メディアグランプリ

風が吹く日の思い出



記事:つん(ライティング・ゼミ)

「先生、はさみをとってきます」
そういって保育園児のわたしが向かったのは文房具箱のある教室ではなく、トイレだった。とにもかくにも、オシッコがしたくてたまらなかった。用を足して戻ってくると、先生からしこたま怒られた。
「どうして本当のことを言わなかったの」
わたしは黙っている。スカートをキュッとつかむ。そういえばどうして、本当のことを言わなかったのかしら。昔からその性格は変わりなく、わたしは時々どうでもいい嘘をついてしまう。そして驚くほどに、わたしは嘘を信じやすい。

嘘は、風に似ている。

わたしが小学校1年生の頃。なんだかいつもより蒸し暑い夜だった。父母と並んで眠っていたわたしは、水が飲みたくて寝ぼけながら身体を起こした。その少し向こう側にいる両親の影。眠い目をこすりながらぼんやりと眺める。わたしの目に映った、母の白い身体。透き通ってたしかに流れている血液。少し垂れている乳房を父が包みこみ、荒げる息を噛み殺して、2人はお互いの中でうごめいていた。反射的に目を逸らし、自分の見た世界を振り払うように、布団に顔をうずめる。誰にもこの鼓動が聞かれませんように。コトン、コトン、コトン・・・その音がやけに、耳の近くで鳴り響いている。ぴくりと固まったわたしの動きを、母は見逃さない。翻した部屋着をサッと羽織り、父を制して何事もなかったかのように、そのまま静かな夜へと、眠りに落ちていった。

次の日は土曜日。嫌悪感と憧れのまじった、けだるい朝だった。スーパーで万引きをした小さな子どものように、たしかに残る興奮と罪悪感を抱きしめて、わたしは布団の上から一歩も立ち上がれなかった。気付くとわたしはひたすらに、鏡に向かって「おはよう」の練習をしていた。いつもどんなふうに、あいさつしていたんだっけ。考えに考えたあげく、追いつめられたわたしの両親へのおはようは、おっかなびっくりの超不自然なものになった。そんなわたしの小さなおびえに気付いた母が言った。
「昨日は特に暑くて、お父さんが汗を拭いてくれたのよね」
何かが音を立てて落ちていくようだった。ざわざわと、森の木がざわめいている。母がついたその嘘が、父と母をどこか遠くに運んでしまうようで。わたしは木枯らしの中で、小さな落ち葉のように、みじめさと寂しさで、ほんのりと色づいていた。もしかしたら世界にはもう、わたしを見つけてくれる人は1人もいないかもしれない。なのにどうしてだろう。その風は暖かかった。わたしを傷つけないように、ゆっくりとふんわりと吹いていた。「大きくなったらわかるよ」ざわめく森の間から、声がした。

好きな人ができた。15歳のことだった。同じクラスの同級生の男の子。つりあがったいじわるな目元。ぶっきらぼうに話す横顔。なのに、笑った彼は全身が隙だらけで、人を包み込むオーラを漂わせていた。高校生だった私たちは毎日先生の目を盗み、放課後の教室でキスをした。シンとした教室の薄明かりの下で、パタパタと廊下を走る生徒の足音に耳を澄ましながら、溶けてひとつになってしまうくらいに熱く、私たちはキスをしていた。

やがて彼は広島、わたしは東京の大学に進み、遠距離恋愛が始まった。離れている彼の住む街へ向かう夜行バスのなか。小さくともる高速道路の灯りを眠れずに見つめながら、浅く優しい眠りとともに、彼に会いに行くのが大好きだった。お互い別々の場所にいるのに、会えば昨日のことのように笑い合え、話しても話しても、言葉が途切れることなく続いていく。帰りの夜行バスが迎えにくるときは、ぎゅっと握りしめた手を離したくなくて、小さくなる彼の姿を、窓越しに何時間も見つめ続けていた。

「単刀直入に言う。俺と別れてくれないかな」
4月1日。付き合って8年半後の、出来事だった。両手いっぱいに抱きかかえていた大切なアルバム。パラパラパラと音を立てて舞い上がり、突風はいつでも、容赦なくそれをさらっていってしまう。彼はわたしに言った。実は広島に好きな人がいたこと。ずっとそれを告げられず、日々を過ごしてきたこと。
「だからもう、会えない」
藍色に染まる空が、静かに私たちを見ていた。

3年後、知人から聞いた。彼はわたしに別れを告げたあと、南スーダンに赴任したと。紛争の最前線で指揮をとる、危険な仕事についたらしい。そして今もその場所で、現地の患者や女性など、武器を持てない人々の護衛をしているのだ、と。
彼は何度も風を吹かせる。遠い異国の地でたしかに生きている彼の横顔に向かって、わたしはただ静かに、でもまっすぐに、祈った。ひぐらしのなく声に、終わりかけの夏が連れてきたつめたい風が通る。涙が、とまらなかった。

嘘は、風に似ている。
もうけして戻らない思い出と大切な記憶をのせて、風は吹き抜ける。
そしてある日ふと思い出したかのように、春風が吹いて。忘れていたあの人の香りを、ほんのわずか頬をかすめて運んでくる。愛しい、風。
毎日、風が吹く。目に見えない風に包まれて、わたしは生きている。
そして今、この手をそっと、空にかざした。

 

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2016-05-12 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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