ハガネの女《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
【10月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:西部直樹(プロフェッショナル・ゼミ)
「あっ……」
思わず声にならない声が出た。
生温かいものが太股の裏を撫でている。
揺れた。
生暖かい手が密着してくる。身体も。
太ももは昨日、無数の蚊に刺さされた跡がある。デコボコの肌は恥ずかしい。
恥ずかしがるところではないけれども。
朝の満員電車、次の駅まで3分もある。
身を固くした。
揺れに合わせて、人と人の隙間に入り込む。
逃げようと思ったのに、その手も一緒に動いてきた。
声は出せない。恥ずかしい。
生暖かい手がスカートの中に……。
夏だから、今日は朝から暑かったから……
パンストなんて暑いから……
暑いのに鳥肌が立つ。
電車が少しゆっくりとなる。
降りる駅は4駅も先だけれど、次の駅で降りよう。
少しずつ大胆になる手。
繰り返し粟立つ肌。
扉が開き、人が吐き出される。
人の流れにまかせて電車から降りる。
もう手はない。
後ろを振り返るけれど、もちろん誰だかは分からない。
駅のベンチに腰をかける。
目の前がスッと暗くなる。
貧血だ。
最低だ。痴漢に貧血。週のはじまりとしては、どうなのよ。情けない。少し涙がにじむ。
仕事中も立ち眩みがした。
下の棚の本を整理し、立ち上がったら、目の前が暗くなった。
お客さんに「大丈夫ですか?」と声をかけられた。
常連のノノさんだ。声で分かった。
「美紗ちゃん、ちょっと休んだら」
ノノさんがカフェの椅子まで支えてくれた。
昼前は、それほどお客さんもいない。
ブックカフェのテーブル席に腰を下ろして一息つく。
座ると落ち着いた。
「美紗ちゃん、働き過ぎ?」
ノノさんが心配そうにのぞき込む。
恵理ちゃんが水を運んできてくれた。
「わたしはコーヒーを、暑いけど熱いのを」ノノさんが楽しそうにオーダーをする。
主婦業のノノさん とわたしは同い年だ。同い年の気安さで、今朝の顛末を話した。
「痴漢は許せないし、あなたの貧血は心配。健康診断は受けてる?」
という流れから、鉄が足りないと諭された。
年下の恵理ちゃんからも、「わたしも貧血だったけど、鉄分とるようになったら、よくなりましたよ」と教えられた。
「鉄鍋と鉄玉子だ」三人の話を聞いていたのか、遅番だった店長が話しに入り込んでくる。
「鉄分が不足すると、血のめぐりも悪くなるしな、肩も凝る」
ちょっと脂ギッシュな50代の店長にいわれても、あまり説得力はないような気もする。が、肩こりなのはそうだ。
痴漢に貧血に肩こり、三重苦だ。
「この間、マッサージにいったら、鉄板のような肩をしてますね、ってマッサージの人にいわれちゃった」とわたしが冗談めかしていうと、みんなから「鉄だ。鉄を摂れ!」といわれてしまった。
そこまでいわれたら、鉄を摂ろう。
仕事帰りに鉄分のサプリを買った。
ネットで調べると、鉄製の調理器具で調理すると鉄分の補給になるらしい、さっそく鉄製の鍋とフライパンをポチッとする。店長のいっていた鉄玉子というのもあった。鋳鉄製の本当に玉子のような形をしたものだった。煮物などをするときなべの中に入れると、鉄分がとれるらしい。これも、ポチッとする。
しかし、サプリを飲んでみると、気持ち悪くなってしまった。鉄臭さに、ウッとなるのだ。
鉄製の調理器具は、重く扱いづらい。
鉄玉子を入れると、かき混ぜるときに邪魔だ。
しかし、なんか意地だ。
鉄を摂って貧血を治してやる。そうすれば、もう痴漢にも遭わないような気すらするのだ。
気持ち悪さに耐え、重さに耐え、邪魔くささに耐えながら鉄をとり続けた。
数週間して、ノノさんから
「美紗ちゃん、なんか顔色いいわよ」といわれた。
ちょっと嬉しい。
立ち眩みもしなくなった。
肩こりも和らいだように思う。いつものマッサージに行くと、「肌色はいいのですけどね。なんか、前より固いような気がします」と、担当の生島さんがいうのだ。彼女の施術は的確で、固い肩もほぐれるのに、今回は違った。
