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亡き母の誕生日に寄せて


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記事:安光伸江(ライティング・ゼミ通信限定コース)
 
 
4月1日は、一昨年亡くなった母の誕生日である。
 
春に生まれたから春子。安易なネーミング、と笑っていた。私にとっては優しい母だ。甘えん坊で、結婚する直前まで母親(私にとっては祖母)のあんよがないと眠れなかったと聞く。死ぬ前も甘えん坊は変わらず、今度は母親ではなく娘の私に甘えていた。何年も寝た切りに近くて、途中から介護に来てくださる方がいたんだけど、「おねえちゃんがええ、おねえちゃんだけがええ」とわがままを言っていた。おねえちゃん、というのは私のことで、実は兄妹の下の子なんだけど、かわいがっていたうさぎのぬいぐるみの「美加ちゃん」のおねえちゃん、ということになっていた。ママはおねえちゃんが大好き。それが誇らしくなったのはだいぶ年がいってからだった。
 
何十年前かの今日4月5日、私は大学入学のために上京した。下関という田舎の閉塞感、親から離れたいという気持ちが大きくて、早く家を出たい出たいと思っていた。大学2つ行って、東京で細々と働いて、でも十分な収入が得られないから親に経済的な援助をしてもらっていて、それが悔しかったけれども、でも親から離れたかった。
 
東京では最初は間借りの下宿、2つめの大学に入ってからは一人暮らしになった。部屋に電話をつけてからはよく母から電話がかかってくるようになった。「なんしよるん」。その言葉が、愛情表現だというのがわかったのは、だいぶたってからだった。私にとっては、干渉してくる感じがして、うっとうしい気分でいた。
 
私は、親が、嫌いだった。
 
経済的な援助を受けているんだから感謝すればいいのに、援助を受けていることそのこと自体が悔しかった。「帰ってこんかね」としょっちゅう言われるのもいやだった。まがりなりにも東京で働いている、23区に住んでいる、というのが心の支えで、音楽の仕事だったから、東京じゃないとできないと思い込んでいた。実際には下関に帰って近所のこどもさんに教えたり演奏活動をしたりしている人もいるんだけど、こどもが苦手な私にはそれはできないと思っていた。帰ったら、負けだ。そう思っていたから、「帰ってこんかね」という母の声がうっとうしかった。
 
実は最初の大学の4年の頃にすでにうつ病を発症していた。それから2つめの大学に行って音楽の勉強をしたけれども、その勉強の間も、そして音楽の仕事をしている時も、実はうつ病との闘いだった。状態のいい時に演奏活動をする。状態のいい時に教える仕事をする。仕事の時には状態がよくなるように、いっしょうけんめい調整をする。そういう日々が続いた。
 
だけどそれには無理があった。うつ病がどうにもならなくなって、教えていた大学で年末の試験の日に倒れた時、私は母には黙っていた。帰ってこいと言われるのがわかっていたから。帰ったら負けだと思っていたから。3ヶ月くらい、自分ひとりでなんとか立ち直ろうとしていた。その前に元気だったから、病院も探していなかったのだ。
 
母の誕生日に電話した時だったか、ついに「倒れたんよ」と母に告白した。「病院、行きなさい。それ以上悪くしちゃいけん」と母は言った。それに背中を押されて、探してあったクリニックに通い始めた。そしてそのクリニックでもらった薬ではよくならず、夏休みが終わる時に休職を決めた。非常勤講師だったので、休職するというのは翌年度からは退職、ということを意味する。
 
夏休み、母のもとに何年かぶりに帰った。私が大学に行っていた頃に建て替えた我が家は、だいぶ古くなっていた。ちょっとすすけた天井を眺めながら、母といろいろな話をした。帰ってきなさい。ともちろん言われた。その時は、後期の授業だけはやって、翌年度から退職するつもりでいた。だけどできなかった。夏休みで復帰できなかった。9月8日、リーマンショックの1週間前に、東京の家を引き払って実家に帰った。引っ越しの準備はほとんど父がやってくれた。迎えに来て、そのまま泊まり込んでいたのだ。
 
実家に帰った日、母は笑顔で迎えてくれた。よく帰ってきたね、という顔だった。それからは東京に戻りたくて泣き、そのたびに母はおろおろしていたけれども、それでも支えてくれた。ひきこもりだった私のめんどうをみてくれた。買い物は父の仕事、それ以外の家事は母の仕事だった。
 
そんな母が寝た切りになったのは、私の調子が少しよくなってからだった。重たいものを持ち上げたら、腰の圧迫骨折をしたらしくて、ほとんど起きられなくなった。父はまだ元気だったので助かった。私は料理が苦手なので、朝の卵焼きを作るだけで、昼は両親はパンを食べ、夜は近所のショッピングセンター「ゆめシティ」のお惣菜を分け合って食べた。洗濯も私がするようになった。介護らしい介護もできなかったけど、3人で細々と生きていた。
 
それから父が出先で転んで急に亡くなり
私が乳がんになり
 
訪問介護の人が来てくれるようになって、1年ほどたった時に、母のがんがみつかった。がんだとわかってから1月半で亡くなった。
 
その間、ママはおねえちゃんが大好き、愛してる、とことあるごとに言っていた。私はむかし親が嫌いだったけど、母のめんどうをみるようになってからは別に嫌いじゃなかった。寝ている部屋に顔を見に行って、あとは自分の体調を鑑みてごろごろしている、という日々が続いた。そして入院してからは、折に触れてお見舞いに行った。
 
私を産んでくれてありがとう
 
そう言えたのは、がんで余命数ヶ月とわかった後だった。「ああ、死ぬんだな」と母は悟ったのではないかと思う。でも、言えてよかった。それから1ヶ月しないで母は死んだ。
 
昨今はコロナが大変な時期である。もし、母が今も寝たきりで入院していたら、私は病院にお見舞いにも行けなかった。母が死ぬ時に立ち会うのはちょっと遅れて間に合わなかったけど、死んだばかりの母のそばにいることもできなかった。だから「早く死んでてよかったかもしれんね」と、天国の母に話しかけたりもする。
 
天国にいる両親のことは、今は大好きだ。近所に父が植えた桜の木があって、それに鳥がとまっていることがある。私にとって鳥は母のシンボルだから、おとうさんおかあさん、ずっと見守っていてね、と話しかける。生きているうちにもっと仲良くしてあげたらよかったけど、そこまで人間ができてなかった。反抗期をやり直していた。
 
母が亡くなってから3回目の誕生日
スタバでほっこりお茶をして偲んだのだけれども
 
天国で、見守ってくれたらいいな、と思う。
 
おかあさん、私を産んでくれて、ありがとう。
 
 
 
 
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2020-04-09 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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