メディアグランプリ

「カミングアウト」の魔の手に落ちてた


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【4月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:近藤頌(ライティング・ゼミ平日コース)

 
 
そうか、これが「カミングアウト」の魔の手だったか。
と、少々自嘲混じりのため息をひとつ、ついた。
 
「カミングアウト」とは、自分が秘密にしていることを人様にお知らせし、その秘密を認めてもらえるかどうかを試す行為のことである。元々は自身がセクシャルマイノリティー(同性愛者といった性に関する少数派)であると公表することを指す言葉であったが、近年その意味合いが広がり、何かしらの理由で伝えるのがはばかれていた事柄を打ち明ける行為全般に対して使われるようになっている。
 
ぼくは前々回、このライティングゼミに投稿した記事で、まさにカミングアウトの元々の意味である、ぼくがセクシャルマイノリティーであるとの趣旨を基にした記事を提出したのだった。
個人的にはもはや今回が初めてではないし、特に自分自身気にすることもないだろうと踏んでいた。しかし、実際のぼくの身に起きた反応は想像とは違っていた。
確かにぼくがセクシャルマイノリティーであることを伝えるのは初めてではなかった。信頼のおける友人、家族にはもうはっきりと伝えているし、SNS(インターネット交流サイト)でつながっている人にも一度公表めいたことをしている。
しかし今回が今までと違っていたのは、一度の発表で多くの人、しかもあまり顔馴染みのない人たち、2週間に一度ゼミを受講するために顔を合わせるという中途半端な関わり方をしている人たちへもカミングアウトをしているという結果になっていた、という点である。一度も会ったことのない人、これからもおそらく会うことはないだろうという人に対しては何も気兼ねはないのだが、度々会うことがある、大概が話を交わさずに顔を合わせるだけの空間に自分が足を運ばなくてはならない、ということが妙にぼくの胸の内をそわそわさせた。
 
このそわそわは、怖いという気持ちと好奇心、つまりここに集う人たちは(というのもその記事には既読されたかどうかが個人レベルでわかる仕組みがあるので)その記事に触れた後ぼくに対してどういう反応、無反応の仕方をするだろうかという市場調査の面持ちがだいぶ含まれていたように思う。
 
けれどもそこが、その向き合い方がそもそもの間違いだったのだ。
 
講義を受けるために会場へと入り、その日の講演は何事もなく始まった。
ぼくは内心、どぎまぎしながらも不満に思っていた。
なんだ、やっぱり誰も話しかけてはこないか。避ける話題だよな。まだまだセクシャルマイノリティーへの差別意識は大いにあるのだ。一般的な理解にはまだまだ程遠いのだ、と。
心底失望しかけていた。
ふと手元に目線が落ちる。
ぼくの手が、少し、小刻みに震えている。
 
ぼくは気づいた。
今、ぼくはかなり緊張している。意識してみれば心臓の鼓動が、耳元で鳴っているではないか。そのことにすら意識しないと気づけないなんてこれは相当重度ではないか、と。そしてその緊張が、元々ぎこちない雰囲気のぼくを、より一層話しかけづらい存在へと高めてしまっているのではないか、と。
 
それはお門違いな失望だったのだ。
そもそも話しかけづらいぼくなのに、その雰囲気がいまや全開となれば何か会話が生まれることは期待できないわけで、こちら側からも正確な反応を感じ取れるわけはないのである。
 
さらにぼくは、ぼくの内の流れの中に、ねっとりとした感情があることを感知し始めた。
それはカミングアウトをどこか勘違いした、他者を批判する傲慢な感情であったのだ。
たしかにカミングアウトをするには勇気がいる。エネルギーがいる。成し遂げた後には、何かすごいことをやってのけたような優越感が押し寄せてくる。
でもそれは、ただその人が感じているだけのことであって、自称重大発表を半ば無理矢理聞かされた方にしてみれば、同情はあるかもしれないが、そこまで重大さが身に落ちてこないのが実情というものである。そしてそれは、当たり前のことなのだ。
いかに人間が想像力を持っているからといっても、それはその人の今までの経験に寄りかかるところが大きい。どうしてもその個人に共鳴することができない場合は、自分の中から類似した案件、人、情報とでその個人とを比較しないではいられないのであるが、人によってはそれが個人を顧みない雑な対応に思えて憤慨するということはしばしばあり、いざこざに発展してしまう場合も少なくない。
 
ぼくは、カミングアウトしたことに対して、いい気になっていたのだった。
 
どうだ、すごいだろう。
並みの人間にはできないことだぞ。
隠れている人がいたら後に続けぇー。
 
これを傲慢と言わずなんと呼べるか。
 
どんな人にも生き方を選べる権利があるはずである。
自分を解放するのも、しないのも、その後を引き受けるのはその人自身。
その人自身がちゃんと考え選択したならば、その生き方はまずは尊重されるべきなのだ。
ぼくはぼくで、ぼくの人生にとって必要なことだと思ったから、ぼくは隠すのをやめただけ。ただそれだけの話なのだ。
そこには、偉いも強いも立派も尊厳も何もない。
もしそこにそんな豪勢な価値観が生まれてしまったら、それこそ流れは逆戻りだろう。なんで自分を解放しないんだ。そんなのは駄目だ。生きてる価値がないじゃないか。と、弾圧と蔑視の往来である。
 
生きてる価値は自分で見つけてこそ、ではないだろうか。
他人に植え付けてもらってもすぐ枯れるだけ。
自分で引き受けようと思ったのならそれだけの話。途中で方針を変えたとしても、それもまた、ただそれだけの話。
色々と選択した結果痛い目を見ても、それもまたそれだけの話。
怪我を負ったら、治療をして安静にして治るまでじっと待つ。それだけの話。
 
カミングアウトは人を大胆にさせる。
何かひとつ武器を手に入れたような気にさせる。
故に孤立と紙一重なのだ。
武器を持っている人に近づきたいという人は稀だから。
 
ぼくはため息をひとつする。
 
こんなことなら、と思いかけて振り返る。
こういうぼくを受け入れてくれた人たちのことを。
 
ぼくはどうしてこの問題、と言ってしまうのも癪なのだが、このセクシャルな事柄がどうして腫れ物として扱われているのかをもっと考えていきたい。
いやもしかしたら、腫れ物として扱っているのはぼくたちの方なのかもしれないが。
しかし、どうすればこのぎこちなさが改善されるのかについては、地道で長期的な行動、言動が必要そうだ。
社会や世間のせいにせず、仮にそれらが原因だとしても、嘆いているだけでは始まらない。
ぼくにはぼくのできるやり方で、少しずつこのコリがほぐれていければいいと思っている。
そうしていつか「カミングアウト」という言葉の必要のない世界が、訪れることを願っている。
 
 
***

この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
「ライティング・ゼミ」のメンバーになり直近のイベントに参加していただけると、記事を寄稿していただき、WEB天狼院編集部のOKが出ればWEB天狼院の記事として掲載することができます。

【4月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

天狼院書店「東京天狼院」
〒171-0022 東京都豊島区南池袋3-24-16 2F
東京天狼院への行き方詳細はこちら

天狼院書店「福岡天狼院」
〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階

天狼院書店「京都天狼院」2017.1.27 OPEN
〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5

【天狼院書店へのお問い合わせ】

【天狼院公式Facebookページ】
天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。



2018-04-27 | Posted in メディアグランプリ, 記事

関連記事