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牛スジを煮込むために会社を休んだら、未来がちょっとだけ変わった話


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:香山せの(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
「あした、お休みいただいてもいいですか?」
上司が打ち合わせから帰ってきた一瞬の隙をついて、有給の嘆願にいった。
ありがたいことに、うちの会社には何日前までに申請しなければいけないというルールがない。
ルールがないということは、べつに前日でもいいだろうということで、たまたま打ち合わせが入っておらず、急ぎの仕事もないので休むことにした。
「おぅ、いいけど、どうかしたんか?」
「い、いえ、大したことじゃないんですけど…」
語尾をあいまいにして、高いヒールのパンプスを通勤用のスニーカーに履き替え、逃げるように会社を出た。
 
ほんとうは、有給を取ってまでしてでも、突然かつ猛烈に牛スジを煮込みたくなったのだ。
 
ちなみに、わたしは料理ができない。
素材の良さをふんだんに生かして(というかほぼ素材のままで)切るなり焼くなりするのが関の山で、オーブンを駆使したり煮炊きしたりという高等技術はいっさい持ち合わせていない。
生まれてこのかた、居酒屋で牛スジの土手焼きを酒の肴に頼む以外に牛スジと触れ合ったこともない。
 
なのに前日、自分のスキルを鑑みず突発的に牛スジを買い物カゴに入れてしまったのだ。
とりあえず、3時間でも5時間でもコトコト煮込んでやったら、どうにか始末はつくだろうという完全な見切り発車である。
 
数週間前にあけて飲みきれなかった赤ワインが残っていたので、それで浸けてトマト煮込みにすることにした。
 
ネットでできるだけ簡単そうなレシピを探した。
体育会系男子学生が寮で作ったものをアップしているサイトを見つけた。
失礼極まりない偏見であるが、体育会系男子学生が作れるならわたしにも作れそうな気がして、彼のレシピに従うことにした。
 
レシピ通り、赤ワインと生姜に牛スジを浸けて冷蔵庫で一晩寝かせてみた。
下ごしらえするなんて生まれてはじめての経験で、この時点ですでに満足感がある。
最後まで煮込み終えたときの達成感たるやさぞかし凄いだろうと思うと俄然ワクワクしてきた。
 
翌日、いよいよ牛スジを煮込む日である。
気合いを入れて就寝したはずなのに、気がついたら昼ごろまで泥のように眠っていた。
自覚はあまりなかったが、どうやら最近疲れていたらしい。
仕事は10年目に差し掛かる。
上司には結果を求められながら、優秀な後輩の突き上げを食らうという、絶妙なお年頃である。
 
開始は遅れたが、夜までまだまだ時間はある。
まず、刻んだニンニクを炒めて香りを出し、そこにトマト缶と浸けておいた牛スジをぶち込むという手筈らしい。
 
チューブでない生のニンニクを扱うのもはじめてだ。
ニンニクはいくらあってもプラスにしかならないだろうとレシピより多めに入れて、無事に牛スジの煮込みがはじまった。
 
あとは、弱火で待つだけなので、手持ち無沙汰になった。
 
切れかけていたシャンプーをネットで注文したり、ネット動画を漁ったりしたものの煮込みは長期戦である。
 
何をしようか考えていると、ニンニクの香りが漂ってきた。
一人暮らしの狭い部屋はあっという間にニンニク臭で占拠され、さながら東南アジア辺りの国にいるような気分になった。
 
ちょうどいいので旅行気分を味わおうと適当なヒーリングミュージックをYouTubeで流しながら、普段まったく使っていないヨガマットを引きずり出して仰向けで寝転んでみた。
 
身体のチカラを抜いて、頭を空っぽにする。
ちょっと前に何度か通ったヨガの先生の声が蘇る。
「吸って〜吐いて〜。あなたの体からチカラが抜けていって〜、森の中の泉の近くにいるようなイメージが湧いてきま〜す。そこにいる自分の姿を想像してくださ〜い」
ヨガの先生ってだいたい語尾が伸びてるな。
そんなどうでもいいことを思いながら、自分の体がマットに沈んで行くのを感じた。
マットを突き抜けたら、そこは明るい光が差し込む森の中で、透明な水を湛えた泉が穏やかにゆらゆらと水面を揺らしていた。
泉のほとりに、もうひとりのわたしが座っている。
彼女は、明るい陽射しの中で真っ白なワンピースを着て、発光しているように見えた。
口元はちょっとイタズラそうに口角をあげて笑い、こっち側のわたしをジッと見つめていた。
 
ここ何年か、わたしは黒い服ばかり着ている。ワンピースもニットもスカートも靴もすべて真っ黒だ。
自分は黒が似合うから、毎日黒だと楽だからという理由をつけていたが、ほんとうのところ黒い服は鎧なのかもしれない。
年々、会社でプライベートなはなしをするのが嫌になってきた。聞かれたくないことも言いたくないことも増えてくる。
黒は周りから自分を遠ざけて、傷つかないように保護するための防護服なのだ。
 
もうひとりのわたしは「そんな時代もあったよね」とでも言うようにちょっと偉そうな、充実した面持ちで、光を一身に受ける真っ白の服を着て、わたしを待っているようだった。
 
室内のニンニク臭が最高潮に高まり、牛スジの煮込みができあがった。
わたしの1日(と正確には前日の晩も)をかけて出来上がった牛スジは、最高においしくて、やわらかくて、なんだかちょっと涙が出そうになった。
 
牛スジを煮込むために会社を休んだら、ちょっとだけ自分が変わった日になった。
 
もうひとりのわたしに挑発されて、明日は何年かぶりに白い服を買いに行ってみようと思っている。
そんな自分は、昨日のわたしとはまるで別人のような気さえする。
 
生まれ変わったわたしは、光に満ちた明るい未来へと伸びた道をちょっとだけ歩みだしたんじゃないだろうか。
 
「たまには、こんなふざけた理由で会社を休んでもいいんじゃない」
自分にも、わたしのような誰かにも、そう認めてあげたい。
 
 
 
 
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2020-03-27 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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