元カノがストーカーになって近くのローソンにいる話
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:曽我 真(ライティング特講)
彼女が僕の人生に登場したのは三十年前。高校を卒業した年の春休みだ。
第一希望の大学進学が決まってうきうき気分。この際休暇はがっつりバイト入れまくって、軍資金を貯めてから大学に乗りこもうと考えた。
バイト先として選んだのは名古屋のヒルトンホテル。どうせ働くなら憧れの都会がいい。実家の在る岐阜県の山奥から中央線を一時間半も乗り継ぎ、一ヶ月通い詰める覚悟だった。体力あり余る十九歳の少年にとって、自信があるのはガッツと度胸だけだ。
ある日、求人情報誌も何も見ることなく、いきなりホテルロビーに下り立ち「ここで一ヶ月間バイトしたいのですが」とフロントに告げた。当惑しながらもフロントマンは丁寧に人事部へと案内してくれた。突撃アポなし面談にも関わらず、人事担当と思しき年配の方が高校を卒業したばかりの若造の話を十五分も聞いてくれたのは、古き良き昭和の名残だろう。「時給は723円で交通費もほとんど出ないけど、よかったら明日から来なさい」と最後に告げられ無事採用。喜び勇んで小躍りしながら帰路に着いたのを覚えている。
バイト配置先はヒルトン内の高級イタリアンレストラン。得意科目だった英語を活かして、観光で訪れている外国人とメニューオーダーを取るとき話したり、以前から入っていたバイトの諸先輩達の都会ならではの浮いた話を聞いたりと、刺激的な毎日が幕を開けた。
二週間経ち、夜のシフトも任され慣れてきたころ、ある先輩がバックヤードから手招きをして僕を呼んだ。フロアにはお客さんはほとんどおらず、ちょうど暇を持て余していたところだ。仕事の指示で呼ばれた体で、慌てずゆっくり先輩のところへ向かった。
一緒に奥に進むと、先輩はいつもよりハキハキと、でも少し小声ではにかみながら、すぐ脇のケースを指差してこう言った。「曽我君さ、甘いもの好きなんでしょ。これいっしょに食べよ」
大きな棚の中では、丸や三角、四角さまざまな形のケーキが並んでいた。それは業務用全面ガラス張りの冷蔵庫で、ごく小さな音を立てながら均等な冷気をケース内に送り続け、内部の鮮度をしっかりと保っていた。
「え、でもこれ売り物ですよね。食べるのはさすがにまずくないっす?」かと僕が言い終わらない内に、先輩はニッコリ笑顔で被せてきた。
「今、夜の九時でしょ。これから食事して、デザートがっつり食べる人まずいないわよ。えーっと、この種類なら9個余ってるから5個は食べても大丈夫。絶対に4個以上売れっこない。明日になったら廃棄だし、もったいないでしょ。食べよ食べよ」
そういうものなのか。世の中の仕組みが全然分かっていなかった岐阜の山猿は、「廃棄がもったいない……」という正論を都合よく鵜呑みにして、促されるまま四角いケーキのケースを取り出し、一つ手に取って口にした。
今までに味わったことのない濃厚な食感が、脳の奥の方で稲妻のように走り抜けた。夢中になり我を忘れた僕が連続3個貪る横で、先輩はハンカチを使い上品に素早く2個平らげた。無言で別れ、トイレで口を拭い、何事もなかったように配置に戻る。30分後、人影まばらな店内でぼう然と突っ立っていると、今度はバイトの上司が僕の顔を見るなり、あせったように手招きで呼ぶ。あ、やっぱりさっきのバレちゃったか、とビビりつつ胸の動悸を抑えながら向かうと「おい、なに興奮しとんのや」の一言。
意味が分からずそのまま佇んでいると、ポケットからティッシュを取り出して手渡してくれる。言われるまま顔を拭うと何かが赤くしみ込んで染まる。本人も気付かないくらいのさらさらな鼻血が一筋垂れていたのだ。異常に興奮したら鼻から血が出る、というのはマンガの世界だけじゃないんだな、と実感した。
僕はその夜一口目で恋に堕ちたのだ。イタリアから渡来した彼女の名前はティラミス。それからというもの、人生の中で事あるごとに何度も何度も彼女は僕を誘惑してくる。「ねぇねぇ、ちょっとだけでいいから食べてみて。今度のココアパウダーは苦み強めで好みのはずだよ」とか「こだわりのマスカルポーネなの、ほらほら。なんだよぉ最近ツレナイじゃん」とか何とか。
そうはいっても、こっちはもうお腹周りのタイヤが気になるアラフィフの既婚者なのだ。健康診断を受ければ異常値ゼロとはならないし、日々の運動不足はすぐ体形に反映される年代だ。でもいまだストーカーにでもなった元カノのように、近所のローソンで良く冷えたデザートの棚から、不意打ちのようなウインクを見舞ってくる。
最新のロジスティックス、冷蔵技術、マーケティング・イメージ戦略を総動員して、手を変え品を替えその魅力は増すばかり。そんな彼女に、ぐっと我慢して心の中でこう言い放つことが出来たとき、ようやく僕は大人になれた気がした。
「オレは君を嫌いになった訳じゃない。ただ距離は保ちたいんだ。もう特別な時以外は二人で会わないって決めたんだよ」
***
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