調達して指示しなければならなかった。私は、1人で作業をこなすのは得意でも、他人にやってもらわなければ進まない企画の仕事は苦手だった。スタッフに指示したと思ったことが伝わらず、やり直しばかりで、いつもイライラしていた。
 
「もっと、幸せに働いてほしいのに」
定期的に行われる個別面談の際、上司が寂しそうに言った。
幸せに働くなんてできるのだろうか、と私は思った。会社に都合のいいように働けなければ評価を下げられ、同僚は上司の指示がなければ助けてくれず、スタッフは思い通りに動かない。でも、どうしようもない。楽しいことは何もない。これが自分のやりたい仕事かと言われれば違うと思うが、何がやりたいかもわからない。生活費のために働いている、ただそれだけだ。
「何を変えたらいいかはわからないのですが」
私は言葉を探した。
「……つまらないんです」
それだけ言うのが精一杯だった。
子供みたいだ。それじゃあ何の提案にもなっていない、と言われると思った。でもそれが本当に私の気持ちだった。
「そうかあ」
上司はちょっと考えて言った。
「そうだね。何か環境が変えられるかどうか考えてみるね」
 
そこから急に何かが変わったわけではない。ただ「つまらない」という気持ちを正直に伝えられたことをきっかけに、少しずつ、私は自分の「やりたい」を言い出せるようになった。「やりたい」がいつも実現するわけではないけれど、伝えることで、希望する方向に近づいていけることがわかってきた。
 
私のように内気で人見知りで、1人で好きなことをやり、自分をアピールするのが苦手な女の子が社会に出るなら知っておいたほうがいいこと。それは、働くって、いや、生きていくということは、結局「伝える力」を磨いていく旅だということ。伝えるのは、自分がいかに有能で役に立つか、ということだけじゃない。楽しかったり嫌だったりする気持ち。自分のやりたいこと。それを相手に伝えられて初めて、自分自身の人生になる。
仕事で実績を出したり、勉強して資格を取ったり、頑張った体験は糧になる。ただそれは、人から評価をもらうためだけじゃない。本当に伝えたいことを、相手に受け取ってもらえる人間になるためだ。信頼されるために努力するのだ。
 
そんなことがわかってきても、私の「伝える力」はまだまだだ。伝えたいことがわからず、言いたいことが伝わらず、うっかり人を傷つけ傷つけられ、関わりを持つことが嫌になる時が沢山ある。それでも、「つまらない」という一言を受け容れてもらえた時のように、自分が本当に言いたかったことが伝わった時の嬉しさを、諦めたくない。
だから今、ライティング・ゼミを受講している。伝えたいことがもっと伝えられるようになり、自分の人生を生きられるように。
 
「伝える力」でもっと、自由に旅をしていきたい。
 
 
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2017-06-01 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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