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プロフェッショナル・ゼミ

なんちゃって帰国子女の苦悩《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:大国 沙織(プロフェッショナル・ゼミ)
 
 
私は、「なんちゃって帰国子女」である。
 
文部科学省の定める帰国子女の定義を調べると、「海外勤務者等の子供で、1年を超える期間海外に在留し、帰国した者」とある。
私は4歳から7歳までの3年間、父の仕事の関係でアメリカに住んでいたので、一応この条件には当てはまる。
 
しかし、「じゃあ英語はペラペラなのか」と問われれば、ペラペラどころか、恥ずかしながらほとんど話せないに等しい。
向こうでは幼稚園にも小学校にも通っていたので、どうにか少しずつ英語は話せるようになったものの、帰国したらきれいさっぱり忘れてしまったのだ。
それでもやはり日本では帰国子女として見られることが多く、でもまったく実力が伴わないので、勝手にがっかりされたり、幻滅されたりすることが多かった。
これは、私のなんちゃって帰国子女としての苦悩の物語である。
 
アメリカに住んでいたことがある、というと「かっこいいね!」といわれたりもするけれど、おそらくその人がイメージしているのは十中八九、ニューヨークとか、ロサンゼルスとか、いわゆる都会の地域だろう。
私たち家族が住んだのは、ネブラスカ州にあるオマハというのんびりした田舎町だった。
トウモロコシの生産がさかんで、広大な穀倉地帯がどこまでも広がっており、地平線まで見渡せるところもあった。
日本では考えられないような広い庭つきの家に、家族四人で暮らした。
一年を通して気温差が40℃もあるほど四季の変化が豊かで、畑では季節の野菜が山ほどとれた。
近所の人は優しく親切で、恵まれた環境だったと思うけれど、私は周りに馴染むまでが本当に大変だった。
 
まず、幼稚園の初日は地獄だった。
その日は普段送り迎えなどしない父が、車で送ってくれた。
なぜ父だったかというと、母だと離れるのが余計辛くなるだろうから、という両親なりの配慮だったらしい。
「今日から幼稚園に行くんだよ」と、あらかじめ聞かされてはいた。
けれど、言葉がまったく通じない中にたった一人で放り込まれるというのは、小さい子供にとっては恐怖以外の何物でもなかった。
父が私を幼稚園に送り届け、車で帰ろうとすると、私はこの世の終わりかのように泣き叫んだ。
もう見捨てられたんだ、と本気で思った。
父もそんな私の様子を見て、後ろ髪を引かれる辛さだったそうだ。
 
なにしろ言葉が通じないので、私は先に手が出るという悪いクセがついてしまった。
それ以外に、自分の意思表示をする方法がわからなかったのだ。
他の子が遊んでいる道具を無理やり奪ったり、邪魔だと思ったら身体を持ち上げてどかしたり、かなり乱暴なことばかりしては、よく先生に怒られていた。
不思議なもので、言葉が違っても、何を言われているのかというのは大体わかるものだ。
自分がどんな悪いことをしたのか自覚できている分、余計である。
そんな荒療治形式で私は少しずつ英語を覚え、気づけば日常会話程度の簡単なコミュニケーションはとれるようになっていた。
幼稚園に楽しく通うようになっただけでなく、近所の年上の子たちとも仲良く遊ぶようになり、両親は驚いたらしい。
 
卒園を迎えると、家から少し離れた大きな小学校まで、スクールバスで通学することになった。
インターナショナルスクールで、ありとあらゆる肌の色や目の色をした子供たちが通っていた。
毎日バスが家の目の前までやってきて、気のいいおじちゃんやおばちゃんの運転手が送り迎えをしてくれた。
私の英語力はまだまだ拙いものだったので、道中は他の子たちが寄ってたかって、正しい英語を教えてくれたものだ。
 
やっとアメリカの学校にも慣れてきたと思ったころ。
夏休みに入り、家で暇を持て余していた私は、母に見知らぬ場所まで連れて行かれた。
母は車から私を降ろすと、「じゃあまた後でね」と言い残して行ってしまった。
幼稚園初日の悪夢再び、である。
訳がわからずパニックになりそうなのを抑えつつ、とりあえず目の前にある建物に入ってみることにした。
すると、年齢のさまざまな子供たちがにぎやかに廊下を行き交い、いくつもある教室にそれぞれ入って行く。
私はどこへ行くべきかわからず、途方に暮れてウロウロさまようしかなかった。
なにしろ、紙を一枚持たされただけで、まったく何も聞かされていなかったのだ。
 
だんだん人が減っていき心細くなっていると、大人の女性が私の方へ歩いてきて「どうしたの?」と尋ねた。
英語でどう説明したらいいものか考えていると、彼女は私が握りしめていてくしゃくしゃになった紙を開いて一瞥し、「ああ、あなたはこっちよ」と言うと私の手を引いて案内してくれた。
案内された教室に入ると、大勢の子供たちが図画工作に取り組んでいた。
すでにクラスは始まっており、皆もう大分進んでいるようだったけれど、好きな分野だったので、私はすぐに夢中になった。
ところがそのクラスが終わると、私はまた途方に暮れた。
するとまた別の女性がやってきて、私の持っている紙を見ると、行くべき教室へ案内してくれた。
そんな調子で困るたびに誰かが助けてくれ、絵を描いたり、スペイン語を習ったりし、あっという間にその日は終わった。
皆が建物の外へ出て行くので、私も後に続くと、よく見慣れた車が迎えにきていた。
母の顔を見ると、「もう、前もってちゃんと説明してよね!」と私は文句の一つや二つ言いたくなったけれど、それもなんだか悔しいので黙っていた。
「楽しかった?」と聞かれてうん、と答えはしたけれど。
 
