メディアグランプリ

バスルーム脱出劇に至るまで


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記事:あれぐり(ライティングゼミ・5月通信コース)
 
 
「ヘールプ!」
ついに言ってしまった。いい大人が。
日常生活でそんな言葉、発するなんて思っていなかった。
 
バスタブのふちに立ち、15センチほどしか開かないバスルームの高窓をできるだけ開け、顔をねじこみ外に向かってそう叫んだ。
イングランドの小さな街。いつも通りの平日お昼前。
 
その一瞬は鮮やかに覚えている。トイレに急ぎ、そそくさとドアを開けたあと、ほんのちょっとだけ勢いで自分のほうにドアを引いちゃったんだった。たぶん風もちょっとあって、トイレのドアは、すーっと閉じた。
 
いつも少しだけドアを開けていた。引っ越した頃からちょっと怪しい、古いドアだった。鍵が変。立て付けも悪い。なので、極力閉めきらないよう気をつけていた。なのに、その日はうっかりした。ぱたんとドアが閉まり、同時に不穏な音がした。
 
カチャッ。
 
それは絶望の音だった。用を足し、手を洗ってドアを開けようとしたとき確信した。
 
ガチガチガチ。ガチガチガチガチ。
 
いくらノブを回しても、どんどんたたいても、ドアが開かない。びくともしない。
とっさに考えた。ここは普通の平和な街。平日お昼前。問題ない。大丈夫。冷静になれ、私。きっと大したことはない。焦らず丁寧に開けようぜ。
 
ゆっくりノブを回した。奥で空回りする音がした。ゆっくり反対にノブを回した。やはり空回り。少し持ち上げて回してみた。少し押しつつ回してみた。私の努力がすりぬける。それなら困ったときの馬鹿力。力を込めて引っ張った。
 
すぽっ!
 
ノブが抜けた。私は勢い余って後ろに吹っ飛び、洗面台にぶつかった。ドアはかっちり閉じたまま、ノブの代わりに小さな穴が空いていた。ノブの重さが、手中にあった。
 
わー!!
心臓が早鐘になった。これヤバいヤツだ。ダメなやつだ。どうするどうする出られないよ。
携帯ないじゃん、置いてきちゃったじゃん、誰もいないよ呼べないよ、どうする私。
 
私が閉じ込められているという事実を、誰一人知らない。この広い世の中で。
 
だけど、もう一度冷静になろう。
深呼吸。考えろ。水がある。トイレがある。寒くなってもヒーターはつく。生死には関わらない。それなら最悪じゃない。そしたら、開け方を考えよう。
 
頭の中に、刑事ドラマのシーンが浮かぶ。こういうのって、どうにかなる。きっと大丈夫。思い出せ、ドラマのシーン。細かい金具でカチャカチャする。急いでるときは体当たり。
 
即実行。
 
まずはノブをはめてみた。だけどノブは力なくほどけた。パーツにばらけて床に散らばる。
私は負けない。使えそうなパーツを取り出して、穴をほじった。だけど尖った面で指を切った。血がたらたら流れる。しくじった。トイレットペーパーで止血する。
それならば、とドアを蹴った。体当たりした。何度も何度も。だけどドアのはじっこは堅かった。足やら肩やら痛くなった。そして、ドアの真ん中だけ、メリッとへっこみ、そのささくれでケガをした。
気づいてしまった。こっちに開くドアは、引っ張らないと開かないって。
気づいてしまった。ドラマは元から開く設定になっているって。現実とは違うんだって。
 
バスルームに惨敗。もうムリ。一人でこっそり、どうにかできると思うことをやめた。かっこつけてる場合じゃない。バスタブに足をかけ、高窓の隙間から外を見る。伸び上がって。顔を真横にして。
時折車が通るのみの、平穏な住宅街。
 
お買い物帰りの婦人が見えた。声を出せなかった。恥ずかしかった。だって変だし。アヤしいし。夕方まで待てば家族が帰ってくるし。それでいいじゃん。水あるし。
でも、考える。ここはイングランド。17時過ぎたら、みんな帰宅しちゃう。この家の管理会社の人たちも。そしたら電話してもムリ。鍵屋さん呼んでもらえない。ここでは何事も時間がかかる。今どうにかしなきゃ。
 
「ハロー……」
声を出した。誰もいない。
「エクスキューズミー……ヘールプ!」
 
ついに言ってしまった。それでも誰も通らない。絶望しかけたその時気づいた。エンジン音が聞こえる。顔をねじって無理やりそちらに目を向ける。どうやら、二軒隣が改装中。おじさんが数名作業中。最大のチャンス! 通りに目を配らせつつ、工事の音に耳を傾けた。
 
15分くらいたった頃エンジン音が消えた。ランチタイムに違いない。奇跡のようにヘルメットのおじさんがこちらに歩いてくる。私の救世主!
「ヘールプ! ハロー!」
必死な声は彼に達した。でもきょろきょろ見回して、不審そうに歩き去ろうとする。
だめだめ!
「こっちこっち、上、こっちー!」もう必死だった。あなただけが頼りです。腕だけ窓から出して必死に振った。
 
「何してんの?」
怪訝そうな顔をしたおじさんが言った。高窓に顔をくっつけて、必死に説明した。いや、変よね。わかります。だけど聞いて。バスルームのドアが壊れたの。携帯持ってないの。家の玄関は鍵かけてるの。だから、右二軒隣の仲良しご近所さんを呼んでほしいの。そしたら、管理会社さん呼んでもらえると思うの。
 
おじさんは、苦笑しつつもご近所さんを呼んでくれ、1時間半ほどで私は無事にレスキューされた。
私は救われた。ヘルプを言えた私は、かっこ悪いヘンテコな東洋人。でも私は、「助けて」なんて言葉を叫ぶ、そんな弱気な武器をゲットした。次の危機にもきっと役立つ、最強っぽい武器だった。
 
 
 
 
***
 
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2020-06-18 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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