プロフェッショナル・ゼミ

不倫相手を待っていた29歳の誕生日、「生まれてきてくれてありがとう」の意味が初めてわかったような気がした《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:長谷川 賀子(プロフェッショナル・ゼミ)

※このお話はフィクションです

生まれてきてくれて、ありがとう。
ただこれだけで、お祝いしてもらえたのは、一体何歳の誕生日までだったんだろう。29歳の16時。私はそんなことを思っていた。秋の夕方の部屋で一人。この日は曇り空で、夕日も入ってこなかった。携帯に着信は、一つもない。でも、別に、夕焼けに誕生日を祝ってもらいたいなんて、これっぽっちも思っていない。たくさんの人に「おめでとう」をせがもうなんて、望んでいない。私は、夜が、待ち遠しい。ただ、あの人に会えれば、それでいい。私はクローゼットの中から、お気に入りの一枚を取り出した。

1年半前。私は、あの人と出会った。なにもかもが、どうでもよくなった日の夜だった。酔いに任せて、全部忘れてしまいたい。そんな気持ちでなんとなく入ったバーで、彼に会った。カウンターに座った彼を、見つけてしまった。どこの誰かも知らないし、もちろん、名前も知らない。でも、ドアを開けた瞬間、彼が好きだと、わかってしまった。一回りくらい年上に見えたその彼は、あまりにもロックのウイスキーが似合っていて、一日働いた背中から色気を感じずにはいられなかった。彼を食い入るように見つめたまま、入り口で立ち止まる私の視線を、彼はさりげなく見つけてくれた。見つけてくれて、少し口を緩めて、隣の席に私を誘った。男に誘われる時は、いつも高飛車に断っていた私だけれど、この時ばかりは、だめだった。好きになったら負け、とは、こういうことをいうのだろうか。ルールも道徳も全部忘れて、見ず知らずの彼の空気に、吸い寄せられていた。そして気が付いたら、彼の横に、座っていた。
「何にする?」
彼は、もともと待ち合わせをしていたかのように、私に飲み物を勧めてくれた。お酒の種類なんかどうでもいい。ただ酔いたくて店に入ってしまった私は、急に我に返ったけれど、隣の男の目を見たら、そんなことを悟られたくないと、思ってしまった。初めて会ったこの男の前では、女でいたいと、思ってしまった。私はなんとなくモヒートを頼んで、彼の方を向いた。
「つらいことでも、あったんでしょ」
私の名前や事情を聞くわけでもなく、自分のことを話すわけでもなく、ただ私が隣にいることが当たり前のように、その彼は声をかけてきた。
「別に、そういうわけじゃないの」
本当はこの彼に、全部話してしまいたかった。今日、このバーに来た訳を。酔いたくなったその理由を。それから、酔いに任せようと思うほど、なにもかもがどうでもよくなってしまったことを。彼に全部話してしまいたかった。私よりずっといろいろな世界を見てきて、生きてきた時間も長くて、渋さと甘さを混ぜ合わせたような空気を持った彼は、全部受け止めてくれるような気がした。
「そうか。じゃあ、乾杯」
でも、私は、話すのをやめた。大丈夫? とも、本当に? とも聞かない彼に、感謝した。強がっている私に気が付きながら、話を切ってくれた彼に、ときめいた。ちょうどいいタイミングでモヒートを出してくれたマスターにも感謝すべきなんだろうけれど、この時の私には、そんな余裕なんてなかった。彼の、乾杯、で、全てがどうでもよくなった。彼がグラスを持ち上げる。こんな小娘のグラスの下に、グラスの淵を当ててくれた。ちょうどいいタイミングでする乾杯の音は、透き通って綺麗な音がした。私がこの彼に、恋に落ちてしまった、音に似ていた。それからこの日のモヒートは、いつもよりちょっと、辛く感じた。

