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メディアグランプリ

LGBTとして生きることを受け入れたぼくのあれこれ


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:近藤頌(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「えっ、そうなの!?」
 
またこの反応か。と、面白いほど同じ調子の言い方だったので、ぼくは割に楽しみはじめていた。
 
LGBT(エル・ジー・ビー・ティー)という言葉。
最近よく聞くようになってきた。
映画界でいえば昨年の米アカデミー賞作品賞などを受賞した「ムーンライト」が記憶に新しい。日本では漫画「弟の夫」がNHKで実写ドラマ化され少し話題になった。
いわゆる、セクシャルマイノリティーを総じていう言葉である。
レズビアン(女性同性愛者)のL。
ゲイ(男性同性愛者)のG。
バイセクシャル(両性愛者)のB。
トランスジェンダー(心と体の性が一致していない人)のT。
と、それぞれの頭文字を並べて作られたものだ。
 
性には三つの性がある。
 
ひとつは〈体の性〉。
これは言わずもがな。
 
次に〈心の性〉。
自分は男であると認めているのか、それとも女だと認めているのか。という性自認がどちらにあるのかということ。
 
最後は〈好きになる性〉。
“心の性”を自分が立っている地点とすると、この“好きになる性”というのはどちらに歩みが向いているか、という方向性の観点になる。
 
この3つの性の組み合わせによって、一般の人向けにわかりやすくまとめたものが「LGBT」という言葉なのである。
 
具体例としてぼくの場合を当てはめてみよう。
ぼくの体は「男」である。そして心の認識としても「男」である。そして好きになる性というか惹きつけられる人というのは「男」が多い。しかし女性とも付き合えない訳でもなく、むしろ過去付き合っていた人というのは女性だけである。ということを踏まえて考えまとめると、だいたいゲイよりのバイ。ないし、バイよりのゲイということになる。だから、というのも変な話だが、ぼくは女言葉を使うことは普段もないし、女性の体になりたいとも願ってはいない。いかがだろうか。
 
そう、この「LGBT」というのはセクシャルマイノリティーの総称であって、くっきりかっちり4つの分類に全ての当事者を分類するための言葉ではないということは強調しておきたい。
あくまで「LGBT」という枠は一般の人たちにわかりやすく説明するためのものであって、この枠の中にも様々なパターンがあり、元々女性の体だった人が手術をして男性の体になったとしても、その人が男性を好きになることもあるわけである。
 
ぼくは正直に言うと、このことで学生時代いじめられたとか、苦悩したという記憶は一切ない。それは単に隠していたからに他ならないわけだが、それ以前に家庭という他の問題が重く重くのしかかっていたために、このことに関しては二の次というか、悩むに値しないこととして胸の奥に追いやられていたのだった。
しかし、社会人となり、家庭の問題も落ちどころを見つけスッキリすると、待ってましたとばかりに“このこと”が浮上してきたのだった。
 
ぼくは、なんだか今更というか、悩むことに対する疲れに嫌気がさしていたので、さっさとなんとかしてしまおうと考えた。
こう考えることができたのは、おそらく“家庭の問題”をスッキリさせることに成功した体験からくる自信とその経験から学んだ教訓、つまり先延ばしにしてもいずれ対峙しなければならない時が必ず来るということを肌感覚として知っていたからだと思う。自分の過去や家庭に心から感謝できた瞬間でもあった。
 
という訳で、まず何をしたかといえば、勉強会に参加した。
自分のこととはいえ、また映画や漫画で知っているとはいえ、わからないこともあり、さらにぼくには知り合いにLGBTの人がいなかった。もしかしたらいたのかもしれないが、ぼくと同じように隠されているので検討はつかなかった。
そこで色々な人と出会い、言葉としてセクシャルマイノリティーの実態を学び、また現実に起きている問題も知った。そしてぼくは隠すことに執着するのはよそうと、思うようになった。
 
実際、ここではおおっぴらに書いてはいるが、まだ抵抗はある。
聞かれれば嘘なく答えるが、自分から積極的に言うことはしていない。
それはやっぱりまだ怖いという感情がなぜだかつきまとってくるからなのだ。
 
勉強会に出た後日、ぼくは試しに“信頼のおける友人”に話をしてみた。
そうしたら、
「えっ、そうなの!?」
と素っ頓狂な声をその人は出したのだ。
ぼくの青ざめた顔が徐々に血色を帯びてくる。
とりあえず、味方をひとり得た。
 
なんだ、こんな感じなら次のステップもいけるかもしれない。
 
そう軽く思ったぼくは、“家族”に打ち明けることにした。
だが“家族”の壁は想像以上に高かった。
ぼくはいざ自分のことを話そうとした時、完全に口から何も出てこなくなってしまった。息もできない。口をパクパクさせて、義父、母、姉、と目線を交えながら、ついに下を向いてしまった。目からは切実な思いがこぼれるだけこぼれるのに口からは何も出ない。このままではしょうがないと悟り、ようやく準備しておいた勉強会の資料のコピーを渡し、話すきっかけを作れたのだった。
 
どうしてあの時、あんなに怖かったのだろう。
そして、怖いと思わせるのは、何に由来されることなのだろう。
気持ち悪い、と思われるのは仕方のないことだとぼくは思っている。
だって、思ってしまう訳だし。
その感情に蓋をしてもらったところでなんの解決にも進展にもならない。むしろその感情を煮立たせ濃密にし、過激な行動への起爆剤にされてしまいかねない。
けれども、たしかにぼくは多くの人とは結果として違うけれど、その行動原理というか根っこのところは同じなんだよということには理解を示してほしいと望んでいる。
 
それは人を好きになるということだ。
 
最近気付いたことなのだが、人を好きになるというのは、なんだか内側をホクホクさせてくれる。柔らかくしてくれる。
その感覚にやみつきになって犯罪に発展することもあるのだろうが、誰かを好きになり思いやりを持つことの意味、また誰かを好きで思いやり続けることの難しさゆえの憧れが、ぼくの中には芽生え始めている。
 
友人、家族、の次のステップは何かというと職場ということになるのだが、現状でとりあえず不満のないぼくは職場での公な発表じみたことをする気は今はない。
これも元を辿れば恐怖からなのだが、誰かとパートナー関係を結ぶ段階になってからこのことには取り組みたいとは思っている。
 
ちなみに人口の割合でいえば、左利きの人やAB型の血液の人と同じくらいの割合。苗字に佐藤、田中、高橋、鈴木と付く人を足した数よりも高い割合でそういう人はいるのだという。
けれど実感としては全く身近にいない。
またその少ない人たちの中から、自分の相性やら好みやらが関わってくるとなると、パートナーに果たして出会えるのかは甚だ疑問でしかない。
 
けれど、まあ、当たっていくしかないでしょ。
と開き直っている。
 
そうして味方を得たぼくは、前々から気になっていた人に告白をしてみた。
そしたら、
 
「えっ、そうなの!?」
 
前にも聞いた同じ調子。
こりゃダメだなあ、と思いつつ笑って事情を説明する。
 
無理なものは無理なのだしね。
でもこうやって自分に素直になり続けるしかない。
そうすることで、きっと世の中全体が素直になりやすい空気になるはずだとも信じて。
好きな人に好きと言える幸せを噛み締めつつ、ひとつの道が断たれた悲しみも抱きつつ、ぼくはぼくを生き続けていきたい。
 
 
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2018-04-13 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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