【普通脱却プロジェクト】どうしたら普通から抜け出せるのか考え続けて見つけた答え《ありさのスケッチブック》
とにかく私は「普通ど真ん中」である。
好きなものも、考えていることも、とにかく何でも普通だった。
例えば、好きな食べ物。
ハンバーグにから揚げにカレーライス。
小学生並みのポピュラーな食べ物である。実際小学生の頃からあまり変わっていない。
好きなこと。
読書と映画鑑賞とウィンドウショッピング。
無難すぎる。我ながら何かウケ狙いなのではないかと思ってしまう。
私の普段の服装。
女子大生に多いきちんとした格好のものが多い。とにかく他の人と服装が被りまくる。春先なんかは特にひどくて、少し前まで話題になっていた「女子大生の制服」そのものになりがちだった。
※女子大生の制服とは、ベージュの上着にピンクのスカート、白いソックス茶色いショートブーツという服装で、昨年くらいの女子大生の間で流行した服装である。あまりにもこの服装の人が多かったため、「女子大生の制服」と呼ばれていた。
好きなマンガ。
尾田栄一郎先生の「ONEPIECE」である。周りの友達(特に男子)でワンピースを読んでいる、という人はかなり多い。ちなみに好きなキャラクターはチョッパーである。かなりこの人(一匹?)が押しメンバーだという人は多いように感じている。
さらに、星座もてんびん座という、なんとも真ん中にいそうなポジションである。(関係ないか)
以上のように、私はとにかく普通なのである。
どこにでもいる、女子大生なのである。
普通代表なりに、普通で良かったなと思ったこともあることはあるのである。
グループワークをしている時に、周りのメンバーが私の意見に賛同してくれる場合が多いこと。これは、ほとんどの場合私の意見は議論の多数派の意見であるからだ。
そのため、何か議論をしていて他の人同士で意見がぶつかり合ったとしても、私がその「多数派」に微調整していくことで流れは丸く収まる。
しかしながら、私は極端な意見を言えるような、独特で斬新な意見や考えというものに漠然とした憧れがあった。誰かが「他と違う」ということに対しての、羨ましさがあった。私自身はいつも周りと同じような考えに至ってしまうため、独自性や面白みがないと思うようになったからである。
そんな思いを抱えていたから、私の学生時代で一貫して行われていることがあった。
普通から抜け出すための行動、名付けて「普通脱却プロジェクト」である。
小学生の時は、「異性になりきる」ことに憧れた。
周りの女の子たちが徐々に女の子らしくなる流れに逆らいたくて、男子っぽくふるまったり、男子に負けじと力比べなんかをしていた。男子ならばスポーツもできるだろう、ということで学校にあった「朝練サッカーチーム」で毎週ボールを蹴っていた。
中学生の時は、ちょっと道を外れた「悪」に憧れた。
周りの一年生が長いスカートで歩いている中でわざと周りの子よりもスカートを短くしたりした。一年生は白いソックスを履かなければならない、という暗黙の了解がある中で、くるぶし丈のソックスを履いていた。毎回先生に預けていた携帯電話を先生に隠れてこっそり持ち歩いていたこともある。
高校生の時は、「他の誰もが持たないもの」に憧れた。
周りのみんなが無難な色のカーディガンを着ている中、私は誰も来ていない色のものが着たくて、エメラルドグリーンのカーディガンを選んだ。周りでリュックが流行った時は、よくある布地のリュックでは周りと被ってしまうと思い、登山でもするような頑丈で真っ青のリュックを背負っていて、大学受験の時も異色を放っていた。
大学生の時は、「個性が光る人」や「斬新な意見を言える人」に憧れた。
私も周りがやっていないことに挑戦しようと必死だった。学生団体、SA(下級生のクラスを教えるサポーター)、ゼミ、インターン、留学などなど、周りがやっていることを全てやったうえで私の個性が光る強みを見つけようと足掻いた。
このように私は何度も「普通」を抜け出そうとしたものの、なかなか難しかった。
男子になりきったからと言って坊主にはしたくなかったし、
悪に憧れても校則を破るようなことはしたくなかったし、
他の誰かが持たないものが欲しくても結局はマイナーなだけで似たような人はいたし、
個性が光るような独特な人になりたくていろいろ挑戦したものの、結局強みらしい強みはライティングスキルくらいだった。(しかもライバルが多すぎる)
何をやっても誰かがそれをやっていたり、何を言っても誰もが考えつくものばかりだった。
だから、あんなことが起きるなんて思いもしなかったのである。
周りの人から私が言っている意見が全く理解されないなんてことは。
私は普通ど真ん中だから人の意見の多数派の意見を言っているはずだと思い込んでいたのに。
***
それはファミレスでとあるプロジェクトの振り返りをしていた時のこと。
グループワークの中で私の良かったところと悪かったところを指摘してもらった。
「良かったところは、自分の意見をしっかり持っていたところ」
こう言われると、嬉しい。
何を言っても普通ど真ん中なのはわかっているけれど、自分なりの意見や軸というものは意識的に持とうとしているから。私は見た目のせいなのか何なのかよくわからないが、「ふわふわしている」とか「何も考えてなさそう」といった第一印象を抱かれやすいので、確固とした自分を持つことを心がけ、自分を持っていることを周りに伝えるようにしている。意識的にそうするようにしているからこそ、ちゃんとそれが周りにも伝わっているんだと実感できた。だから嬉しかった。
そうやって浮かれている時に、信じられない言葉が降ってきた。
「ありさって案外頑固だもんなー」
え?
