日本一長い名前を子供につけた、ある夫婦の話
記事:野田賀一(ライティング・ラボ)
「ねぇねぇ、これ。やった方がいいと思う? それともまだ早いかな?」
帰宅早々、テーブルにつくなり、妻が1枚の紙を差し出して話始める。
普段はコップ一杯のお茶を飲み干して、1日のお互いの報告の後にこの手の話が始まるのだが、
恐らく、回答期限が迫っているか、
もしくは悩みに悩んでそれでも答えが出ずモヤモヤしているかのどちらである。
「アメリカ人の先生が保育園まで毎回来てくれるんだって。凄くない?
どこもこんな感じなのかな? 他の子供はどうしているのかな?
英語始めるなら早い方がいいよね? ねぇ、どう思う?」
やはり予想通り、子供の話である。
そして矢継ぎ早に極めて回答しづらい、
答えを一つでも間違えようものならあえなく戦死必須のこの質問は、
スーパーマリオに例えるなら
ボス船でチビマリオになってしまった状態で、
キラーの四方八方からの乱れ打ちを交わしていくあの感覚に似ている。
「いや、まだ2歳だし、言葉の意味も分かってないからまだ早いんじゃない?
将来、自分が英語覚えようと思ったら、その時に覚えると思うし」
月謝7,000円という、保育園料の3分の1程の費用もネックと思うので、ここも一応抑えておく。
「1年で換算したら10万くらいするからね。高いよ」
「やっぱりそうだよね。今回は見送ろっか」
どうやら、今回は無事に死線を潜り抜けられたようである。ふぅ。
我が家は、今年で子育て3年目。
妻と共働きで、土日のどちらかは主夫として子供と二人っきりで過ごす。
最初は戸惑いもあったが、今では子供と公園に遊びに行くことや料理を工夫するのが大好きだし、
何より子供の成長を側で見られる幸せを感じている。
だからこそ、子育ても妻と協力していきたいと常々考えているが、仕事帰りのタイミングでは少々酷な質問である。
ちなみに、今夜のこの手の話は毎月一度くらいの頻度で登場する。
保育園以外にも実家の母、親戚、ママ友、職場の同僚、果てはGoogleやYahooまでもが妻の情報源だ。
なんでも、1歳前後から3歳ぐらいから始めるものとして、
スイミングや英会話、リトミックなるものは当たり前の方で、
中にはそろばん、習字などの昔ながらの定番モノから、
親子で参加出来る親子ヨガや親子バレエなんていうものもあるようだ。
自分が同い歳くらいの頃は……と思いを巡らせてみても、その時の記憶なんて全く浮かんで来ない。
果てさて効果は疑わしいところではある。
ただ、教育以外にも親子で参加することで、母親のリフレッシュの目的もあるようで。
なるほど、そう考えるとお得な感じがするな。
とつい、いつもの妻の「一石二鳥でお得でしょ理論」が頭をよぎる。
さて、これは我が家だけに限らず、
子供が産まれた後の家庭では、こういった「習い事」についての話が繰り広げられていることと思う。
この世で一番大切な、宝である我が子。
自分が小さい時に出来なかったこと、やりたかったことをやらせてあげたいという親心。
中には食費を切り詰めてまで、習い事に通わせるなんて友人もいるくらいだ。
なんと、涙ぐましい話だろうか。
どれくらいのことをさせてあげることが出来るのか?
家庭の収入と、親の想いに比例するこの問いは各家庭にそれぞれの考え方があり、否定も肯定もする気は毛頭はないのだが、
ここは落語の寿限無という演目を引き合いに質問を投げかけたい。
「その熱い想い、子供への一方通行になっていないか?」
その真意に迫るために、
「じゅげむ、じゅげむ」で始まるこの話とは何か見ていこう。
この話は落語界では前座噺と位置づけられており、
新人の早口言葉の練習、単純に繰り返される言葉遊びでハードルが低い笑いのレベル
などと揶揄されている。
七代目立川談志いわく、『どうにも工夫の余地がない』
いわゆる基礎中の基礎のようなものである。
話も分かりやすく、
① 夫婦に子供が産まれるが、名前をまだつけていないことに妻がヤキモキする。
↓
② 急かされた旦那がいい名前を付けてもらうために、物知りの長屋の隠居を訪問する。
↓
③ 縁起の良い言葉を選ぼうと思い、どんどん聞き出す。
↓
④ 沢山あるがゆえに選べず、せっかくだから全部取り入れて長い名前をつける。
↓
⑤長い名前のせいで、日常生活に支障をきたしたところで、オチ(サゲ)。
という構成だ。
ちなみにどれだけ長い名前かというと、
「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末、食う寝る処に住む処、藪ら柑子の藪柑子、パイポパイポ パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」
※読み※
「じゅげむじゅげむ、ごこうのすりきれ、かいじゃりすいぎょの、すいぎょうまつ、うんらいまつ、ふうらいまつ、くうねるところにすむところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの、ちょうきゅうめいのちょうすけ」
数えてみるとなんと136文字もある(笑)
こんな名前をつけられたら、誰だって親を恨みそうなものだ。
人生のあらゆる名前を書かなければならないシチュエーションが憂鬱なのである。
考えただけでゾッとする。
「名前は人生で一度しか決められないもの」
という常識が根底にあるからこそ面白い話であるが、
この”名前”の部分を”習い事”など、他のことに置き換えてみると、
不思議と色んなパターンに当てはまる。
おお!これはひょっとしたら、一つの「夫婦・親子間の方程式」ではないか!
こういったやり取りは江戸時代から何ら変わっていない。
そういうところがまた、落語が現代まで残り続けている理由でもあるが。
そして、皆さんもお気づきの通り、
この方程式の解は、
「親の一方通行の愛情表現の結末は、時として悲惨な結果を生む」である。
だが、悲しむことはない。
至極簡単な論理で、
一方通行の行き先は行き止まりが分かっているのなら、そうしなければ良いのである。
つまり、子供からの愛情表現や自己表現も受け止める。対面通行にすれば良い。
これは子育てをして分かったのだが、子供は甘えるだけではなく、
イタズラやワガママで親の注目を引きたい行為や、
得意げに話をしてきたり、図画工作を見せてくることも全て親へ向けての表現である。
大人みたいに言葉巧みに表現できないから態度で示すのだそうだ。
泣き止まなかったり、イタズラをなかなか止めない時には、
「これはどういったことを表現しているのかな?」 と一拍置いて考えてみれば、
何もイライラする必要もない。
事実、うちの子供はかんしゃく持ちで上手に出来ないとすぐに「キーッ」となるが、
補助したり、諭すように話かけてみたら段々と出来ることが増えてきた。
その分、時間は倍かかるので、子育てはつくづく忍耐だなと感じる。
時間をかけられない時など、葛藤の連続である。
習い事も含めた大小様々なイベントを通じて、子供と対面通行が出来て初めて、
良好な親子関係の寿命が限りないものになる。
「寿限無」という話をそのように捉えられれば、無味な演目も一味もふた味も違って楽しめると感じた、一児の父。落語家見習いである。
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