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意味が分からん!―日本史のキチガイ裁判


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:鈴木亮介(スピードライティング・ゼミ)
 
 
俺はいま盗っ人の疑いをかけられている。
 
先日、この村の寺から本尊の不動明王像が盗まれるという事件が起きた。
この不動明王像は、ある日何者かによって持ち去られてしまった。事件から数日後、この不動明王像は人気のない田んぼの中に捨てられているのを発見され、無事回収された。だが、領主はこれで事件を終わらせなかった。領主は事態を重く見て、政所(まんどころ)の者に「犯人探しを続けるように」と指令を出した。
事件からひと月あまり経って、政所に俺を含む何人かの者が集められた。皆、札付きの悪だった。俺も昔はいろいろ悪事を働いたものだったが、最近は改心して畑仕事を真面目にやっているつもりだ。どうやら政所の奴らは、村の成らず者の中に盗人がいると疑っているらしい。
でも俺は、断じて盗みなど働いてはいない。
 
しばらくして政所の役人が、口を開いた。
「先日の仏像盗難の犯人を探すため、「湯起請」を執り行う」
俺は全身に冷や汗をかいた。俺に限らず、聞いている者はみな顔を曇らせた。
「湯起請」をやるだと。
あんな馬鹿げたことをやるのか。
あんなの人間の思いつく行為の中で、最も残酷な類いのものだ。
湯起請をやるなんて、たまったもんじゃない。
でも、いま逃げるわけにはいかない。
いま湯起請に怯えて、この場から逃げてしまえば、逆に自分がやったと白状しているようなものだ。
だから自分の無実を証明するには、逃げるわけにはいかないのだ。
 
俺たちは村の神社の前に連れて行かれた。どうやら、ここで湯起請を行うようだ。
役人に神棚の前に立つように命じられた。
俺たちの目の前には黒々とした釜があって、その中にはぐつぐつ煮えたぎる湯がある。
釜の中を覗いてみると、底のほうに小石がいくつか見えた。
政所の役人が言った。
「この煮える湯の中に手を入れて、小石を探れ。さすれば、神のご加護により無実の者は手がただれず、盗人だけが火傷を負うだろう」
釜に手を伸ばす。ものすごい熱気だ。からだ中に冷や汗が出る。
俺はえいっと、熱湯に手を入れた……
 
これは「湯起請」と呼ばれる、室町時代にあった神判。
実際にあった事例をもとに、想像して書いてみた。
神判とは、神意をもって、物事の真偽や正邪を明らかにする裁判方式のことだ。
つまり嫌疑をかけられた者の有罪無罪を判断しかねる場合、最終手段として神の奇跡をたよりに「真相」を知れるとされた。
湯起請は室町時代に急速に広がった神判で、当事者が熱湯に手を入れた後に火傷を負うかどうかで、主張の真偽や有罪無罪の判断に使われた。
 
いやいやいや、意味がわからん!
歴史の授業で初めて知ったとき、僕もそう思った。
熱湯に手を入れて、火傷するのは当たり前だろ!
あちちちちっ! っとなるに決まってる!
なんで、そんなキチガイじみた慣習が裁判として執り行われていたのか?
 
今から述べるのは、数ある仮説の1つである。
元々、中世社会はもめ事の多い社会だった。
室町時代の村は、近隣の山林や田畑などの領地を巡って、近隣の村との紛争が絶えなかった。
紛争が激化して、村人たちが武器を取って、近隣の村人たちと命のやり取りをすることもあった。
そんな「外」との争いの絶えない社会では、少なくとも村の「内」の秩序を保つ必要があった。そのため、村の調和を乱す者を受け入れる精神的土壌はなかった。
冒頭の物語のように、湯起請にかけられる者は元々黒い噂が耐えなかったり、前科があったりした者だった。あるいは匿名のタレコミで、告発された者だった。
湯起請にかけられる時点で、その者は村の異端分子だったのである。
そういう困った人は、「ムラ」という共同体の維持には有害になりかねない。
つまり湯起請は、異端排除の絶好の機会だったのかもしれない。
その者が、実際に当該の罪を犯したのかどうかは分からない。
それはともかく、その者が湯起請で「有罪」になって村八分になり、その結果ムラの「平和」が保てるなら、それはそれで結構なことだろうと考えていたようである。
 
さらに、湯起請により形式上「犯人」が捕まることになる。
それも、犯人は以前から黒い噂が絶えなかった者だ。
それを聞くと、村人たちは少なからず安堵する。
「ひょっとしたら、まだ周りにも盗人がうろついているのかも」と、普段の生活で疑心暗鬼になる気持ちが薄らいでいく。
これは現代人でも、似た感覚を覚えることはある。
自分の住む地域で凶悪事件が起きたとき、犯人が捕まらない限り、自分の身にも何か危険が起きるのではないかと心配になる。それが長く続くと、もう誰でもいいから犯人が捕まって、安心したいと気持ちになってもおかしくない。
 
要は、ムラ社会の「平和」のため、湯起請は最終手段として利用されていたようだ。
現代の感覚と大きく違うのは、全体の幸福のために、冤罪が生まれることをためらわなかったことである。
いや〜、ムラ社会は怖い怖い。
 
現代の裁判では、人を罰するのに、客観的な証拠が求められる。
それに現代はDNAや指紋のような科学捜査も発達しているし、町のいたるところには監視カメラがある。昔と比べて、証拠能力の高いものが多い。
だからもし法的な紛争に巻き込まれても、物的証拠に基づいて議論され、証拠不十分なら「疑わしきは罰せず」とされることになる。
現代でも冤罪は絶えないが、この室町時代の「湯起請」と比べると、現代の裁判は恵まれているなあ、としみじみ思う。
近代国家、バンザイ。
 
 
 
 
参考文献
清水克行(2010)『日本神判史―』中央公論新社。
 
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2020-03-20 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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