言葉も通じず、訳のわからないことばかりの環境で、私はたくましく育っていった。
困ったときは誰かが助けてくれるから、心配ないということも学んだ。
やがて、3年と少し住んだアメリカを離れ、日本に帰国することになった。
ようやく慣れ親しんだ場所や友達と別れるのは寂しかったけれど、日本にいる祖父母やいとこに会えるのは楽しみだった。
 
けれど転入した小学校で、私はアメリカで体験した以上の苦難に直面する。
とりわけ困惑したのは、「周りに合わせましょう」という風潮があまりにも強いことだ。
アメリカでは、意見を言わないのは、何も意見がないことと見なされる。
「あなたはどう思う?」と聞かれる機会は日常でも多かったし、「自分がどう思うか」が何よりも大事だと教わってきた。
さまざまなバックグラウンドを持つ人種のるつぼだから、ということもあるかもしれないけれど、どんな場面でも個々人の意見は尊重される。
そもそも皆暮らしや文化が違うのだから、意見や価値観が異なるのは当たり前。
「私は違うけれど、あなたはそうなのね!」と受け入れ、その違いさえも楽しめるような余裕が、そこには当たり前のようにあった。
だから、人と違う意見を持っていても恥ずかしいことは何もないし、むしろそれは個性であり、面白いことだと私も思っていたのだ。
日本に帰ってくるまでは。
 
日本の小学校では、少しでも人と違うことをしたり、言ったりすると、どこか白い目で見られた。
あの子は変、というレッテルを貼られた。
私は初め、周りの子たちがどうして自分を変な目で見るのかわからなかった。
いくら子供と言っても、自分たちと違うもの、異質なものには驚くほど敏感だ。
帰国して初めて付けられた私のあだ名は、「魔女」である。
 
そんなこんなだったので、馴染むのにはかなりの時間を要した。
いや、今でも日本社会に馴染めているとは言い難いのだけれど……。
思ったことは口にしてしまうし、一旦は我慢しても、やっぱり言わないと気が済まない。
したくないことは、いくら周りがしているからといっても、できない。
それは、中学や高校に進んでも変わらなかった。
人というのは、なかなか変われるものではない。
小さい頃に染み付いてしまったものなら、なおさらだ。
 
部活に入っても、行きたい時しか行かない。
当然ながら先輩には目をつけられ、いじめられたりもしたけれど、気が進まない時も自分の気持ちを押し殺して行くよりは、マシだった。
興味の持てない授業や、協調性の求められる体育祭や文化祭も、図書室に逃げ込んでサボっていた。
本が好きだったので、そうやって時間を潰す方がずっと楽しかった。
今は本当はこうするべきなんだろうな、と頭ではわかるのだけど、心の方がついていかない。
自分のそんなところはよくないと思ったし、何度か矯正しようと試みたけれど、ストレスで病んでしまった。
性格は自己主張が強くアメリカ的なのに、英語はほとんど喋れない、というなんとも中途半端な自分が、嫌でたまらなかった。
つまるところ、究極にワガママなのだ。
でも、仕方がない。もう私は、そういう風にしか生きられない。いい加減受け入れよう。
心からそう思えた時、不思議なことに周りの反応も変わってきた。
ほんとに自分に正直でいいね、とか、言いたいことハッキリ言うから見ていて気持ちいい、と言われることが増えた。
もちろん集団の中ではうまくやれないこともあったし、協調性がなさ過ぎると言われたりもしたけれど、自分はこうだから仕方ないと割り切ってからは、何を言われてもあまり気にならなくなった。
 
大人になって驚いたのは、「自分がどうしたいのかわからない」という人種が一定数いることだ。
私はフリーランスで仕事も本当にやりたいことしかやらないので、「やりたいことがちゃんとあっていいね」と言われたりするのだが、皆自分の意見はしっかりあって、それを押し殺して周りに合わせているのだとばかり思っていた。
周りに合わせることばかり考えて気にしていると、自分の気持ちに鈍感になってしまうのだろうか。
「やりたいことがわからない」というのは、どんな感覚なんだろう。
時間がどれだけあっても足りないぐらい、やりたいことがたくさんあるというのは、もしかしたらとても幸せなことなのかもしれない。
正直なところ、中途半端な時期に帰国を決めてしまった両親を、どこかで恨んでいた。
そのせいで、ずっと生きづらさを抱えて生きてきたと思っていた。
でも私は、自分探しなんてしなくても、自分が何をしたくて何をしたくないのか、ハッキリとわかる。
知らないうちに、「自分の気持ちに正直に生きる才能」というかけがえのない宝物をもらっていたのだ。
日本にも海外にも、どっちにも染まりきれない「なんちゃって帰国子女」の私だけれど、これからも自分に素直に、胸を張って生きていきたい。
 
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