メディアグランプリ

知らないこと、それは果たして不幸か


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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:萩野 晴(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
その小さな台の上から真下を見下ろして、硬直した。
見てはいけないものを見てしまった。信じられない、どうしよう。見なかったことにして早く日常に戻りたい。
 
そっと足を下ろす。両足が床に触れ、やっと現実感を取り戻す。ああ、良かった。ここはもう安全だ。
あとはさっき見たものの記憶を消してしまえば、いつもの自分に戻れる。なかなか忘れることはできなさそうだけど。
 
ふっと、頭の中を疑念がよぎる。あれは私の見間違いだったのでは?
もう一度確認して間違いであることが確認できれば、もう悩まされることはない。
安心感を得たい気持ちと怖いもの見たさが半々。もう一度、片足、そしてもう一方の足を台の上に運ぶ。
 
足の裏に冷たい感触が伝わる。
嘘ではなかった。
そこにはさっき見た残酷な現実が、変わることなく、くっきりと表示されていた。
 
……太った。
何キロという具体的な数字は乙女のプライドにかけて避けたいが、増減値で言えば7キロ増である。
たったの半年で。
 
原因は明白だ。運動不足だ。
コロナ禍で外出機会が大幅減。週に数日のテレワーク、出勤しても寄り道もせず、土日は引き篭って小さいアパートの一室内でしか移動していない。そんな生活を送っていた故の消費カロリー減だ。
食べる量はそれほど増えていないのだ。ただ、量は増えていないが内容にやや変化があった。自宅でじっとしているストレスで甘いものが増えていた、というのは何となく自覚している。あの、毎日のささやかな楽しみが積もり積もってこんなことになるとは。
 
だけど、7キロって。前回計った時より一気に7キロというのはさすがにショックが大きい。そして、7キロを一体どうやったら減らせるのか見当もつかない。
途方に暮れるしかなかった。1キロ2キロだったらまだ、ジョギングでもすればそのうち元に戻るだろうと前向きになれたかもしれない。
 
ここまで事態が進行したのには原因がある。うちには、体重計がないのだ。
以前は持っていたこともあるけれど、毎日計ったところでそんなに変わらないということに気が付き、所有する意味もないだろうと処分してしまった。
だから、私が体重を計る機会は主に出先である。
今日も、温泉にゆっくり浸かって心身ともにリフレッシュ、明日からまた頑張ろうと思った矢先のことだった。
 
台無しである。
 
7キロ太ったと思って鏡を見ると、下腹部がぽっこりと出ていた。腰回りにもくびれらしきものはなく、粘土か何かで付け足したような不自然な丘ができていた。
このむっくりした姿を何かに例えようにも、タヌキやクマさんなんて可愛いものではない。進撃の巨人みたいな姿がそこにあった。
毎日見ているのにどうしてここまで気が付かなかったのか。
いや、昨日までは、こんな姿見ていない。こんなじゃなかった……はず。
今朝服を着替えた時も、温泉に入った時も、こんな体型じゃなかったはず。
だけど、そういえば最近ちょっと走ると息切れするのは……?
全身が重く感じるのは……?
パンツの前のホックを止めるのに、無意識に息を吸い込んでたのは……?
 
さっきまでバリバリ動いていた人が、体温を計って熱があると知るやいなや、その場にへたり込んでしまうことがある。
多少の身体の変化を自覚していても、証拠をつきつけられない限り、人は都合の悪い事実を知覚しないで済むらしい。
「数字」という明確な証拠を目にした途端に体調も変化する。
だから本当に、体重計の数値を見るまでは、私は太る前の身体だったのかもしれない。
 
「プラシーボ効果」とも似ている。
何の治療効果もない薬でも、効果があると信じて服用すれば、効いている気分になることもあるし、そのうち実際に治癒してしまうこともある。
今日来ている温泉もそうだ。仕事での疲労感や、不規則な生活による体調不良、コロナ疲れのストレスなんかを一切合切、解消するためにここにやってきた。1回の入浴でそれらが全部改善するなんて、そんな都合の良いことがあるのかどうか……実際の効果はともかく、ついさっきまでは治った気でいたのだ。本当にスッキリした気分でいたのだ。できることなら、いい気分のまま帰りたかった。
 
脱衣所で体重計なんかに乗るんじゃなかった。
体重計なんかに目もくれず、コーヒー牛乳をカーッとあおって気持ちよく部屋に戻れば、摂取カロリーは増えるものの、7キロ増えた私はそこにいなかったかもしれない。お腹ポッコリしてないかもしれない。心身ともにリフレッシュして明日からバリバリ仕事に励み、恋もオシャレも満喫する未来があったかもしれない。
 
どう考えてもそっちの方が幸せだったと思えてならない。
知る前に戻ることができない以上、脂肪との果てしない戦いが待っているのだ。
現象を知覚することは、自ら敵を生み出すようなものだ。
あの時、「ちょっと体重計に乗ってみようと思った」それはほんの出来心。
知る喜びと知ってしまう不幸。どちらを取るか、好奇心とのせめぎ合いは続く。
 
 
 
 
***
 
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2020-10-31 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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