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メディアグランプリ

14才の人生脚本


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:近本由美子(ライティング・ゼミ 木曜コース)
 
15才までに人生の脚本が決まる。
その話を心理学の専門家から聞いたのは人生の折り返しをとうに過ぎた頃だった。
15才までの体験、環境、関りの記憶がその後の人生に大きく影響するということだった。
それは、運命ともいえる親との出会い。育った場所。といういたく他力によって影響を受けるということになる。
私の年齢になると、幼かった頃の記憶はずいぶん曖昧になっている。それでも自分の中での強烈な体験の記憶は今でも残っている。
 
中二の頃のある出来事が、今でも私の人生の真ん中にあるように思う。
私の育った家は、普通のサラリーマンの家庭だったが、正直明るい家庭とは言えなかった。
一つは、両親が小学生の頃から病気がちで代わる代わる入院をしていたからというのがある。母が入院した時は、親戚の家に預けられ子供ながらに肩身の狭い思いをした。
もう一つは、両親が心配性であったことだ。とくに母の未来予想は不安と心配におおわれていた。起こりもしない心配事を口にする母の影響はボディブローのように効いていた。
私は自分の未来に重い雲が垂れ込めているようなそんな気分になっていた。
たとえば「あなたは、カラダが弱いから」と心配という母流の思いやりで私にいつも語り掛けていた。実際私は、中学に入るまで痩せていて食も細く顔色も悪かった。
母の愛情表現は心配と悔やむことでいかんなく発揮されていた。
それが母の愛情表現と自己承認欲求だったということはずいぶんあとから気づくのだけれど。
父が入院するとそれは拍車がかった。「お父さんがこのまま入院が長引いたらどうやって生活をしていったらいいのかしら?」と言って時に心配で子供の前で涙を流すのだ。
父も繊細で神経質な人だった。自分の体調が悪いとしつけという名目でよく正座をさせられ私は叱られていた。
病弱で線の細い親に心配をかけまいと家でこころを開放することがなくなっていった。
私の人生脚本が作られる時期はそんなわけで明るくなかった。
 
ただ唯一の救いがあった。それは走ることだった。私は短距離走が得意で運動会の徒競走やリレーではいつも一番だった。そんな時は父も母も喜んでくれて、少しだけ家の中が明るくなった。
中学になると陸上部に入部した。ところが、進んだ中学には陸上の専門の先生がいなかった。顧問は数学の先生だった。練習のやり方を教えてくれるのは上級生の先輩だった。
そんな環境だったけれど13才の私は打ち込むものが出来て嬉しかった。それは家の中の暗さから救い出してくれるものだった。思春期のうまく消化できない感情とエネルギーを発散できる自分の居場所でもあった。
結果、私は少しずつ速く走れるようになり、小さな大会で優勝するようになった。
やる気も増していった。
ところがここで思いもよらない事件が勃発した。私が100mや200mで試合に優勝すると顧問の数学の先生が酔っぱらってタクシーに乗って、うちに必ず来るという事態が発生した。
嬉しさのあまりなのかもしれないが、うちにはお酒を飲む親戚がおらず酔っ払いを見たのは先生が初めてだった。今だから話せるが、その先生は必ず私を呼んで目の前に座らせ、母が席を外すとわたしの手をしっかりと握るという恐怖の行動に出るのだった。
この時間は中学生の私には地獄のような時間だった。
優勝すると必ずお酒を飲んでやってくるのだ。当時の教師は今と違ってもっと絶対的な存在だった。時代も昭和でおおらかな時代だった。大人の世界ではよくある普通のことかもしれないが私には免疫がなかったし、気分は最悪だった。
そのうち、試合になると「もし一番になったら、またあの先生がきっとくる。だとしたら一番にならないほうがいいかもしれない……」と考えるようになった。そんなことを真剣に悩みながら試合当日を迎えるようになった。
そしてこう思うようにした。
「頑張って一番になろうなんて思って走らなくっていいんだ。走るけど勝とうとか思わず走ろう。なるようになって神さまが決めてくれる」
勝ちたいけど、勝つと酔っ払い先生がそのあとやってくる。だからどっちでもいい。
中学二年生の私が悩んだ末至った考えだった。つまり執着をなくすということ。
そんな気持ちでスタートをするようになった。するとどうしたことかドンドン勝ち進んで県大会の決勝に進むところまできた。
ところが強豪校みたいにすごい練習をしているわけでもなく、体力があるわけでもなかった。
200mにいたっては最初から飛ばして走ると最後まで走り切れないという恐怖があった。いつも自分の中でペース配分をして走っていた。そんな走りは県大会の決勝では通用するはずはなかった。
もともと是が非でも勝ちたいなんて思っていないからそれでもよかったのだ。
ところが、忘れもしない200mの決勝のスタートラインについた時、「ヨーイ」の合図がなかなか聞こえない。「アレ? スタートについたのにどうしたのかな?」 と思ってチラと目を上げてみたらみんなお尻を上げてヨーイの構えになっていた。
「まずい! 聞こえなかった!」 と思ってお尻を上げた瞬間、ピストルが鳴った。
「出遅れた!」と思った私は200mを初めてスタートから飛ばして走ってしまった。そう走ってしまったのだ。カーブを出たところで先頭を走っていた。このままゴールまで走れるのだろうかと思っているうちテープを切った。結果、2年生で100m、200mを県大会で優勝したのだ。
私は優勝を目指したわけではなかった。あの時どうして私にだけ「ヨーイ」の掛け声が聞こえなったかは今でも不思議だ。神さまのいたずらだったのかもしれない。
そうしてその日はやっぱり酔っ払い先生はうちにやってきた。
 
この中二の頃の体験は、私の中に大きなインパクトを残した。絶望的な状況でも何が幸いするかわからない。精一杯やったらあとは執着を手放すことが答えを導いてくれるものなのかもしれない。そうして人生は自分以外の力で動くことがある。
それは14才までの体験から感じ取ったことだった。それは今でも私の人生脚本のベースのどこかにある。
 
その4年後、私はインターハイ100mの決勝のスタートラインにいた。その心構えは中二の私が教えてくれた通りに。

 
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2018-12-20 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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