子どものころ福岡に7年間住んでいた《母の夢編》
記事:Mizuho Yamamoto(ライティング・ラボ)
私の年齢に25を足せば、母の年齢になる。
福岡時代の母は、32歳から38歳だったのだ。
若い! 母はずっと母であり、その年齢を意識したことがなかったが、今思えばうなづける一つの出来事を思い出した。
高校卒業後、洋裁学校に通った母は、デザイン、製図そして手先の器用さを生かした洋裁で、一人っ子の私が幼稚園に入ると、洋裁店に勤めたり、父の転勤が多く勤務先が見つからないときは、自宅で頼まれ物の洋服を縫っていた。
小学校の入学式から間もなくして、私は当時の担任から、
「いつも着とるしゃれた服は、お母さんが作りんしゃぁと?」
と聞かれ、着ている服すべて母の手製だと答えた。
当時の先生たちは、きちんとスーツを着て、間違ってもジャージで登校したりすることは決してなかった。しかし、デパートでの既製服のバリエーションが少なく、体に合った服を作ってくれる人を探していたようだった。
間もなく担任は母に服を作ってくれるよう頼むことになり、担任と仲の良い数名の先生も母の顧客となった。気に入った布地を買って『ドレスメーキング』、『主婦と生活』『ミセス』などの雑誌から、こんなスーツが欲しいと注文を受けると、母は依頼主のサイズを測り製図をし、布地を裁断して服を作る。仮縫いは自宅に来てもらうか、学校に放課後母が来校して行われる。先生たちのスーツやワンピースが、母の洋裁部屋兼居間兼寝室に置かれたボディに着せられ出来上がって行くのを、学校から帰って眺めるのは楽しかった。余った布地は、
「子どもさんの服でも作って」
と戴くことが多く、私もまたスタイルブックを見て、
「この服を作って! 」
と母にねだることがあった。結構渋い柄の生地が多かったが、母がデザインを工夫して、おしゃれな服に仕立ててくれた。時には原色やフリフリの付いた服を着たかったが、当時ショートカットでボーイッシュな女の子だった私には、シャープなラインの服が似合うと母が取り合ってくれなかった。一時期一緒に暮らしていた三歳年下の従妹には、目がくりっとして巻き毛の可愛らしい子だったので、フリフリの服を作って着せていた。彼女は、自分の可愛さを十分知り尽くした子だったので、
「青い色は男の子色だからいやだ! 」
と、せっかく母が作った服にそでを通さないこともあった。母の作った服はなんでも喜ぶ私との違いに、子どもにも個性があることを学んだ母だった。私は、彼女とのお揃いを作ってもらうときだけ、ピンクの生地やレースの付いた服を着せてもらえるのがうれしかった。
先生だけでなく、近所の人たちからも依頼が来始めて、母は夜なべして洋裁をすることもあった。生来の生真面目さで、決めた納期を遅れることは一度もなかった。
そんな母の仕事ぶりに惚れ込んだお金持ちの近所のタバコ屋のおばさんが、
「天神に店を出さんね。奥さんの腕やったら
よか店になる」
と話を持ち掛けてくれた。当時住んでいた家の近くに、新幹線の車両基地ができるというので、地主は土地を売り多額のお金を手にしていた。まさに右肩上がりの日本経済は、一般市民にもさまざまな挑戦の機会を与えたのだった。
母は、勝負に出ようと考えていた。小学2年生の私に、やってみようかな? と話をしてくれたのを覚えている。タバコ屋のおばさんは、福岡一の繁華街天神に土地を持っていて、洋裁店を作る準備からすべてやるから、そこでお客の注文を受け、服を作ってくれたらいいのだと話していた。
親切で信頼のおける人だった。おまけに、福岡に土地を買わないかと持ち掛けてくれた。
長くとどまって洋裁店を運営するには、このあたりに家を建てて落ち着かないかと。母のへそくりで買えそうな土地の値段だった。
「お前、博打師か! 」
父が猛反対した。佐世保にも土地を買っているのに、その上福岡に土地を買って、洋裁店を任せてもらうなどとは、普通の人にはありえない話だと。そんなギャンブルは許せないというのが、父の言い分だった。
33歳の母は、ほんとうにやってみたかったのだと今になって思う。転勤族の専業主婦から脱却して、自分の腕を信じてチャンスを生かしたかったのだと。
もしかしたら私も森英恵やコシノジュンコのような母を持ち、服飾業界で活躍することになっていたかもしれない。
というのは、ウソ!
なぜなら、小学校時代に縫ったエプロンも、中学校時代に縫ったパジャマも、自宅に持ち帰ってミシンの前に座ると、
「貸しなさい! 」
と母が、軽快なリズムでミシンを動かしあっという間に縫い上げた。
子どもに触られるとミシンの調子が狂うからという理由で。
「これはお母さんの仕事の道具だから、子どもには触らせられない」
かくして私の家庭科の縫物は、学校での作業以外はすべて母の手から生まれた作品で、常に最高の評価をもらった。
「さすが、あのお母さんの子ねぇ」
先生たちに言われるたびに、肩身の狭い私だった。
今も実家の洋裁部屋の片隅にぽつんと置かれた足踏みミシン。母の人生に夢を縫い込んだこのミシン。
「古いミシンを引き取って、使えるようにして輸出するという話を聞いたぞ」
88歳の父が言うが、私はまだうんと言えずにいる。
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