耳を疑った。なぜなら、頑固というのは他の人の意見が聞けない人のことだと思っていたからである。先ほども書いたように、私は他の人の意見を聞いたうえで丸く収めることができると思っている。だから、頑固と言われるのがなぜか分からなかった。
私は大好物のハンバーグをよく味わいもせずに、頑固と言われるのは何でだろう、何で違和感があるんだろう、などとぐるぐると考えていた。話も終盤に差し掛かり、就職活動の話をしていた時、私は自分が頑固だと自覚することになった。
私が、目の前の友達に対して、
「あの職業の人は、人が嫌だ!」
と主張した時だった。
「いや、それは偏見」
隣に座っていた友達からの横槍が入ってきた。
その友達は私が嫌だといった職業を中心に就職活動をしているので、そう反論するのも納得である。
しかし、思わぬ攻撃に驚いた私は、嫌だと思う理由を一気にまくし立てた。
「だってさ、すごい偉そうだし性格悪そうだし周りのこと考えられなさそうだし……」
何だか必死だった。友達に「いや、ありさが会ったその人だけでしょ」とか言われても「今まで会ってきたあの職業の人、ほとんどそうだったもん!」と主張していた。
すると、しばらくその様子を見ていた目の前に座っている相手から私はとどめの一言を食らった。
「ねえ」
「なに!!」
「○○さん(私が尊敬している人)ってあの職業出身だよ」
「……!!!」
言葉が出なかった。○○さんは絶対に嫌な人じゃないし、自分勝手じゃない。言い返す術がなかった。
んんんんんー! それでも何だか納得できない!
そう思ったのが顔に出ていたのだろう。
はははっと笑われて、
「その顔だよー、写真取ってあげよっか?」
と、目の前にいた友達が携帯を掲げようとした。
あーーー! もう!
たまらなくなって私は顔を手で覆った。
「その頑固さは悪いことではないと思うけどねえー」
目の前の友達は慰めなのかよくわからない言葉を私にかけた。
私は顔から手を外し、そっぽを向いた。何故か涙がこぼれそうになっていた。
そこで気づいた。
私は自分が「普通ど真ん中」だと思っているから、どんな人にも自分と同じ意見だと考えてしまうことを。
自分の意見が理解されないとこんなにも納得できなくて、悔しいのか悲しいのかよくわからない感情になってしまうことを。
そして、この一連の対応は確かに「頑固」そのものだ。
今まで経験してきたいろんな議論を思い返してみると確かにそうだった。私がこだわりを持つと、絶対に譲らなかった。私にとって絶対そうだと断言できるほど強い意見であればあるほど、その間違いや真向からの意見には首を縦に振らない。どんなに相手が論理的に正しいことを言っていても私は自分の意見を頑として曲げなかった。もしかすると無意識のうちに譲ったら負けだ、とどこかで思っているのかもしれない。
そういえば、大学受験の時も塾の講師に「滑り止めの大学、練習に受けなよ」と言われたときも従わなかった。「いや、私は志望校以下の大学は行きたくないので受けません。滑り止めの受験のために時間を割くなら志望校対策の勉強をします」と、結局滑り止めを受けなかった。
「レベルの高い大学に行ける可能性が増えるからいろんな学部を受けとくといいよ」と言われたときもそうだった。「私はこの学部じゃないと行きません。興味もわかない学部の試験なんて受けたくないです」と、自ら高学歴を勝ち取る可能性を狭めた。
強いこだわりが、私を頑固にしていた。そうじゃないといけない、という思いが私に他の意見を聞く耳を持たせなかった。どうやら私が自分の意見と全く違うことを言われたときに相手の意見を聞き入れるのは、議題に対して自分の意見にこだわりや強い思いがなかった時のようだ。
「私って、こだわると頑固なんだね」
噛みしめるように言葉にした。
私のこだわりは必ずしも「一般的で、普通である」わけではないのだ、とこの時に実感した。
***
初めから私は「100%普通」なんてことはなかったのだ。私なりの「普通」が世間の「常識」と重なる場面が多すぎて、いつのまにか自分が「普通代表」だと思い込んでいたのだ。
ただ、重なる時が多いだけ。私の意見が周囲と全く異なることだってあるのだ。
私にとっての「普通」が、他の人にとっても「普通」だというわけでもないのだ。
自分が周りと違うことがあると気づいた途端、私はそわそわと落ち着かない気分になった。少しばかり不安になった。
あんなも私は周りと違うことに憧れていたのに。今までずっと「普通脱却プロジェクト」をしてきていたのに。
結局、私は普通であることで自分が守られているように思っていたのだ。
普通で一般的なことならば、誰かに攻撃されることはない、そう思い込んでいたのだ。
いつどこで何をするときも私は普通だから大丈夫、と自分に自己暗示をかけていたのだ。
普通でないことに不安を覚えるなら、いったい私はこれからどうなりたいのだろう。
「普通のままでいたい」?
「周りと違う存在でいたい」?
……どっちにもなれるようになりたい。
これが、学生生活で永遠と続けてきた「普通脱却プロジェクト」を経て私が出した答えだった。
私はやはり、普通を捨てきれなかった。だからといって他と違うことも今まで通り目指したかった。
やれやれ、人間というのは実に非論理的的なものである。
相反した想いを持ち続けたいなんていったいどういうことなんだ。我ながら、本当によくわからない。
でも、考え方次第では、自分にとっては普通でも他と違うと思えることもわかった今だからこそ出せた結論である、と思う。
まあいいのだ、これで。
私は無理して「普通脱却プロジェクト」をしなくても、他人とは違う存在になれるのだ。
そもそも「普通の割合が少しだけ多い私」という人物は私は私一人しかいないのだから。
これからする様々な選択の中で普通の道を選んでしまったとしても、それはそれで「私」という独特で唯一の個性なのだから。
そう思えただけで、私はすっと心が軽くなった感覚を覚えた。