プロフェッショナル・ゼミ

互いに愛していたのなら、蜂蜜なんて舐めなければ、二人は生きていけたんだと、そう思った《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:長谷川 賀子(プロフェッショナル・ゼミ)※このお話はフィクションです。

「こちら、○○病院です。至急いらしてください……」
電話が鳴った。夕食のカレーを作っている最中だった。今日は夫の誕生日だった。私は少し早く仕事を切り上げ、いつもより高めのスーパーで買い物をして、慌てて台所に立っていた。暑さに汗ばんでいたけれど、窓から風が入ってきた。あれ、窓なんて、開けたっけ。庭に面した大きな窓が、開いていた。そんなことは、まあ、いいか。もうすぐ夫の、帰る時間だ。最後、仕上げの蜂蜜を垂らした時、電話が、鳴った。
夫からかもしれない。私は受話器をとった。

夫が死んだ。電話の声が、そう告げている。もっと違った言い方だったけれど、要するにそういうことだった。病院から自宅に電話が来た時にはもう、夫の息は、なかったらしい。夫は事故で死んだんだ。それでも私は、作りかけのカレーをそのままに、急いで家を出ようとした。一秒でも早く、夫のもとへ、行きたかった。一秒でも早く行けば、生きている夫に会えるかもしれない。まだ現実を受け入れられなかった私は、そんな妄想に駆られながら、家を出る。

病院に着くと、受け付けの看護師が、夫の眠っている部屋番号を教えてくれた。私は自然と早足になる。夫が死んだ。部屋に入ると、布をかけられた夫と、夫を救おうとしてくれたであろう医師が、待っていた。ああ、本当に、死んだんだ。
私はベッドに寄り添って、夫の息を確かめた。夫のぬくもりも、夫の匂いも、そこにはなかった。
「お悔み、申し上げます。貴方の旦那様は事故で亡くなられました」
病院で聞いたことは、それだけだった。夫の姿は、生きている時と変わらなかった。ただ、頭を強く打ったらしい。
私は夫を見ながら、呆然とそこに、立ち尽くしていた。どうしていいのか、わからなかった。
私の夫はどうして、自分の誕生日に、死んでしまったんだろう。どうして死なねばならなかったのだろう。あなたの好きな、あのカレー、私に一人で食べろというのか。さっき、カレーに入れる前、つまみ食いをした蜂蜜が、口の中に残っている。甘ったるいはずのそれが、どこか苦く感じた。本当に悲しい時、人は泣けないというけれど、私は本当に泣けなかった。涙が出てこないのだ。
ただ、どうしていいのかわからなくて、その場に、まるで私が死んだように突っ立っているだけだった。

そんな私を見かねた医師が、看護婦に促し、私を待合室へ連れて行かせた。私は慰められるように、病院のロビーへ向かって行く。
途中、警察とすれ違った。きっと事故かどうか、確かめに来たのだろう。看護師は私に気を使ったのか、何も言ってはこなかった。
ロビーに着くと、女が一人泣いていた。派手なドレスを着て、大げさに髪をセットしていた。一瞬あげた彼女の瞳は、すでに腫れていたけれど、二重のまつ毛の長い、整った形をしていた。夫好みの目の形。前に、夫とテレビを見ていた時のことを思い出してそう思った。夫好みのその目は、どこか私のことを、一瞬だけれど、睨んでいるようにも見えた。ただの小娘。キャバクラの娘の前を通り過ぎ、私は病院の出口へ向かった。
「お気をつけて」
看護師が気の毒そうに送ってくれた。今日はひとまず家に帰ることになった。葬式の準備もしなくちゃならない。寝られない日が続きそうだ。
私はその夜、一人カレーの香り感じながら、布団をもてあそんで朝を迎えた。

「奥様でしょうか。大変な時だと思いますが、至急こちらまでいらしてください」
また、電話が鳴った。今度は警察からだった。どうしたのだろう。私は何も聞かずに電話を切ってしまった。それでも、私は警察署へ向かわなければならない。そそくさと化粧を済ませ、服を着替えながら、ああ、夫を引いた犯人が見つかったのか、と思いついた。昨日は夫のことで頭の中が、いっぱいだった。加害者のことなんて、頭になかった。どんなことにしろ、行けばそれは、わかるだろう。

