もし、親子の関係が、コインの裏表のようなものだと知っていれば、私は「あの人」を殺さずに済んだのかもしれない。《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:高浜 裕太郎(プロフェッショナル・ゼミ)
※このお話はフィクションです。
「やった……」
酷くジメジメした6月だった。外は雨が降っていた。肌にまとわりつくような雨だった。
私は、仕事が終わって、走ってここまで来た。傘もささずに。だから、私の頭や顔、身体を濡らしているのが、雨なのか、汗なのか分からなかった。それとたった今、雨や汗と違う色をした液体が、私の身体についていた。赤い液体だった。
私は、「あの人」を殺してしまったのだ。
私と「あの人」は、生まれた時からずっと一緒だった。というより、「あの人」が私を生んだと思う。「あの人」は、私の母親だった。ただ私は、彼女のことを母親だと思ったことが無かった。それは、彼女から受けた仕打ちが影響をしているのだと思う。
私が小さい頃、両親が離婚をした。元々、早くに結婚した母は、結婚して数年、私が2歳の頃に離婚をした。彼女は、その時22歳だった。22歳といえば、大学4年生になる。まだまだ若い。大卒だと、ようやく働き始めるくらいだ。
彼女は、高校を出てすぐ結婚した為、働いたことがなかった。ずっと主婦をしていた。それで、いきなり夫から離婚を突き付けられて、1人で生きていくことになった。まるで、サッカーなんてしたこともないのに、いきなり公式戦のピッチに立たされるような心境だっただろう。22歳の彼女には、色々準備というものが出来ていなかった。
それでも彼女は、分からないなりに、懸命に社会という荒れた海を泳ごうとした。泳ぎ方なんか、習ったこともなかったから、相当不格好な泳ぎだっただろう。けれども、彼女なりに、泳ごうとしていたのだ。
ようやく彼女は、自己流だけれども、社会の海を泳げるようになっていった。彼女が仕事に就いて、安定した収入が得られるようになった頃、私は既に5歳くらいになっていた。
その頃からだった。私に対する「イジメ」が始まったのは。
5歳くらいから、今までずっと、私はいじめられてきた。誰にいじめられたのか。私の母親にいじめられたのだ。最初は、チクリと言葉が刺さる程度だった。針でつつかれる程度のものだった。けれども、時間が経つにつれて、暴力を受けたり、罵声を浴びせられたりした。私にとって、それは針でつつかれる程度の痛みでは無くなっていた。
仕事で疲れきった母親が、家に帰ってくると、まずおもちゃで遊んでいた私を蹴飛ばした。そして、こういうのだった。
「あんたなんか生まれなければよかったのに! 邪魔なんだよ!」
私は泣いた。蛇口から水がとめどなく溢れるように、泣いた。けれども、ほぼ毎日こんなセリフを言われるのだ。時間が経つにつれて、私は泣くことも止めてしまった。それでも、母親は、毎回このセリフを言うのだった。
「あんたなんか生まれなければよかったのに!」
5歳の頃からずっと、私はこの言葉を言われ続けていた。だから、家に帰るのが憂鬱だった。家が、針地獄のように思えてならなかった。小学校の友達と遊んでいると、夕方5時のチャイムを合図に、皆帰るのだが、私は5時のチャイムが聞くことが憂鬱だった。
「お願いだから、5時のチャイム、鳴らないで!」
そんなことを思っていた。私にとっては、母親が仕事に行っている日中が、私だけの楽園だった。しかし、まるでシンデレラのように、午後5時のチャイムが鳴ると、現実という名の針地獄に突き落とされるのだった。
そんな生活を、小学校の間はしていた。しかし、中学校になると、私の中にある種の感情の変化が起き始めた。
中学生、13歳から15歳くらいまでの頃は、思春期と呼ばれる次期に重なる。その時期に、半ば思春期の副作用的な存在として、「反抗期」というものも存在する。これは、中学生が持つものだと思う。当然、私にも、反抗期があった。