「鉄板のままですか……」溜息が出た。
「いや、前は筋肉が固かったんですが、少し肌が固いような感じです」
生島さんは戸惑ったような顔をしている。
そのことを恵里ちゃんに話すと
「肌に張りがでてきたってことですよ」といって私の体のあちこちを押す。
「なんかピンピンですね、あっ ここは柔らかい」
左脚の太ももの裏、おしりとの境目あたりを人差し指でグリグリと押してくる。
自分も柔らかく押し返すのが分かる。
どういうことなんだろう。
考えても分からないけれど、体調はすこぶるよい。
そして、少し困ったことに、鉄が欲しくてたまらなくなっている。
最初は、吐き気を押さえてサプリを飲んでいたのに、今では、含有量の多い輸入物のサプリを飲んでいる。けれど、それでも物足りない。
どうしようもなく、「鉄」を身体が求めているようなのだ。
先日は、鉄球を飲み込んでしまった。
ネットで比較的小さな調理用の鉄球を見つけた。鉄玉子は玉子くらいの大きさがある。舐めるくらいしかできない。
その小さな鉄球なら、アメ玉のように口に含むこともできそうだ。そう思うと口の中でよだれがたまってきた。
鉄球を見て、唾がたまるなんて……。
自分はどうなっているのだろうと思いながら、数十個まとめてポチッとしていた。
届いた鉄球をアメのように口に含んでいるうちに、つい、ゴクッと飲み込んでしまった。
鉄だから、鉄の味しかしないのだけれど、鉄の味を「美味しい」と思ってしまったのだ。
どうかしているな、わたし。
アメ玉ほどの鉄球だから、消化はもちろん、吸収はできないだろう。翌日、排泄されるだろうと思っていた。トイレでは、鉄球が出てこないか、耳を澄ませていた。
しかし、何日たっても音はしなかった。胃酸で溶けたのか? 腸のどこかに引っかかっているのか。
小さな鉄球が身体のどこかにあるのかも、と思うと少し嬉しくなった。
いや、嬉しいというのは、違う。そう感じてはいけないのではないか、と思うのだけれど、嬉しいものは嬉しい。
出てこないなら仕方ない、体調は悪くない。
数個をまとめて口に含んでみたりした。
鉄臭さが口の中に広がり、鼻に抜けていく。
深い溜息が出る。
含んでいるうちに飲み込みたくなる。
衝動をこらえて、口の中で転がしていた。
衝動に負けて、数日にひとつは飲み込んでしまう。
鉄球を飲み込んでも、トイレではなにの音沙汰もない。
大丈夫なのか、と思いつつも、鉄を食する誘惑は押さえがたい。
秋の声を聞く頃には、数十個の鉄球は胃の中に収まってしまった。
料理用の鉄球は、あまりで回ってはいないし、それなりの値段もする。
飲み込んでしまうなら、もう少し安価なものはないのか。
鉄球といえば、そうだパチンコの玉だ。
少々小ぶりだが、かなり安価だ。
思い立ったその日、夜だったけれどパチンコ店に入り、いくつかの玉を持ち帰ってきた。
白銀の鋼球は、ちょっと食欲をそそられる。
パチンコ玉を見て食欲が出るって、わたしは終わりかもしれない……。
そう思いながら、湧き出る唾を飲み込み、一玉を口に含む。
む、ウッとすぐに吐き出した。
不味い。
油臭く、鉄のふわりと鼻に抜ける味わいがない。
パチンコの玉は、人の口に入るようには出来ていないのだ、当たり前だけれど。
不純物の臭いと味が吐き気を呼ぶ。
パチンコ玉は、お店に返そう。食べられたものじゃない、といったらビックリされるだろうなあ。
店に行く途中、小さな公園を通った。さっきは気がつかなかったけれど、小さいながらも砂場もある公園だ。
砂場、砂場には砂があって、そこには、
そうだ、砂鉄があるじゃないか。
パチンコ店にいくのをやめて、文具店に走った。
教材用のU字の磁石を買い、公園に戻る。
大人の女性が夜に公園の砂場で磁石遊びというのは、なにか不適切のような気がする。が、一目などどうでもいい。
砂場に磁石を入れかき回す。
砂から引き上げると、面白いように砂鉄が付いてくる。
文具店でもらったレジ袋に砂鉄を入れる。
気がつくと、両手も砂鉄まみれになっていた。
レジ袋にたまった砂鉄を持ち帰り、さっそく摘んでみる。
ふわりと鉄の匂いがする。
これだ、わたしが欲しいのは!