「どうしたんですか?」
私は、腫れた目で、聞いていた。警察官は、夫の事故が、故意犯によるものではないかと、疑っていた。
「夫は、殺されたんですか?」
私は静かに、そう、聞いた。夫は、都内のホテルの傍で、死んでいた。
「まだ、わかりません。ただ、勝手に調べて申し訳ないのですが、亡くなられた旦那様は、その日、慌てて会社を出た、とか」
「それは、誕生日だったからだと、思います。夫の、誕生日だったんです」
私は、そう説明した。そうであって、欲しかった。
「奥様、なにか、約束をされていたんですか」
「いいえ、何も。でも、毎年、互いの誕生日の日は、一緒に夕食を食べるんです」
「そうでしたか」
警察官は、表情一つ変えずに、私に言った。後は、帰っていいとそう言った。
「あの、……」
私は最後、聞いておきたいことがあった。
「病院で、夫のこと、調べたんでしょう。何か、わからなかったんですか?」
「そうですね……、ひとまず、お引き取りください。本日はありがとうございました」
私は静かにあしらわれ、家に帰ることにした。

その日は、ひたすら、家にこもって過ごしていた。夫の遺体は、当分家には、戻れそうにない。庭を見ると、草が茂っていた。夫が、綺麗にしてくれると言ったのに。先週末、ホームセンターで除草剤を買ってきて、そのまんま。夫がいなくなったというのに、なんてつまらないことを考えているのだろうと、思ったけれど、そういう日常が大切だったのだと思う。なんの意味もなくお生い茂っている草を見ながら、私の心は、虚しくなった。

結局一日何もしないまま過ごし、次の日を迎えた。なんだか、頭が重かった。今日も何も、したくない。でも、少し、お腹は減った。そういえば、何も食べていなかったっけ。冷蔵庫を開けても、空っぽだった。誕生日の夕食に、中身は全部、使ってしまった。

私は、仕方なく、うざったい日差しの中へ、出かけようとした。
けれど、ポストの前で、足が止まる。封筒が、刺さっていた。中には、100万入っている。私は、封筒を抜き取った。やはり出かけるのは、やめておこう。何だか、胸が、気持ち悪い。

部屋に私が戻ったのと、同じくらいに、警察から電話があった。
「どうしますか、奥様」
警察は、私のことに、うすうす気が付いていたらしい。それも、そうだ。自分から、彼らが病院にいた理由を、聞いてしまったから。それに、100万、私が、キャバクラの女に渡した100万が返ってきているということは、あの女が、ばらしたのだろう。客の夫に本気になった、キャバクラの娘。病院で泣いていたあの女を、私は騙して、夫をホテルへ呼び寄せたんだ。彼女を助けるふりをして、彼女の方へと流れた夫に復讐をした。

