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女性を好きになった私は、いったい何者なのだろうか


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:及川智恵(ライティング・ゼミ平日コース)

 
 
好きな女性がいた。
 
それは20歳のときのこと。
私は、オーストラリアの大学に留学していた。
 
国際関係論に興味があったので、関連する分野の授業をいくつか受けていた。
その中のひとつが、途上国の開発に関するもので、その授業を担当していたのが、30代の女性の教授だった。
 
明るくておおらかな雰囲気の女性だった。オーストラリアの眩しい日差しや広い空がとても似合う人だった。
どんな学生の意見にも真剣に耳を傾けてくれた。教える側でありながらも、自分の意見を押し付けるようなことを一切せず、自らも学ぼうとする姿勢がいつも感じ取れた。
彼女自身がまだ博士課程の学生で、論文を書きながら教壇に立っていたせいだろうか。学生の立場と教授の立場のちょうど間にいてくれるような親しみやすさがあった。
また、実際に途上国の文化に溶け込みながら研究を積み重ねていた彼女は、とにかく偏見がなく、好奇心が旺盛で、いろいろな人の気持ちを考えられる優しい人に見えた。
 
そんな彼女が、私は大好きだった。
 
少しでも近づきたくて、ろくな質問もないのにメールをしてみたりした。
何を相談したらいいのかよくわからないのに、「課題の相談がしたい」とアポを取って会いにいったりもした。
彼女の授業には、他の授業以上に力を入れていた。少しでも私のことを覚えていてほしかった。
広い大学の中で彼女とすれ違えた日は、とても嬉しかった。
彼女のことがもっと知りたいと思っていたし、彼女には私のことをもっと気にかけてほしいと思っていた。
 
しかし、私の留学期間は最初から期限付き。
彼女のことを深く知ることもなく、彼女に私のことを深く知ってもらえることもなく、私は日本に帰国した。
まあ、そもそも1人の学生と教授の関係なのだから、当たり前といえば当たり前だ。
 
帰国後のことはあまり覚えていない。何度か彼女にメールをしたような気がするが、やり取りも間もなく途絶え、それっきりの思い出になっていた。
 
そんな話を今蒸し返して書いているのは、先日、Twitterである投稿を見かけたときにふと思い出してしまったからだ。
見かけた投稿がどんなものだったか、このエピソードを思い出した勢いで忘れてしまったのだが、たしか同性愛者の人の投稿で、同性愛者や両性愛者などの性的マイノリティ、いわゆるLGBTについて語った何かだったと思う。
 
ふと思ったのだ。
私があの頃教授に対して感じていた強い感情は、いったい何だったのだろうか、と。
 
単に女性としての憧れだったのだろうか。
でも、憧れと言ってしまうにはちょっと強烈すぎたように思う。
彼女への想いは、私の心の中のかなりの部分を占めていたことは間違いない。
私はたしかに、精神的にも、物理的にも、もっと近づきたいと思っていた。
 
あれがもし、いわゆる恋愛感情だったのだとしたら。
 
一度でも女性に恋愛感情を持った私は、同性愛者ということになるのだろうか。
 
いや、でも女性に対してあそこまで強い感情を持ったことは、あのとき以降一度もない。
だいたい、あの一度を除くと、私が好きになった相手は男性だけだ。
 
だとしたら、私は両性愛者ということになるのだろうか。
 
いやいや、そもそも当時の私は、恋愛経験が非常に乏しかったので、「人を好きになる」ということがよくわかっていなかったようにも思う。
やっぱり恋愛でもなんでもなく、憧れの強いやつだったのではないだろうか。いや、どうなのだろう……。
 
……考え始めるときりがない。わからない。
 
周りにLGBTの人がいないわけではない。「実は……」と打ち明けられたことも1度きりではない。
でも、自分のこととして真剣に考えたことは、一度もなかった。一気にいろいろなことがわからなくなってしまった。
 
異性「だけ」を好きになる人は異性愛者で、同性「だけ」を好きになる人は同性愛者だろう。
男性も女性も好きになる人は両性愛者なのだろうけど、どこまで行ったら両性愛と認められるのだろうか。
私のように何かしらの好意を持ってしまったら? それとも、身体を重ねたら?
 
異性愛者がある日突然同性愛者に変わることはあるのだろうか。
例えば、私がこの先女性ばかりを愛するようになることって、あるのだろうか。
「絶対ない」という断言はできないな、と思った。
あるかもしれないし、ないかもしれない、としか言えない。
 
私は本当に無知だと感じた。
そして、無知であることを承知の上で、言葉の定義や分類って、薄い膜のようなものでしかないのではないだろうか、とも思った。
 
もちろん、LGBTなどの言葉でカテゴライズすることで、「異性愛者以外もいるのだ」と知らしめるという効果は強い。
それによって、多くの人がマイノリティの存在に気づくことができる。多様性の入口はそこから始まるのだと思う。
 
でも、そのカテゴライズって、実はそんなに強固なものではないような気がする。
私が異性愛者なのか両性愛者なのか、よくわからなくなってしまったように。
 
まして、人間自身も変化する存在だ。
自分の他人の間に線引きをしていたとしても、自分がいつ線の向こう側に移動するか、実はわからないのではないだろうか。
LGBTにはまだ偏見も強い。でも、自分が偏見を持たれる側に動くかもしれない、と思うと、見方が変わるはずだ。
 
ようやくLGBTという言葉が広がりだした2017年の日本で、あえて思う。
本当は、いちいちカテゴライズするような言葉さえも必要なくなるといいのだろうな、と。
そうなったときに初めて、本当に多様性が認められるようになるのだろうな、と。
 
 
***

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2017-09-21 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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