「よく眠れた?」
気が付いたら朝だった。目を開けると、東京の街が、下の方に小さく広がっていた。
「えっ、私……」
「キレイだったよ、千絵さん」
いつもなら、ホテルの部屋と相手の男のエスコートに点数をつけていただろうし、そもそも、そんなことをしなければならない男にのこのこと付いて行くなんてヘマ、私はしない。でも、今日は違う。ふかふかのベッドに、まっさらなシーツにくるまれて座っている私は、そんなこと気が付きもしないほど、彼の声に聞き入っていた。気が付かないうちに、知らない男について行った自分を、むしろ褒めてやりたいくらいだった。
「わたしの名前、……」
「君が教えてくれたんだよ。私の名前も教えたんだけどな、覚えていないかな」

それから私と彼は、会うようになった。彼は10歳年上のことがわかった。詳しいことは教えてくれなかったけれど、広告代理店で働いているそうだ。彼の職業なんてどうでもよかったし、きっと他の職業でも彼の選んだ仕事なら、いいなと思っただろうけれど、それでもお洒落な彼に、ぴったりの仕事だと思った。言葉のひとつひとつに気が利いているのは、そのせいだろうか。彼と話していると、時々思う。それから、彼は、何でも受け止めてくれた。泣きたいだけ、泣かせてくれたし、吐き出してしまいたいだけ、話を全部、聞いてくれた。つまらないお説教もしないし、わかったようなことも言わない。会社の同期や先輩みたいに、つまらない褒め言葉も、かけてこない。待ち合わせに遅れたことも、約束を破ったことも、一度もない。いつも私の知らないことを教えてくれたし、行ったことのないような場所に連れて行ってくれた。かけてもらったことのないような言葉をたくさんくれた。彼といると、自分がちょっと、いい女になれたような気がしてしまう。そんな風に思わせてくれるところも、幸せだった。

だから、ちょっとでも、彼に好きだと思って欲しかった。いつもより頑張って、着ていく服を選んだ。メイクも変えた。足が痛いのが嫌で低めだったヒールも、もう4cm高くした。彼に会いに行く、その支度の時間が楽しくて仕方なかった。夜、彼に会えるのが待ち遠しくて、たまらなかった。仕事を終えて、家に帰って、わざわざシャワーまで浴びてしまった日もあった。オシャレにお金を回すために、同僚とのランチを断るのも、全然苦にならなかった。今日の君も好きだよ。そう言ってくれる、彼の言葉が、欲しかった。

まだ経験の少ない私にとって、彼は、まさに、完璧だった。
全てを包み込んでくれる、紳士、だった。
私の夜の、王子様だった。

そう、夜の。

彼に一つ欠点があるとすれば、夜にしか会ってくれないことだった。しかも、大抵は平日の夜。私から急に電話をすることはあまりできなくて、彼が電話をかけてくるか、会った時に次に会う日を決めていた。あのバーでなんとなく一緒になって、会う日もあった。うすうす気が付くべきだったんだろうけれど、私はなにも気が付かないふりをして、過ごしていた。

でも、彼と出会って半年たった頃。ちょうど私の28の誕生日の日、彼は約束の時間に、こなかった。その日が何の日なのか、彼は知っていたはずだった。知っていたから、駅前のお洒落なモニュメントの前を待ち合わせにしてくれたのだ。いつも部屋の中か、あのバーなのに。この日は、外が、待ち合わせだった。でも、彼はこない。11月の風は、冷たかった。でも私は、帰ることができなかった。一秒でもいいから彼に、会いたかった。ここにいなきゃ、もう彼には会えないような気がした。けれどこの時、不思議と、彼に何かあったのでは、という心配はしていなかった。ただ、見ないふりをしていた不安が、心の隙間から漏れてしまいそうなだけだった。

