「父よ、泣くな」とは、わたしは言えない
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記事:かのこ
「もう、僕らのこと、忘れてしまうかもしれんのや……」
はじめてだった。父の涙を見たのは。
父とわたしは、家族以上でも以下でもない関係性である。そもそも父は寡黙な部類なのだ。純粋天然お笑いマシーンの母とは違い、父は人見知りで真面目で、家族の前でしか笑顔を見せられないような人だった。感情を素のまま見せることが苦手な人だった。
わたしが非行に走ろうと、弟が反抗期を迎えようと、父は感情的になることなくわたしたちに語りかけてくれた。父に叱られた数日後にもらう手紙には、父のわたしに対する想いはもちろんのこと、わたしの非行がバレた日の感情さえも丁寧に綴られていた。わたしは非行少女だったくせに、その手紙を読み返すのが好きだった。父もたぶん気付いていたはずだ。そうでなければ、わざわざ叱った直後に文章を綴ることなんてしないだろう。
自分の感情を見せるのは苦手なくせに、文章にすれば、思いの丈を綴れるような人だった。
その父が、はじめて、わたしの前で泣いた。
きっかけとなったのは父の母、すなわちわたしの祖母である。父方の祖父母の家は二軒隣りにあったから、週末にはたびたび遊びに出掛けて、一緒に夜ごはんを食べていた。祖父母の家に行くと出前寿司やケーキを食べることができたので、わたしも弟も喜んで会いに行った。みんなで特番を見ながらトランプで遊び、弟が眠くなってきたらみんなで帰る。幼いころは、そんな週末をよく過ごしていた。
けれど、長くは続かなかった。体を悪くした祖父母は、次第に自室から出られなくなった。わたしが大学生になった頃には、正月にだけ顔を見せるような間柄になっていて、わたしも弟もそれが普通だと思い込むようになっていたのだ。
ある日、祖母が入院した。
わたしは大学の中間考査前なのにバイトに精を出していて、それでも単位は落としたくなかったから、レポート課題を必死に書いている最中だった。ノートパソコンに参考文献から拾った物事をひたすら綴っている途中で、ノックの音が響いたのである。適当な返事をしたら入ってきたのは予想に反して父親だったから、わたしもちょっとだけ、身構えた。父との日常的な会話は、当時ほとんど失われつつあった。
「おばあちゃん倒れたん、聞いとるか」
「……うん。おかんから聞いた」
「そうか」
ノートパソコンから顔を上げて、椅子をわざわざ半回転させて、父と向き合っていたけれど。父の表情はあいかわらず無表情だった。何も子どもに伝えようとしない、それでいて何が言いたいことがあるんだろうなと予想できる表情。祖母が倒れたのは何度目かだったから、わたしは特に気にしていなかった。
「おばあちゃんな、今、〇〇病院におるねん」
「それも聞いたで」
「そうか」
いつものように苦笑を携えていた父親が、数秒、ドアの向こうに引っ込んだ。鼻を啜るような音が聞こえて。今、スギ花粉が飛んでる時期だったっけ? わたしが思考を巡らす間に、ドアの向こう側から声がする。
「お見舞い、行ってくれんか」
べつに言われなくても。誰かが誘うなら行くし、誰にも誘われないなら行かないよ。そんな感覚でずっと過ごしていたわたしにとって、その一言は別に重くも軽くもなかった。いいよ。承諾しようとして口を開いたときだった。
「もう、僕らのこと、忘れてしまうかもしれんのや……」
はじめてだった。父の涙を見たのは。
一瞬だけわたしに涙を見せた父はすぐにドアの向こうに引っ込んで、想像のままに語るなら、……おそらく号泣していた。普段ならだれにも見せないであろう涙と感情を駄々洩れにして。父は、たった一枚の壁を隔てた向こう側で、ただひたすらに涙を流していた。だって、嗚咽が時たま聞こえたのだ。感情のすべてを垂れ流しているかのように、壮絶な嗚咽だった。
後から知ったことだが、祖母は認知症が進んでいた。元からカルシウムを摂取するのが苦手だったから、骨がとても弱く、ベッドから動くこともままならなかった。そのうえでしっかりと判明した、認知症。要介護5の人間が認知症になったとき、徘徊を心配する必要はないとは言えども、そりゃあ、親族にとっては。自分や昔の記憶をいずれ忘れられてしまうだろうという、苦しみにとっては。
わたしはどうしても、軽い「いいよ」を言えなかった。
最近会っていないとはいえ、祖母の笑顔が脳裏に張り付いて、父に軽い言葉をぶつけることができなかった。父はずっと祖母を診ていた、医者だったから。
――身近な誰かが、もしも「わたし」を忘れてしまう未来があるとすれば。たとえば今の恋人がわたしを忘れてしまうとすれば、たぶん普通に、正気でいられなくなるだろうと思う。わたしのすべてを忘れることはなくとも、彼がわたしの昔の姿しか覚えていないのだとすれば、それはもう、衝撃的なことだ。耐えられない。
でも、65歳以上の高齢者の認知症患者数を照らし合わせたとき、2025年には5人に1人が認知症になるという調査が内閣府から出ている。両親の父母が健在なのだとすれば、そのうちの誰か1人が認知症を発症する可能性は非常に高い。わたしたちが彼らに「忘れられる」確率は、とても高いのである。
違う名前で呼ばれることの衝撃を、深い悲しみを、あなたも感じることがあるかもしれない。意外とつらいものだ。「それ、わたしの名前ちゃうよー」と笑いながら訂正するたびに、でも認知症の人を否定するのってダメなんじゃなかったっけ、という不安が蓄積していくから。何度も同じパターンを祖母と繰り返すうち、わたしも、ちょっとめげそうになった。祖母と接しているわたしならまだしも、己の母と接している父親のダメージは、きっと計り知れないほどのものだっただろうなと思う。
だからわたしは、「父よ、泣くな」とは、言えない。
父にだって、医者にだって、というか誰にだって、泣きたくなるときはあるはずだ。世間の声で振り回されて、泣くことまでもを恐れることはない。自分を守るために泣くことだって、あるはずなのだ。無理してまで涙を我慢する必要性なんて、きっとどこにもない。
大ごとじゃなくたっていい。あなたはあなたの感情に、素直に、生きてほしい。
文章への変換をわざわざ通さなくったって、大いに揺さぶられる感情は、誰かに通じるはずだから。
今年、父の還暦祝いに、ニューバランスのスニーカーを贈った。還暦だからといって赤いちゃんちゃんこを送るのは気が引けたので、「N」のロゴだけがしっかりと赤いウォーキングシューズを。LINEを通して御礼もくれたし、年末年始に帰省したとき、あらためて礼を述べてくれた。
「あれもらってから、もっと歩くようになったで。ありがとう」
聞けば、2駅往復分の距離を、毎日歩くようにしているらしい。開業医には必要のないウォーキング力だ。それでも父は、わたしが贈ったスニーカーで、毎日歩いてくれている。
涙だけでなく、喜びの感情をも、わたしに向けてくれるようになった。
なんとなし、それがとてつもなく嬉しい。父がわたしのことを忘れたとしても、わたしはきっと、同じスニーカーを見付けるたびに父を思い出すだろう。
どの感情も、押し殺すべきではないのだ。
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