この男、情が深すぎにつき注意
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記事:櫻井麻緒(ライティングゼミ・平日コース)
「何でも好きなものを頼みな」
メニューを広げながら、目の前に座るこの男。ワイシャツ姿にネクタイを少し緩めた、いかにも仕事終わりの姿である。
私より9つ年上の31歳。
れっきとしたサラリーマン。
気遣ってくれる優しい人。
今まで一度も私と喧嘩をしたことがない。
そして、左手薬指に見える結婚指輪、妻子持ちである。
……怪しい関係ではない。
兄である。正真正銘、血のつながった実の兄なのだ。
その日、私たち兄妹は地元の居酒屋で兄妹飲みをすることになった。今までに数回、買い物などに出かけたことはあったものの、お酒を飲みながらの本音トークはこれが初めてだった。
だが「優しい」兄との本音トークは楽しみなはずなのに、半面少し緊張した。実の兄妹なのだから、緊張する要素は何一つないはずなのに。
まず、本音トークで話せる話題があるだろうか、というジェネレーションギャップの心配があった。そしてもう一つ、懸念材料があった……。
考えてみれば、私たちは一回も兄弟喧嘩というものをしたことがない。男子と女子だからとっくみあいはもちろんのこと、言い争いもしたことがない。兄に泣かされたことはなかった。唯一といえば、兄に隠れてこっそりお菓子を食べてばれたときに、泣いたくらい。
そう、兄に「直接」泣かされた記憶はないに等しかった。
だが「直接」がなくても、「間接」的に泣かされたことが私のトラウマとなっていた。
あれは、兄が中学生のころ。私は小学校に上がる前の頃である。
兄は絶賛反抗期で、毎日のように両親に怒られ、言い争い、そして物に八つ当たりをしていた。
両親によると、当時の兄は相当荒れていたらしい。
ある夜、二階でテレビを見ていると階下から兄と母が言い争う声が聞こえた。まだ幼かった私は、その声の大きさと迫力に恐れ、テレビを見ながらどうしようもなく一人で泣いていた。
言い争いが終わり、泣きながら下に降りると疲れた様子の母が目に映る。私を見ると「ごめんね、もう終わったから」と抱っこしてくれ、私はそこでまた泣いた。
そして泣きながら兄をみると、手が真っ赤だった。
幼いながらに、ぎょっとした。
明らかに、両手から血を流して真っ赤に染めていたのだ。
……どうも、八つ当たりで木製タンスを手で壊したらしい。兄は泣きながら、うずくまっていた。
その時の光景が、私の記憶に鮮明に残ってた。兄に「直接」何かされたわけではないのに、どうしても忘れられない記憶である。
兄のせいで泣いたのは、記憶の中ではその一度きり。そしてその後、高校・大学へと進学した兄は何度か「恋人」を家に連れて来て、私もあいさつをした。
だがその「恋人」の顔を私は全く覚えていない。何度かあいさつをした「恋人」は、毎回違う人だったから。
当時妹ながらに兄はかっこいいと思ったから、実際もてたのだろう。だが、どうしても「チャラい」としか思えなかった。
こうした幼いころの記憶が、無意識のうちに私の兄に対するイメージを作り上げた。だからだろうか、私の兄へのイメージは、喧嘩は一切したことがないけど少し「怖い」人、そして恋人を何人もつれてくる「チャラい」人。この二つの要素が大部分を占めていた。
そんな兄と、初めて二人で飲んだのだ。
私たち兄妹はお酒がそれなりに飲める。それはもう、急ピッチでグラスを重ねた。
結果として以外と話題は尽きなかった。それどころか、次から次へと話しが進む。
私の将来の話、両親の話、子供のころの話。
特に私の進路の話には親身になって相談に乗ってくれた。
「俺は学生のころ遊んでばっかりだったし、親にもたくさん迷惑をかけた。だけど今、家庭をもって仕事もして、それなりに幸せに生きている。人間、やろうと思えばなんだってできるんだよ。お前は俺よりかしこいし、自分の進みたい道を進みな」
兄はしっかりと自分の軸を持っていた。
私の兄に対するイメージは、一瞬で崩れ去った。いつの間に、兄は変わったのだろう……
いや、「怖い」と「チャラい」以外の兄の部分を見ようとしなかった私の見方が、変わったに過ぎなかった。
兄は昔から変わっていない。私が偏見を持っていただけだったのだ。そう気が付いた。
そんな時、兄から質問を吹っ掛けられる。
「お前、恋愛の方どうなんだ? 今彼氏いないんだろ?」
……どうせ、兄とは違ってもてませんし、そんなすぐに恋人はできません!
私はムスッと答えながら、兄の話に耳を傾けた。
「恋はした方がいいぞ。俺は今、奥さんと娘がいて家庭をもっている。でもそれまでにたくさんの人と出会って、失恋もして、多くを学んだ。その結果が、今につながって素敵な奥さんとかわいい娘がいる。お前も、恋をしていろいろなことを学べ。恋からしか得られないことがあるから」
……やけに説得力があった。
そして、「ああ、兄は情が深い人なんだ」と兄の本質に気が付いた。
後から、手を血で染めるほど怒っていたのは、当時仲良くしていた友達のことを両親に悪く言われたから、ということを知った。
そしてたくさんの「恋」を経て、奥さんと出会って「恋」に落ち、結婚をして今は娘に「恋」をしている。それも溺愛の「恋」。
廻りの人への情が深い兄だからこその行いだった。
もっと私の知らない兄の姿を見たい、そう素直に思えるようになっていた。
今回の兄妹飲みは、結果として兄妹の絆が深まった会に終わった。
だが。
「お前がいつまでたっても結婚しないと、兄として心配だ。次の誕生日までに恋人作ってこい。そして頼むから30歳までには結婚してくれ、兄からのお願いだ」
帰り道歩きながらポツリと、まだ学生の私にむかって兄が言った。
どうも、妹への情が強いと結婚の話になるらしい。今度の兄妹飲みは結婚の話に思いやられそうだ。
***
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