中学生になっても、母親の私に対する扱いは変わらなかった。中学生にもなると、色々考えられる歳になる。何故母親は、私にこんなに冷たい態度をとるのだろうか。何故、暴力をふるうのだろうか。色々考えた。けれどもそれは、苦手な数学の問題よりも、もっと難しい問題だと分かった。だから、私はある時期から考えることを止めて、反抗をすることにした。
「お前なんか、生まれなければよかったのに! さっさと死ね!」
「お前こそ、早く死ねよ! いつも酒飲んでパチンコばっか行きやがって。お前が私に何かしてくれたことなんかあったか!」
小学生の頃は、罵声も黙って受け止めていたけれども、反抗期の全盛だった私が、ただで黙っているはずがなかった。
そして、こんな言い争いを家に帰ってからずっとしていた。針地獄だった家が、まるで銃声が飛び交う戦場へと姿を変えたようだった。お互いに、弾を切らし尽くすまで、何時間でも打ち合っていた。声が枯れるまで、言い合いをしていた。
そして、こんな戦場のような日常は、あと10年近く続くことになるのだった。
私は高校生になった。色々自分でも考えられる歳になった。自分の将来を自分で考えるようになり、将来の夢だって、漠然とだが見えていた。
「ねぇねぇ、ユキってさ、国立大行くの?」
「そうねぇ、国立じゃなきゃ、大学に行かせられないって言われちゃった、私立に行くんだったら、奨学金借りて、何とかしなさいって。両親が」
友人2人がこんな話をしている。私が通ってた高校は進学校だったから、大学に行く人も多かった。私も、大学に行けるくらいの学力は持っているつもりでいた。
「ねぇ、チアキは?」
「えっ?」
突然名前を呼ばれて、私はハッとした。どうやら、考え込んでいたらしい。
「だから、チアキはどこの大学に行くの?」
友人の1人がこう尋ねた。私は返答に困った。大学には行きたい。将来の夢なんか漠然としか決まっていない。何か人助けをする仕事。私のように虐待に苦しんでいる子供を救う仕事に就きたいと思っていた。
けれども、その夢を叶える前に、私の家だと、大学にも行かせてくれるか分からなかった。というより、絶対に行かせてくれないと思う。今の高校だって、叔父さんが必要なお金を出してくれているから、通えているのだ。さすがに叔父さんも、大学へは行かせられないだろう。
そう思うと、私が抱いている夢も、なんだか空気のように、掴めないものなのだと感じてしまった。
「ねぇ、チアキ? 大丈夫? ボーっとしてるよ?」
あまりにも返答がない私を見て、友人が心配そうに顔を覗き込んできた。その目は、私がどんな問題を抱えているのか知らない、単純に私を心配する一途な目だった。そんな目、私の母親はしなかった。だから、こういう目をされることが苦手だった。私は、あわてて顔をそらした。
「ううん。大丈夫。ちょっと昨日徹夜しちゃって」
こんなことを言って誤魔化した。けれども、私の頭には、しつこい油汚れのように、「将来の夢」についての問題が、こびりついていた。
家に帰っても、「将来の夢」なんて話せるわけがなかった。母親は、口を開けば、「バカ」とか「死ね」とか「出ていけ」しか言わなかった。まるで、悪口がプログラミングされたロボットのようだった。私も、中学校の頃の反抗期をぶり返し、また銃声のように悪口を言い合っていた。
こんな日常がずっと続くと思った。だから、私は大学も、夢も諦めていた。せめて高校を出たら、自分で仕事を探して、1人暮らしをしようと考えた。そして、その夢は叶った。
高校を出てから、私は大学へは行かずに、民間の企業で事務員として働きだした。高くは無いが、そこそこお給料も貰えた。家も引っ越した。その時の私は、まるで長いトンネルを抜け、見知らぬ世界に来たような、清々しい気持ちだった。ようやく、銃声の飛び交う戦場を抜けて、楽園に辿り着いたのだと思った。あの電話が来るまでは。
「ねぇ、チアキ。お金貸して」
母親から電話がかかってきたのは、社会に出て、1人暮らしを初めて、半年くらい経ってからのことだった。それまで、全く連絡を取らずに、絶縁状態だった母親から連絡が来たのだ。しかし、「お金を貸せ」という内容だった。
「嫌だ。お前働いてんだろ。金くらい何とかしろよ」
「もうやめた。貯金もぜーんぶ使っちゃった」
