トラウマを恐れない子育て~豆まきに思うこと~
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事 飯田あゆみ(ライティングゼミ平日コース)
「いやだぁ~、もう帰りたい~」
「おがあさ~ん、こわい~」
節分から一日遅れて、今年も阿鼻叫喚の豆まきが終わった。
私は、2,3歳児の野外保育をなりわいにしており、週に一回、子どもたちを預かって野外で遊んでいる。
先日はその野外保育でいつも遊んでいる里山に鬼がやってきた。
冒頭は、その時の一部の子どもたちの反応だ。
鬼さんには、事前にかなりソフトな対応をオーダーした。怖がる子を無理に追いかけて脅かさないように頼んであったのだ。姿も大人から見るとかなりユーモラスだ。それでも、鬼が怖い子は最初から最後まで泣いている。
もちろん、好奇心旺盛だったり、ヒーローにあこがれ『僕は強い』と思っている子たちは、果敢に鬼に向かっていく。そういう子にはある程度、怖い思いをしてもらう。
こんな豆まきの場面を見た時、あなたはどう思うだろうか?
「大人が仮装しただけの嘘くさい鬼に泣いちゃうなんて、かわいい~♡」
「勇気を育てる良い機会だと思う」
「日本の伝統行事だし、文化を伝えるためにもやっておくべきだ」
「子どものトラウマ(心の傷)になるのがかわいそうだからやめてほしい」
考え方は人それぞれなので、どの立場の人がいても全くかまわないとは思っている。
ただ、私は豆まきに限らずいろんなことが「子どものトラウマになるから」と制限されていくことには、抵抗がある。その理由を書いてみたい。
最初に伝えたいのは、鬼が帰った後の子どもたちの反応だ。あれだけ、怖がって保育スタッフにしがみつき、抱っこされて泣いていた子たちも、ばっちり鬼の姿は観察し記憶していることが多い。
「手が裸だった」(←全身タイツといえど、手先までカバーされていなかったので赤鬼なのに手だけが肌色だった、という意味)
「髪の毛がもじゃもじゃだった」
「強いパンツを履いていた」(←トラ模様のパンツを履いていたという意味。“おにーのパンツはいいパンツ~、強いぞ~、強いぞ~♪”という歌から来ていると思われる)
見事に覚えている。あれだけ泣いていたのに、不思議とちゃんと見ていたのだなとわかる。
そうして、子どもたちは、自分の見た情報を出し合う中で、「ぼくだけじゃなくて、みんなもこわかったみたいだな」と気づき、気持ちを共有していく。
時には怖かった気持ちが強すぎて記憶が変形し「鬼は牙が生えていて、自分にかみつこうとした」などと言うこともある。でも、これは、ウソを言っているわけではなく「それくらい怖かった」という気持ちの表現として、「そうなんだね、こわかったね」と聞くようにしている。
そうして、一通り話し尽くすと、子どもたちは安心したように日常の中に戻っていくのである。
私はこの経験から思い出すことがある。それは、阪神淡路大震災の時に被災地の遊び場で起きたお話だ。
神戸市長田区は被害が最も大きかった地区で、揺れによる建物の倒壊のほかに火災被害も甚大だった。子どもたちは、地震の後、普段遊んでいる公園がテントの建ち並ぶ避難所になったり、炊き出しのスペースになったりで、遊びに飢えていた。日常から楽しいことが消えてしまい、周りの大人も不安そうな顔をしている。そんな時、日本冒険遊び場づくり協会が、被災地の子どもたちへ遊びの支援に乗り出した。公園の一画を利用して、即席のプレイパーク(大人が見守りながら、子どもの自由を最大限尊重する遊び場)を作ったのだ。子どもたちは、すぐさま飛びついた。周りの大人たちは「この非常時に子どもの遊び場なんて!」と冷めた目で見ている人もいたという。その後の話は、当時、協会の副代表を務めていた天野秀昭さんが、あちこちに書かれている。
「震災から一か月がたった頃、大人は被災体験を話し始めたが、子どもは自分の心を語る言葉を持ち合わせていない。二か月ほどたった頃、積み木を重ねては「震度7だ」と言って何度も壊したり、新聞紙に火をつけて「まちが燃えている」と叫んだりするような「震災ごっこ」が流行した。被災した大人にとって不愉快なこの遊びこそが、子どもたちにとっては話すことと同じように被災体験を表現する手段であり、乗り越えようとしている表れだった。被災地では子どもの気遣いは二の次になりがちであるが、子どもは遊びを通じて自分を自由に表現し、自らを癒すことができる。」
同様のごっこ遊びは、東日本大震災でも「津波ごっこ」として見られ、「自己治癒遊び」と呼ばれたりした。
地震だけでなく、災害や事故は突然やってくる。どんなに物理的に対策をしても避けられないこともある。子ども可愛さのあまり、あらゆるトラウマの種を先に取り除こうとする「カーリングマザー的子育て」をしていたら、こんな時にどうなるだろう? 子どもは自分を回復させる手段を学ぶことなく成長してしまい、災難に直面した時にも、本来持っているはずの心の自己治癒力を発揮できないのではないか。心の傷に蓋をし、見ないことにし、忘れたことにして、その傷を奥深くに閉じ込めて膿ませてしまうのではないかと思う。そして、忘れた頃に、その傷が暴れだすのだ。
節分の豆まきは、元来神事であり、子どもの遊びとは別のものであることは承知している。なので震災後の遊びと同一視点で語ることに意味があるのかどうかはわからない。だが、この神事成立の時代に比べ、理不尽な災難に遭う経験が圧倒的に減ってしまった現代において、年に一回、自分ではどうにも太刀打ちできない鬼がやってくる経験は、怖さや辛さという克服しがたい感情をどう整理していくかという良い練習の機会になっているのではないか?
生きていれば理不尽はやってくる。それにどう対応していくかを教えるのが子育てならば、あらゆる辛い経験を遠ざけようとすることより、体験の中でいかにしなやかに乗り越えていけるかを練習する機会として、恐ろしい鬼をとらえなおしてみてもいいのではないか?
毎年、阿鼻叫喚の豆まきを笑って眺めながら、そんなこ難しいことを考えているわけではないのだが、少子化で子どもが大事にされる世の中、「大事にする」ことの意味を問い直してみたいと思ってこれを書いた。
「トラウマになるから、経験させたくない」「まだ早い」「乗り越えられるようになってから与えたい」
親子関係が近すぎる人ほど、鬼に限らず、子どもからあらゆる苦難を遠ざけようとしがち。
だが、果たしてそれは、本当は誰のためなのだろう?
トラウマを作らないことより、たとえトラウマになったとしても、それは自分で直せるものなのだと知っている方が安心して生きていけるのではないか? それを知るためにも、私は、年に一回恐ろしい鬼が来る日があってもいいんじゃないかと思っている。
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