約束の時間の19時から3時間ほどたった頃、私の携帯に着信が入った。画面には「公衆電話」の文字が、浮かんでいる。彼だ。公衆電話からなんてかかってきたことはないけれど、そんな気がした。
「千絵さん、ごめんね。もう帰ってしまったよね」
彼の語尾は疑問形だけれど、私が帰ってしないことを疑いもしていなかった。
「私は、待っていますよ」
「あと15分でいくから、待っていてくれる?」
「はい」
怒れるとか、寂しいとか、そういうことを思うより前に、嬉しかった。誕生日に、大好きな人に会える。そう思ったら、飛び上がりそうだった。
きっかり15分後、彼が来た。
「千絵さん、ごめんね。寒かったよね」
彼はそう言って、ハグに近い感じで抱きしめた。それから、誕生日おめでとう、と言ってくれた。いつもより、ひとつひとつの動作と言葉の間の空気が焦っているような気がした。でも、彼の空気はいつもとおんなじ。甘くて渋くてかっこいい。彼は私の手を取って、それから、カードキーを渡した。
「少し用事を片付けてこなくちゃいけないから、ここで、待っていて」
「うん」
そう私は返事をした。早く来て欲しい。そう思って目を伏せた時、彼の指元を見て、はっとした。見ないふりをしていた心の不安が、溢れかけていた。彼の左手の薬指に、うっすらと、うっすらとだけれど、リングの跡が、ついていた。暗がりの中でも、見えてしまった。浮かび上がって見えるくらいだった。嘘だ。そう思いたかった。泣きそうになるのを堪えて、私は笑った。ここで泣いたら、彼にはもう、会えなくなる。そんな私を見透かしたように、彼は言った。
「後でちゃんと、話すから」

28歳の誕生日が終わる2時間前。もらったプレゼントは、私がしていた恋は不倫だったという事実だった。それから、誕生日の終わる1分前。不倫相手としてのキスをもらってしまった。彼と初めて会った日のモヒートみたいにちょっぴり辛くて、だけど、やっぱり、甘かった。

それから私は、彼の不倫相手として、会い続けていた。前より一層私からは連絡をせずに、誰にもばれないような場所で、会うようにした。不倫はダメだとわかっていても、彼と会うことをやめられなかった。別にわたしのものにならなくてもいいから、彼の声を聞きたかった。彼の体温が、欲しかった。それに本当は始めからわかっていたのかもしれない。バーの入り口で一目惚れをした瞬間から、気が付いていたのかもしれない。あんなにも自然に誘える余裕さに、不自然さを感じていないわけではなかった。夜にしか会ってくれない「紳士」なんて、そういう例の典型だ。でも、理性も道徳も、あの日に全部、捨ててきてしまった。今、彼を失ってしまったら、私は全部、崩れてしまうような気がした。

そうして、最悪なのに嬉しくて仕方なかった誕生日から、1年が経ってしまった。また、私の誕生日がやってきた。秋の夕方。曇り空なんて、私と彼に、ぴったりだ。夜までのこの時間は、おとぎ話の準備をするみたいだった。今年の誕生日は、ちゃんと来てくれるはず。私は、この日のために買ったばかりの、赤のカクテルドレスを、クローゼットから取り出した。いつもより大きめのイヤリングをした。髪のアップにも、時間をかけた。普段より多めに、香水をかけた。鏡に映った私は、あまりにも着飾っていた。大袈裟に身に着けた全部が、何かを埋め合わせているみたいだった。私に欠けている、あるいは、逃げてしまった何かを、取り戻すみたいに、必死に見えた。誕生日って、こんなに頑張るものだっけ。携帯には友達からのメッセージどころか、家族からも連絡はなかった。こうなったのって、いつからだろう。そう思ったけれど、もうすぐ待ち合わせの時間だった。私は、いっぱいの押し入れに詰め込むみたいに、不安の扉をぎゅっと締めて、約束の場所に向かった。

約束の場所。都内のホテルのスイートルーム。私は彼より先にチェックインをし、指定された部屋へ向かった。扉を開けると、うっすら、甘い匂いがした。
先に、着ているのかしら……。
そんなサプライズを期待しながら、部屋の奥に入って行く。でも、そこに彼はいなくて、薔薇の花束と誕生日ケーキがおいてあった。「誕生日おめでとう」のカードと、「料理、先に楽しんで」というメモが置いてあった。男らしい、走り書きの文字。そして、私がメモを読み終わったタイミングで、ホテルの人が、料理とワインを運んできた。

