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移動式パン屋に追われて気がついたこと


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記事:三木 幸枝(ライティング・ゼミ通信限定コース)
 
 
皆さん、移動式のパン屋さんに出会ったことはあるだろうか。
軽快な歌を大音量で流しながら、ワゴン車にパンをのせゆっくり方々を回っているパン屋さんだ。
 
幼い頃、3ヶ月に一回くらい、うちの近くにも巡ってきた。
あのメロディーが流れてくると、いても立ってもいられず、大騒ぎして追いかける。
 
私の家の前には川が流れていた。そのため、メロディーは近くで聞こえるのに、パン屋さんのワゴンが実際に走っているのは、対岸の道路であるということがよくあった。対岸に渡るには、約200メートルほど北に架かる橋を渡らなければならない。橋を渡ろうと向かっているうちに、無情にもパン屋さんは反対方向に遠ざかっていく。
 
子どもの足でダッシュしても間に合わず、自転車を必死でこいでも追いつかないことが常だった。遠くなるメロディーとともに、小さくなっていく白いワゴンの後ろ姿を何度見送ったかわからない。
追いつけなかったときは、自転車を引きずりながらとぼとぼ帰ってくる。がっくり落ち込み、流れる川をぼーっと眺め、世の無常について考えたりして。
 
10回に一度くらいは追いつけることもあった。汗だくで息をきらしながら、ワゴンの後部に並べられた色とりどりの蒸しパンを選んだ。やっとの思いで手に入れた蒸しパンはほんのり甘くて天にものぼる美味しさ。無くなるのが惜しくて、口の中で溶かしながら少しずつ食べた。
 
来て欲しいときに現れず、姿が見えても追いつけない。そんな移動式のパン屋さんは、私のなかで特別で、恋い焦がれる存在だった。
 
しかし、ある日突然、パン屋さんは来なくなってしまった。販売ルートが変わってしまったのか、私が家にいる時間帯とは合わなくなったのか。しばらくは気になっていたものの、そのうちだんだんと、パン屋さんのことを忘れていってしまった。
 
時は流れ、小さなアパートで夫と小さな娘と暮らしていたとき、ついにパン屋さんと再会を果たす。
ある日の午後、かすかに聞こえてきたのだ。あの聞き覚えのあるあのメロディーが。
私は無我夢中で、幼い娘を抱いて家の外へ飛び出した。
 
なんと、あのパン屋さんがうちのアパートの前に! 私は舞い上がった。
 
「幼い頃から、パン屋さんのファンです! いつも追いかけてました! またこうして出会えて感激です! ものすごくうれしいです!」と、愛の告白かのような言葉が口をついて出た。
 
エプロン姿のパン屋のおじさん。60代前半くらいだろうか。私の勢いにめんくらっていたが、静かににっこり笑ってパンを手渡してくれた。私はとってもうれしかった。幼い頃の無念を晴らすように、たくさんのパンを買った。
 
しかし、帰宅してパンを一口食べたとき、さっきまでのテンションが吹き飛んだ。
 
……思っていたほど美味しくない。
 
でも私はその思いをすぐ打ち消した。あんなに追いかけたパンなのに、美味しくないはずがない。確かに普通に美味しいパンなのだ。でも、やっぱり、必死で追いかけて食べたものとは違う味……。
 
翌週、同じ曜日、同じくらいの時間に、またあのメロディーが聞こえてきた。
愛の告白が効いたのか、その後パン屋さんは必ず決まった曜日にやってきた。そのたびごとに私はたくさんのパンを買った。
それが3週間ほど続いたあと、私は、家から出ていくのをやめた。カーテンを閉め、部屋の電気を消し子どもを連れて奥の部屋に身を潜めた。
アパートの前で大音量で流れるメロディーが、どこかへ移動し聞こえなくなるまで。
 
パン屋さんがアパート前にやってくるたび、居留守を使うことが、さらに約1ヶ月ほど続き、その後、パン屋さんはアパート前に来なくなった。
 
ほっとした反面、空しさが残った。あんなに必死で追いかけたパン屋さんから、こそこそ逃げるなんて。
 
でも、最初のひとくちの時に感じたとおり、記憶の中の美味しさに及ばなかったことが思った以上に辛く、買い続ける気になれなかったのだ。
 
子どもの時果たせなかったことを大人になって叶えるのは、嬉しいことに違いない。私はそう思っていた。
でも、幼いときに味わったパンの美味しさは、大人になったからといって、そっくりそのまま叶えることができないものだったのだ。
 
必死でこいだ自転車のきしむ音、額から首に流れる汗の感触、追いつけなかった帰り道の橋の上から見た水面や泳ぐ魚。
それらが、やっとありつけたパンの美味しさと一体になりパッケージとして、私の胸に刻まれていたのだった。
 
パン屋さんに失礼なことをした。そして、せっかくの味や感覚を、思いがけず自分自身で上書きしてしまったことが悔やまれた。
 
それ以後、子どものときの夢を追いかけるのはやめておこうと思うようになった。
それと同時に、思いあたったことがある。
今の私の感覚を、10年後の私は(もしかしたら明日の私ですら)再現できないかもしれないということだ。
だから、今の私が叶えたいこと、たとえそれが、追いかけても追いかけても、なかなか手が届かないことだとしても、今、精一杯を尽くそう、そしてそれをしっかり胸に焼き付けよう。
アパートで食べた、ちょっとぱさついた蒸しパンの味を思い出しながら、そう決意したのだった。
 
 
 
 
***
 
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2020-05-20 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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