母が「母親」を辞めたあの日
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記事:神岡麻衣(ライティング・ゼミ日曜コース)
「あなたと私は、もう親子ではありません」
この人は何を言い出しているのか、しばらく脳が追いつかなかった。都内の喫茶店でケーキを食べて談笑していた最中に、突然母がこう言った。
ドラマのワンシーンさながらのセリフ、まさか私が言われる側になるなんて。
すでに私は実家を出ていたので、次に会ったのは数か月後。このとき、ついに母はこう言い放った。
「私たち友達じゃん!」
とうとう完全に私たちは親子ではなくなった。
この話を周囲に話すと、珍しい間柄だと高確率で驚かれる。この一連の事件を、私は「友達宣言」と呼んでいる。
「友達宣言」を受けて、妹たちに相談したこともある。この時まで、私は妹に相談を持ちかけたことが一度もなかった。単純に意地を張っていた。こんな緊急事態、さすがに放っておけない。もれなく「私も言われた」と返ってきた。
どうして母娘の関係でいられなくなったのか。
母は幼少期からピアノが大好きで、地元の大学を卒業し、数年働いてから専業主婦として3人の娘を育て上げた。文字だけ見ると、いたって普通のお母さんだ。
変なエピソードを強いて挙げるとすると、ピアノを20代半ばまで続け、先生に「もう教えることはない」と破門されたことがあるらしい。祖母も母も話していたので、さすがに嘘ではないだろう。
そして、当たり前だがそんな彼女の実の娘である私。
思い返してみれば、私の記憶の中の母は「友達宣言」をやってのけるような人ではなかった。もし学生時代の私が今の状況を見たら、驚いてひっくり返るだろう。
一言でいえば、昔の母は鬼だった。
長女だったせいか、私は厳しく育てられた。ピアノはもちろん習わされた。上手に弾けないために怒られ、私はピアノが嫌いだった。門限は厳しく、少しでも遅れると叱られた。勉強も部活も両立できずにいると、「私はダメ人間なのかな」と思うほど厳しく問い詰められた。「大学受験をしない」と私が話せば、母が激怒したことも覚えている。
友達と長電話をして横で怒られ続けたときには、「早く実家を出て自由になりたい」と感じていた。正直母が嫌いだった時期もある。
私の就職後、すこし母が変わりはじめた。家のことばかりやっていた母が、習い事を始めた。破門されるほどやりつくしたピアノである。
発表会に向けて練習したり、「発表会で着る衣装、どれがいいと思う?」と相談してきたり。私に相談してくるなんて、いままであり得なかった。
「グランドピアノ買っちゃったー! 見て見て!」とLINEを送ってきたことがあった。しかも、そのLINEにはキラキラ絵文字が散りばめられていた。母のLINEがカラフルだったことに衝撃を受け、天変地異が起こるんじゃないかと心配した。
なぜ「友達宣言」に至ったのか、実は一度だけ母に尋ねたことがある。
「3人姉妹の子育てが終わったら、今まで我慢してきたことをやるんだ」と思い続けていたという。
結婚するまで大阪の梅田でOLをしていた母。よくよく当時の話を聞けば、うらやましいほどのリア充だった。仕事帰りにスイーツを食べに並んだり旅行に何度も行ったり。結婚してからこれを封印していたという。
父の仕事は転勤が多く、母も私たち3姉妹も一緒に日本各地を転々とした。私自身「友達とすぐお別れするのはつらいなあ」と思い、自分の人生が思い通りに進まない感覚を抱いていた。母は覚悟の上だったというが、自分を押し殺して3人の娘を育てるには相当我慢が必要だっただろう。
私が生まれてから妹が大学を卒業するまでの約30年間、母は「母親」を演じていたと気づいた。実は「友達宣言」後の母が、本来の姿だったと。
あえて伝えていないが、「30年も自分を隠していたなんて、あなた女優じゃないの」と、私は思っている。
思い返せば、ときどき母は鬼でない瞬間も見せていた。
「ああ、京都のあのお店のスイーツが食べたい」
ふとした瞬間に気が緩み、設定が飛んでしまったのだろう。
母としての立場から解放されたせいか、信じられないほどの天然ボケもかましてくるようになった。
しゃぶしゃぶ屋で、店員の案内を受けた直後にNG行為をやってのけたときは驚いた。すかさず私も「それ、やっちゃダメだって言われたじゃん!」と友達を相手にしているかのようにツッコミを入れる。
いまでは「パソコンやスマートフォンの設定を教えてよ」と母から相談の連絡が来るほどだ。「暇だから電話してみた」といきなり電話が来ることも増えた。
マイナスの感情を抱かずに母と話せることは、以前の距離感ではありえなかった。
母の「母親宣言」を経て、今の私たちは良い距離感で付き合えている。
「母親宣言」は私たち親子に良好な関係をもたらした。
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