メディアグランプリ

楽器を吹くのが嫌になったとき


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:中村里奈(ライティング・ゼミGW集中コース)
 
 
7月の夕方17時50分私は黒い扉の前にいた。梅雨が明けてないからか、晴れていても空気がジメジメする。
「どうしてこんなところに来てしまったのだろう」
ヴォーカルレッスンを予約したのは他でもない私だったけれど、気が重たかった。
 
そもそも歌うことが嫌いだ。カラオケには行かないようにしていた。初めて一緒に行った親友からオンチと言われ、高校の文化祭の打ち上げではクラスメイトから、吹奏楽部なのにヘタなんだね、と言われたからだ。すっかり自分の声で歌うことが嫌いになってしまった。
 
しかし、いま、私は歌えるようになりたい。サックスをどうしてもうまくなりたかった。
 
所属しているジャズのバンドの先輩から
「もっと歌って」
と注意されることは多かった。普段からよくあることだが、演奏会の打ち上げの後、その日は少し違った。
「君の代わりはいくらでもいるんだよ」
と付け加えられた。一気に酔いがさめた。私以上に上手な人はいっぱいいるから、いつでも辞めていいよ、という意味だと直感的に理解した。
 
音楽は大好きだ。サックスも好きだし、バンド仲間も大好きだからバンドは続けたい。しかし、気持ちよく続けるためにはサックスをうまくなるしかない。
 
とはいえ、18年間もサックスを続けてきて、音楽教室に通っている時期もあったけれど、もちろん技術的な向上はあった一方で『歌う』ことはできなかった。今まで通りの練習ではだめだ、なにか視点を変えなければ……そう思って練習方法を調べていると一つの言葉が目に留まった。
 
『サックス奏者はヴォーカリストの歌い方を研究しましょう』
 
サックスの演奏はヴォーカルと息の使い方が似ているから、ということだった。その記事の内容がとても論理的でわかりやすく、書いた人も世界的に有名な音大の先生ということで信頼性も高かった。また、その先生の演奏をYouTubeで聴いてみると、それはそれは素晴らしいものだった。藁をもつかむ気持ちで家の近くのヴォーカル教室を探して予約をした。7月の最初の金曜日の18時だった。
 
17時55分、ここまで来たのだ。私は意を決して黒い扉を開けた。
私を出迎えた先生は元気で可愛らしくサッパリした人だった。そして、意外にも私がヴォーカルレッスンに来た理由をあっさりと受け入れてくれた。
「わたしも管楽器奏者と一緒に演奏することがありますけど、サックスプレイヤーが一番ヴォーカルに近いなって思います」
じゃ、さっそく始めますね、と言って先生はピアノに向かった。
 
初めてのヴォーカルレッスンの内容は、実はあまり覚えていない。緊張していたからか、変な汗をたくさんかいていた。しかし、サッパリした気持ちで、またこの先生に『歌う』ことを教わりたいと思った。外に出るとすっかり日が暮れていて、夜の風が気持ちよく感じた。
 
楽器で『歌う』となると、音程をとったり、音の大きさに強弱をつけることなどなど……になるけれど、先生の『歌う』は『言葉を伝えること』だった。音楽も、小説や絵画のように伝えたいことがある。歌であれば、伝えたいことが歌詞になって言葉で表現されている。
 
だから、先生のレッスンでは譜面台に楽譜を置かず、代わりに私の好きな曲の歌詞カードが置かれた。一度、曲を先生のピアノに合わせて歌ったあとは音程をとることもなく歌詞を先生と一緒に丁寧に読み上げた。
「韻を踏んでいるなぁ」
「歌詞のこの部分、かっこいいなぁ」
なんて、曲への理解が深まっていく。洋楽だと英語の発音を一から直されたけど、正しい発音で読む歌詞はなんともリズミカルだ。歌詞の強調したい言葉やフレーズは自然と大きい声で言うし、もったいぶったりしてリズムに緩急が生まれる。私は言葉を伝える『歌う』ことが楽しくなってきた。
 
ある日、私はバンドで演奏している曲の歌詞を調べた。英語の歌詞だ。少し発音が難しいけれどレッスンのように丁寧に読み上げる。歌詞の意味に少し感動して、伝えたいフレーズを見つけた。楽譜を引っ張り出して強調したいところに強弱記号をメモした。
 
ヴォーカルレッスンで教えてもらったことを楽器の練習に応用するサイクルがまわり始めた。レッスンに通っていることは秘密にしていたけれど、周りから「音の響きがいいね」「その表現なんかいいね」と反応してもらえることが増えた。その反応が素直に嬉しかったし、何より自分でも演奏で伝えたいことを表現するのは楽しかった。私は『歌う』ことが好きになっていった。
 
冬のバンドの演奏会で、私は1曲の長いソロをまかされた。小さなミスはあったけれど、これが実力だ、仕方がない。でも、『歌う』ことはできたと思う。打ち上げのあとに、またもや先輩からコメントがあった。少し身構える。
「君と演奏できてよかったよ。これからもよろしく」
ちょっとミスはあったけど、とダメ出しされてしまったけれど、わたしは予想外の暖かい言葉に静かに返事をした。もしかしたら、前の厳しい言葉は私を奮い立たせたかっただけかもしれない。
 
私がバンドに入って、今年で11年目だ。ヴォーカルレッスンは今も続けている。カラオケに絶対行かなかった私がヴォーカルレッスンに行っているなんて、気恥ずかしくて自分だけの秘密にしているけれど、「どんな練習をしているの?」と聞かれたら正直に話すことにしている。
「内緒にしてね、実は……」
 
 
 
 
***
 
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2020-05-11 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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