はずだった。

でも、私の気持ちは、とんでもなく、重かった。自分で自分を、殺したかのように、何かが胸に刺さっているみたいだった。

諦めよう。

私は、「はい」とだけ言って、電話を切った。もう、私の足は、一つのところへ向かっていた。
気が付くと、警察署の前に、立っている。

「さあ行こうか」
そう言った警察官について歩く。手錠がひんやりと重たい。手元を見ると、薬指の指輪がくすんで見えた。手錠の方が、磨かれていて、綺麗に見える。急に、目の淵が熱くなった。熱くなって、お湯みたいな涙が溢れた。どうしてだろう。今更、どうしてこんなに、取り乱してしまうんだろう。今まで押し殺していた、何か、隠していた気持ちが、全部、どくどくと心から溢れて、堕ちてくる。ああ、この涙、きっと、汚く見えるんだろうな。結婚指輪、磨いておけば、よかったな。そう思うと、余計に感情が止まらない。私は、夫が、欲しかったんだ。私の夫だけれど、夫の心が、欲しかったんだ。本当は、ずっと、寂しかった。最初であった頃が、懐かしかった。おろしたてのヒールでつまずいた私を支えてくれた、あのぬくもりを、もう一度だけでも、感じたかった。ときめきなんて、無くなったってよかったけれど、普通の、ありふれた幸せを、二人で一緒に感じたかった。ただ、夫を愛したかった、だけだったんだ。それはきっと、キャバクラの小娘も、同じだったのかもしれない。ただ、私の夫のあの男に、いや、他の男でもよかったのだけれど、ただ一人をまっすぐに愛したかった、だけなのかもしれない。私と同じ欲望をもった女たちへの恨みと、私が犯してしまった罪と、隠していた寂しさが、体の中に疼いている。そして、また、私と女たちを哀れにしたまま私に殺された夫もまた、私と同じことを、思っていたのだ。
「そういえば」
警察官が、夫の携帯を開く。
「取り調べ中で見せられなかったが、こんなメモが、残っていたよ。特に意味は、なさそうだけどね」
別に、大したものじゃない。死ぬ直前、私に送ろうと書きかけていた、メールだった。
「今夜は、カレーの蜂蜜、入れな……」
もう、遅い。私はあなたの誕生日、あなたの好きなカレーを用意しながら、いつものように、舐めてしまった。付き合いたての頃、やめろと注意された、蜂蜜の味見。あなたは、蜂蜜入りのカレーが好きだった。あなたの好きなものは、私だって、好きなのだ。結婚して、15年経っても、どうしても、その癖をやめられない。夫はそれを、知っていた。知っていて、それを利用して、そして独りで、後悔している。でも、もう遅い。私達は、互いのことを知りながら、それを自分のために、使ってしまった。よく、あなたとなら地獄に落ちてもかまわない、なんていうけれど、愛し合って、地獄に落ちることなんて、ありはしない。地獄に二人で落ちる時は、愛が醜い欲望に変わった時だ。そして、地獄の底に向かいながら、その過ちに気付くのだ。どうして愛してくれなかった、なんて、そんな生易しい後悔はしない。どうして、愛せなかったのだと、私の中心が疼くのだ。

夫は死んだ。そして、もうすぐ私も、死ぬだろう。目の淵から、熱い涙が零れてくる。身体が痺れて、言うことをきかない。これはたぶん、気のせいじゃない。私が家に帰る前、夫が蜂蜜に仕込んでいた除草剤が、私の体に回ったのだ。胸が、数分前より、苦しく感じる。感情と毒がとぐろを巻いて、私の体を蝕んでいく。警察はまだ、私の様子に気が付いていない。でも、確実に、私は崩れかけでいた。ああ、本当に、死ぬんだな。それでも、不思議と、怖くはなかった。夫を恨んでもいなかった。むしろ、メールを送りそびれた、あの夫に感謝していた。夫は最後に、私のことを殺してくれた。自分ばかりが生き延びることも、私だけが犯罪者として生き続けることもさせずに、ただ、一緒に地獄に落としてくれた。これが、せめてもの、私達二人のねじ曲がった、愛、だったのだ。そして、最後の最後まで、私の好きな、あなただった。賢くて、それでいて、優柔不断な、あなただった。

ああ、もうだめだ。罪を犯したこの私に、天からの迎えは来ないけれど、これが死の前であることは、嫌でもわかった。膝の力が抜けると同時に、私の記憶は亡くなった。きっと、もうすぐ、この身体もなくなるだろう。この世界に、私は、いない。あなたも、いない。でも、もし、地獄の底で、夫に会えるなら、一瞬でも会えるなら、こう伝えたい。もう一度出会えるのなら、蜂蜜の癖は、直すよ、と。そして、あなたのことを、愛していると、そう、伝えたい。私の独りよがりかもしれないけれど、ずっと地面の底の方から、夫のぬくもりを、感じる気がする。ああ、きっと、夫の腕だ。皮肉だけれど、今の私には、嬉しかった。これでは当分、本当の愛は、見つかりそうには、なさそうだ。私は、その腕に導かれながら、闇の底へと、消えていった。ねえ、あなた、またこの世で出会えたら、それでもやっぱり、蜂蜜入りの、あなたの好きなカレーを、つくるから、どうか、食べてくださいね。私の知らない私が、心の中で、泣いていた。

***

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