高級なホテルの部屋で、高級な料理を、背伸びをし過ぎたドレスを着て一人で食べるほど、滑稽なことはないように思えた。泣かない。もうすぐ来てくれる。そう思うのに、心を保っていられそうになかった。音でごまかそう。そう思って、テレビをつける。すると、あの、会いたい彼が、写っていた。話題の広告のコピーライターに取材をするコーナーだった。彼、こんなにすごい人だったんだ。その広告は、私も見たことのあるものだった。そして今日、その広告で賞をもらったらしい。そして私は、想像もしなかった事実を、知ってしまった。
「この広告、妻への気持ちをモチーフにして、作ったんです。ちょうど今日、妻の誕生日で……」
彼の甘い声が、いつもよりずっと、甘く聞こえた。目の前がくらくらし始めた。数口しか食べていないのに、吐きそうだった。

私、なんて馬鹿だったんだろう。

1年と半年。理性と道徳を失って、彼のことだけ考えていた自分に、我に返った。見たことのない彼の奥さんへの申し訳なさも感じたし、社会的な罪悪感も沸いてきた。でも、それより、何より、1年と半年。その間の時間と自分が、あまりにも空っぽなことに、虚しくなった。わかっていながら、意味のないことを続けてきた自分が、情けなくなった。自分の心の弱さのせいで、どうしようもない誘惑に負けて、回りの大切なもの全部を大切に出来なかった自分に気が付いた。

生まれてきてくれてありがとう。
そういう意味の「お誕生日おめでとう」を言われなくなったのは、たぶん、大学を卒業してからだ。大学を卒業して、就職をして。でもなんとなく受かってしまったその場所で、私はなんとなく過ごし過ぎていた。意味を見出す努力もせずに、一日が終わることばかりを考えていた。あの日、彼と会った日だって、なにもかもがどうでもよくなった夜、なんていったけれど、全部、自分がなにもしていなかったからなんだ。同期や先輩の言葉を受け入れることができなかったのだって、頑張らないくせに、現状を自分が受け入れられなかったからだった。

一つの仕事さえろくに集中できない私が、よい人間関係を築けるはずもなく、ただうわべの関係で付き合っていた。というより、そうでしか付き合ってもらえなかったのだと思う。

お誕生日、おめでとう。心がぽかぽかするようなおめでとうをもらっていた時の私は、たぶん、ちゃんと時間を過ごしていたんだと思う。やりたいことがあって、話したいことがあって、話したい人がいて。自分をほったらかしてでも、役に立ちたい、そう思える友達がいて。それから、ちゃんと「時間」を過ごしている、自分のことが好きだった。自由を思い切り楽しめている気がした。

子供の頃、当たり前のように言ってもらった、お誕生日おめでとう。その時の生まれてきてくれてありがとう、は、いつかその子が、自分の足で立って「生きているって嬉しい」と言えるために贈るのだと思う。苦しいこともたくさんあって、その子だけではどうにもできないくらいつらいこともあって、生きるっていう自由は、あまりにも大きすぎるから。

でも、そういう言葉をたくさんもらって、一人で立てるようになった時、誕生日は、もしかしたら、私の生きている時間、一緒に過ごしてくれてありがとうと、伝える日なのかもしれない。自分の生きてきた時間の密度をちゃんと感じて、それを実感して、「生きているって嬉しい」と報告する日なのかもしれない。ちゃんと大切な人に、「生まれてきてくれてありがとう」と、背中を押してあげられる自分になろうとする、日々の積み重ねの一幕なのかもしれない。

私一人の空っぽの部屋、名前のないバースデーカードを見ながら、私は全部捨ててしまおう、そう思った。くだらないものは脱ぎ捨てよう。去年よりずっと最悪の、人生で一番虚しい誕生日。私は、ひとりになろうと、そう決めた。ひとりになって、ちゃんと、もうひとりの大切な人と過ごしていこう、ちゃんと時間を生きていこう、そう思った。

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