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友達を顔で選ぶ

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近藤さん 友達

 

記事:近藤ゆかり(ライティング・ゼミ)

 

「友達を顔で選んでるでしょ」
と言われたことがある。
言ったのは行きつけのアート雑貨店のオーナーさんだ。

たしかに、そのお店にこれまで連れて行った友達は、皆ひとめで「美人だね」といわれがちな、目鼻立ちがはっきりしていて、どちらかというと派手な顔立ちのひとが多かった気はする。
だからといって、そしていくら私が奇麗な顔立ちが好きだからといって(……これは否定できない。何しろ絵描き、それも女性の顔を主に描くのを商売にしてしまうくらいなのだ。奇麗な顔なんか、好きに決まっている)、いきなり「友達を顔で選んでいる」と言われるのは心外である。

と、このように考えて、その時はとっさに
「えーっ、そんなことはないよ」と言って笑いとばしたのだが。

あらためて考えるに、なんで「友達を顔で選んでいる」といわれて、心外だと思ったのだろう。

これが「友達を性格で選んでるでしょ」といわれたら、考えるまでもなく、
「そりゃそうだよ、当然だよ」と思っただろう。それはしごく普通のことばに聞こえる。
つまりこの心外さは、「人を外見で判断してはいけません」「人は中身が肝心です」という、世の中の論調に逆らう事をしている、と言われたようなものだから、感じることなのだ。

最近でこそ、人は見た目だとか外見も大事だとか言えるようにもなってきたけれど、だからといって「友達は見た目が9割」なんてことをいえばさすがに総スカンをくらうだろう。私だって友達に「私、お友達は顔で選ぶのよね」なんて言われたら、それは……

ん、待てよ。
それは、嫌、だろうか?

話はかわるが、私の“奇麗な顔好き”は、自分のコンプレックスに根ざしていると思う。ずっと太っていて、男子にも、下手すりゃ女子にもからかわれていたし、もともとオタク気質(当時はその言葉はなかったが)だったこともあって、思春期になってクラスの女子が休み時間ごとにトイレにいって鏡をみつめている時にも、自分の顔には向き合わずに、ただひたすらマンガや小説、舞台の中のきれいな顔だけを見つめて憧れてきたのだ。

そんな自分が、少しずつ自分の容姿と向き合うようになったのは、大学生の頃だっただろうか。今でも覚えているが、「この子は生まれついての美人で、コンプレックスなんか感じたことはないんだろうなあ」と思っていた友達がいた。でも彼女が言うには、妹がとてもかわいくて、子供の頃、自分はいつも比較されて哀しい思いをしていたというのだ。自分なりにどうしたらきれいにみえるか、できることすべて試すくらいがんばった、どれくらい手をかければ周囲の目がどんな風に変わるのか、そういうこともわかるほど、いろいろなことをしてみたから、今は自然体でもいいとふっきれたのだと、ある時彼女はそんなことを教えてくれた。これには心底驚いた。目からウロコとはまさにあの時の私の状態だ。

自分以外の人たちの努力というものに、おそまきながら気づいてから、まるでリハビリのように、おずおずと、いまさらのように自分の顔を鏡でみて、向き合うことをしはじめた。社会に出てからは、化粧もしないではすまされないし、職場はそこに厳しかったから、さらに外見を気にするようになった。……あくまで、それまでに比べれば、だが。

そんな訳で、今の自分の顔はつまり、「努力のたまもの」みたいなものだ。だからといってコンプレックスが皆無になるわけでもないし、急に顔立ちが変わるわけではないけれど、向き合い、試行錯誤したことで、これこそが自分の顔なのだ、と、受け入れることはできている。

話をもどそう。
そんな今の私に、友達が「顔で選んでる」といったら、私は、どう思うのだろう。
また、同じセリフを私に言われた友達は、どう思うのだろう。

…もしかして、嫌ではないのじゃないか。
「またまた、そんなこと言って」と冗談として受け流しても、内心悪い気はしないんじゃないか。
「ひどい、私の中身じゃなくて、外見で選んだのね!」と憤慨できるのは、考えてみたら、相当自分の外見に自信がある人だけじゃないだろうか。
そうだ、そういえば、私の、これまた美人の友人の弟は、同じ血を引いているだけあってなかなかの美男で、いつも彼女をきらしたことがないらしいのだが、
「みんな俺の外見だけでチヤホヤして、誰も本当の自分をわかってくれない」とぼやくのだそうである。話をきくだに、そりゃあんた、チヤホヤすべきところが他にないからじゃないの(人んちの弟にひどい言いぐさだが)と思うのだが、彼が自分の顔を「中身をみなくても人をひきつけるほどのレベル」と信じきっているのは間違いない。

思わず意地悪な物言いになってしまったが、つまり、それほど「自分はきれいである」と
疑いもなく思いこめるような人でないかぎり、
「友達を顔で選んでいる」といわれたら、実はみんな、結構嬉しいんじゃなかろうか。
そして、そう言われたところで、誰も迷惑しないのではなかろうか。

人には好みというものがある。
私は、美人が好きだし、美しくあろうとする人が好きだ。
外見も、中身も、もともとの素地がどうであれ、美しくありたいともがく人が好きだ。
その美しさとは、世間の一般のそれというよりも、私が美しいと思う、私の価値観だ。
だから、私と同じような価値観を持ち、同じようにもがいた結果があらわれている、友達の顔はみんな大好きだし、奇麗なのは当たり前のことなのだ。

というわけで、これからは「友達を顔で選んでるでしょ」といわれたら、堂々と答えよう。
「そう、だからみんな奇麗でしょ⁉︎」と。

 

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2016-01-29 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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