しかしこのまま口に入れては不味いように思う。砂場ではいろいろな子が遊び、時には犬や猫も用を足しているかもしれない。
念入りに洗い、ついでに熱湯消毒もした。
布巾で水気を取り、ひとつまみ口に入れた。
口の中に幸せが広がっていく。
ふう、と長い溜息が漏れる。
その日から、わたしは砂鉄を求めて公園の砂場めぐりをはじめた。
無料の砂鉄で鉄欲求を満たしはじめたころ、ちょっと異変があった。
店で掲示用のポスターを貼っているときだった。
店内の少し大きめのホワイトボードに幾枚かのポスターやポップをマグネットで張り出すのだ。
マグネットをいくつも使うので、すぐにとれるように伸ばした左腕の上に並べておいた。右手でポップの場所を決め、左手で押さえ、右手でマグネットをおいていく。作業の途中で恵理ちゃんから呼ばれた。レジが調子悪いらしい。レジの不調をなだめたとき、恵理ちゃんが目を見開き、わたしの左腕を指して「それ、どんなマジックですか?」というのだ。
おろした左腕を見ると、マグネットが付いたままだ。腕を振っても落ちない。
「これは……」わたしは、なにも言えなかった。
翌日、わたしは早番だった。開店前の店に行くと、店先には取り次ぎさんから本が届いていた。本は思いの外重い。小さめの段ボールが使われている。今日は6箱届いていた。昨日ことが気になっていたわたしは、何気なく積み上げられた段ボールをひとまとめに持ち上げると、バックヤードの方へ歩いて行った。一足先に来ていた恵理ちゃんが、また目を丸くしている。どうしたの? と聞くと
「美紗さん、ずいぶん力持ちになったんですね」とわたしが持っている段ボールを見上げている。
一箱でも重たくて、時には二人して一箱を運んでいたのに、それを6箱も。自分でも驚くしかなかった。
力持ちになってしまったと驚きながら、翌日は休みだったので、久しぶりネイルをしてもらおうと半年ぶりにサロンを訪れた。鉄を大量に摂るようになってから、うまく爪が切れないのだ。いい加減古くなった爪切りのせいだろうと思うけど、ここはプロに磨いてもらおう、とおもったのだ。
しかし、ここでも……。プロが使う爪切りも、研磨機もわたしの爪には通用しなかった。
担当したネイリストさんは「鋼鉄の爪ですね」と壊れた研磨機を見て嘆いていた。
普通の爪用ではダメなんだ。
サロンの帰り、わたしは金属切断用のニッパーと包丁用の砥石を購入した。
ニッパーでなんとか爪は切ることができた。砥石で爪を磨いた。遊び半分に右手の人差し指の爪を長いままにして、砥石で爪先を磨いでみた、包丁を研ぐように。
研ぎ終わった爪で、紙の上を走らせると、見事に切れた。
ちょっと面白いけど、哀しい。人間の爪ではなくなったのだ。
鬱屈を抱え、出社すると店長から「そろそろ冬、予防接種してね」とのお達しがあった。
接客サービスをするのだから、インフルエンザにかかってはまずい。
近くの病院で予防接種を受けることにした。
順番を待ちながら、鉄の爪をどうしようと考えていた。
名前が呼ばれ、処置室で腕を捲り上げた。
ベテランの看護師さんが「ちょっとチクっとしますよ」と声をかけてくる。
その後、わたしの腕にチクがこない。看護師さんが慌てている。
針が入らないのよ、と同僚に助けを求めているのだ。
結局、わたしは予防接種を受けることができなかった。
何度か針を変えてみたけれど、刺さることがなかったから。
ベテランの看護師さんに謝られながら処置室を出た。
会計を待っていると、ドクターらしき一に声をかけられた。
「わたしは、皮膚科なのです、本業が。それで、ちょっと調べさせてもらえないですか」というのだ。
針の刺さらない皮膚は、それは珍しいだろう。
わたしもチャンスとばかりにこれまでのことを話した。
「うーん、詳しく調べてみないと分からないですが、ひとつだけいえることがあります。それは、とても珍しいということ。こんな症例を見たことも聞いたことも、読んだこともないですから」とちょっと得意そうだ。そこは得意になることなのか、と思いながら、溜息が出た。
一週間後、ドクターから呼び出しがあった。
病院に行ってみると、白衣を着た医者たちわたし待ち構えていた。
最初のドクターが、こういうのだった。
「世界で2例目、21世紀でははじめての、鉄皮症です」
「鉄の皮膚になるという、本当に珍しい、70億人に一人の病気です」
世界でたった一人の病気というのか。オンリーワンだ。哀しいけど、ちょっと嬉しい。
戦前にこのような症例がインドの男性にあったらしい。戦前のこと故、詳しいことは分からないようだ。
ただ、日常に生活は、鉄が欲しくなること、爪で紙を切れること、注射針が刺さらないこと、ちょっと力持ちになったことをのぞけば、問題はないという。
いや、十分に問題だと思うけど……、という反論は飲み込んだ。
もちろん、珍し過ぎる症例なので、治療法は分からない。
わたしは、この鋼鉄の皮膚で一生を過ごさなくてはならない。
皮膚が鉄になろうと、季節は巡ってくる。
年が過ぎ、夏になった。
鉄の皮膚でも暑いのは暑い。
蚊に刺されなくなったのはいいけれど、暑いのは暑い。
生足、というか、生鉄のまま短めのスカートを履き、満員電車に乗る。
相変わらず混んでいる。
左の太股の裏を誰かが触ってきた。
わたしは息を呑んだ。
鉄の皮膚でも痴漢は恐い。
手が、お尻の方に移動してくる。
お尻のほっぺの間に指が入ってくる。
なんだよ。
わたしはギュッとお尻をすぼめた。
ゴリ、という音が聞こえたような気がする。
隣の男性の顔が歪む。
そうか、鉄に挟まれた生身の指、万力で締め上げられたようなものだ。
フン、悪くはない、この鉄の皮膚は。
わたしは、ちょっと嬉しくなってさらに力を込めた。
隣の男性の顔がちょっと涙目になってきた。
次の駅で解放してやろう。わたしの鉄の頬が緩んだ。
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