おそらく、パチンコやホストで使い果たしたのだろう。私は呆れてものが言えなかった。これが自分の母親かと思うと情けなかった。母親と思いたくなかった。
「あっそ。じゃあね」
私は強引に電話を切った。そして、着信拒否をした。もう会う事はない。「さようなら」さえ言いたくなかった。
けれども、その電話から数週間後、事態は一変した。
「なにこれ……」
仕事が終わって、家に帰ると、窓が割られており、部屋が荒らされていた。空き巣だった。通帳をはじめ、金目のものは全て取られていた。誰がやったのだろうか……
「まさかね……」
一瞬、母だった「あの人」の顔がよぎったが、さすがにそれはないだろうと思った。「あの人」に住所は教えていないし、連絡も取っていない。誰か別の人だろう。そう思っていた。
しかし、金目のものは全て取られてしまっていた。私は、抜け殻みたいになってしまった。何もやる気が起きない。せっかく掴んだ自由を、こんな風に壊されるなんて、思っていなかった。まるで、台風か何かが通り過ぎて、自分の楽園を荒らしまわったかのように思えた。
そんな中、私は出会ってしまった。「あの人」に。運命のめぐり合わせは残酷なものである。途方に暮れて、何となく行った駅で、「あの人」に出会ってしまった。
見つけた途端、私は駆け出していた。そして胸倉をつかんで、こう言った。
「返せよ! 全部取ったんだろ! 返せよ!」
私は、直感で、「あの人」が犯人だと感じたのかもしれない。考えるより、先に手が出ていた。
「あの人」は、少し驚いたようだが、いつものような冷たい目で、こう言った。
「なんのことか知らないねぇ! ただ、もしあんたが有り金全部奪われていたんなら、それは犯人じゃなくて、あんたが悪いのよ。生まれてしまった、あんたが悪いのさ!」
彼女はそういうと、私と突き飛ばした。そして、ちょうど来た電車に乗って、どこかへ行ってしまった。まるで、砂が風に吹かれて消えていくように、静かに消えていった。
それから、私は起き上がった、そして、ブレーキの壊れた電車のように、駆け出していた。冷静な頭脳なんて、そこにはもう存在しなかった。
私が住んでいた「元」家についた。普段、アイツはカギをかけない人だった。今日も、開いていた。入るなり私は、台所にあった包丁で、アイツの胸を突き刺した。アイツは突然のことで、抵抗する間もなく、絶命してしまった。普段言っている罵声さえ浴びせずに、静かに死んでしまった。それは、人間が死ぬというよりも、植物が息絶える様に似ていた。本当に静かに死んでしまった。
雨が降っていた。汗もかいていた。そして、血もついていた。私はふと、我に返り、「このまま外に出るのはマズい」と思った。慌てて、自分の着ている服を直し、家から「あの人」の服を拝借した。
そして、夜道を歩きだした。もう雨は止んでいた。歩いていると、雨の匂いにまじって、何か懐かしい匂いがした。それが、何なのか思い出せなかった。
けれども、しばらく歩いてから思い出した。私は、思わず「あっ」という声をあげた。
それは、「あの人」の匂いだった。一緒に住んでいる時は、あまり気にしたこともなかったあの匂いが、離れて暮らすと、こうも懐かしいものなのかと思った。
そして、いつの間にか、私は泣いていた。
犯してしまった罪の大きさで泣いたのではない。なんだか、この懐かしい匂いが、私を泣かせてしまったのだ。
そして私は思った。「あの人」は母親だったのだなと。大嫌いでも、暴力をふるわれても、罵声を浴びせられても、お金を取られても……。あの人は母親だったのだ。
あの人と私は、コインの裏表のような、切っても切れない存在だったのだ。だから、片方が失われた今、私は母親の匂いを嗅いで、泣いているのだ。
どんなに嫌いでも、親と子というのは、コインの裏表のように、切っても切れない縁で結ばれているのだ。母親から借りた、あの服が教えてくれたのだ。
もし、それを知っていたら。私と母親が表裏一体だと知っていたら、私は母親を殺さずに済んだのではないだろうか。そんなことを思いながら、夜道を歩いていた。
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