イスのある食料品店
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:古田綾子(ライディング・ゼミ平日コース)
その店は、店主が一人で切り盛りしている小さな食料品店。
地方に行けばすぐに見つかりそうな、どこにでもある普通の店だけど、ちょっとだけ違うのは、レジの前にイスがふたつ置いてあることだ。
店にはいつも、同じお客さんが、だいたい同じ時間にやって来る。だから、店主もお客さんも顔なじみになる。店主はお客さんひとりひとりの名前を覚えている。
「マキちゃん、いらっしゃい」
「こんばんは~」
店に入ると私はそのイスに腰をかけた。
「あーあ、今日、会社で怒られちゃったよ」
「へえ、珍しいねえ」
「いやあ、私が悪いんだけどさ。『大丈夫だと思います』って言ったら、『確認もしないで思いますって言うのは仕事じゃない』って」
「厳しいねえ」
「まあね。でも、しょうがないよね。実際、確認してなかったんだから」
「そっか。まあ、元気だしなよ。この角煮でも食べてさ」
「えっ、カクニ? だじゃれ? 何それ~」
突然のだじゃれに不意を突かれたけど、おかげで張りつめていた心の糸が一気にほぐれた。さっきまでのモヤモヤがうそみたいに消えていく。
私は角煮を手に、軽やかな足取りで家路についた。
ある週末、たまには自炊でもしようかと思い、あのお店に行った。いつもは会社帰りに寄っていたから、昼間に来るのは初めてだ。
イスにはおばあさんが腰をかけ、店主と話をしていた。
そこに、小さな子供を連れた若いお母さんがやって来た。子供は元気いっぱいで、店の中を走り回ろうとしたり、魚に触ろうとしたり。そのたびにお母さんは「だめだめ」と子供の手を引く。落ち着いて買物なんてできない。
すると、それを見ていたおばあさんが、「ここに座っておばちゃんと遊ぼう」と子供に声をかけた。
「じゃんけんぽんって知ってる? おばちゃんとじゃんけんぽんしよう!」
「じゃんけんぽん」
「わあ、あいこだ。おそろいだねえ」
「あいこでしょ」
子供はもうじゃんけんに夢中だ。おかあさんはその隙に買い物を済ますことができた。
この店では、こういう光景をときどき見かける。お客さんが他のお客さんに手を貸したり、会計が終わった店内カゴを入口に戻したり。レジが混みあったときは、「お先にどうぞ」と譲り合い、イスに座って静かに順番を待っている。一人で切り盛りする店主を気遣って、自分にできる範囲でほんの少し手を貸すのだ。
店主も有り難くそれに甘えている。
おばあさんのレジが終わるまで、私はイスに座って待つことにした。
「マキちゃん、お待たせ。今日は、ピーマンが超おすすめだよ」
「ピーマンかぁ。ピーマンのおかずなんて肉詰めくらいしか思いつかないよ」
「いやいや、細切りにしてさっとゆでで、塩昆布と混ぜればいいツマミになるよ」
「へえ、ツマミにねえ。ということはビールも買わないと、だね」
「毎度あり!」
この日は、すぐに次のお客さんが来て、これだけしか話せなかった。それでも、十分心は満たされた。「居心地の良いこの場所がなくなりませんように」
そんな思いが断ち切られそうなできごとがあった。
「お客さんが来なくなったら、店を閉めようと思ってる」
一年くらい前、店主は私にそう漏らした。
理由を聞くと、近くに大型スーパーが建つという。
「スーパーの方が値段もきっと安いだろうし、種類もいろいろあるから、お客さんがそっちに行っても仕方ないよね」
「そんな! スーパーが建っても、私はここに来るよ」
「ありがとうね」
いつも元気をもらっている店主を元気づけたかった。でも、本当にお客さんが他の店に流れたら、私一人が通っても何の力にもなれない。他のお客さんはどう思っているんだろう?
不安な気持ちのまま3か月が過ぎた。
とうとうスーパーが完成した。
お客さんは、
減らなかった。
スーパーが開店した日も、いつものお客さんがだいたいいつもの時間にやって来たという。
よかった。みんな、私と同じ気持ちだったんだ。
このお店が好きで、店主と話したくて来ている。
この店で交換されているのは、お金と商品だけじゃないと思う。
気の置けない会話もそう。誰かのために手を貸したり、手を貸してもらったり。弱音を吐いてもいいし、甘えてもいい。相手の楽しい話を聞いてこっちまでうれしくなったり、悲しい気持ちを聞いてもらってちょっと楽になったり。
誰かが自分のためだけに編んでくれた言葉は、特別な言葉じゃなくても、ただの相槌でも、心地よい温度で心をじんわりさせてくれるのだ。
イスのある食料品店。
ここは、そんな言葉のやりとりができる場所。
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