医者4年目の春、心療内科で出会った不登校の摂食障害だった少女から聞かれたこと
記事:庭瀬亜香(ライティングゼミ)
その小学校から学校に殆ど行けてなかった19歳の少女Sはまっすぐな目をして私にこう尋ねた。「生きる意味って何ですか?」「なんのために学校に行くのですか?」と。私は答えに詰まった。街中のスターバックスで、女友達と放課後おしゃべりしていそうな、ごく普通のとても可愛い女の子だった。
彼女に出会ったのは、医者になってまだ4年目の春、私が心療内科レジデントとなった関東の国立K病院の心療内科病棟だった。研修医が終わった後、当初は、亡くなった父のクリニックを再建させたいと同じ消化器をメインにした家庭医を目指して内科に残ったのだが、1年間内科レジデントをする中で、しみじみ自分が内視鏡やエコーなどの消化器内科的な検査や手技に興味がないことにやっと気が付き、進路を考え直していた。内科レジデントの1年目も終わりの頃に、ようやく自分が実は患者さんと対話することが大好きで、言葉を用いて家族関係や社会文化背景も考慮に入れた全人的な治療がしたいと思っていることに気が付き、思い切って医者4年目にして心療内科では有名な国立K病院に移ることしたのだった。
一般的に、精神科と心療内科は混同されていることが多いが、本当は全く違う。精神科は心の病を治療していく科であるのに対して、本来の心療内科は、心ではなく、身体の病気を心身相関の視点から、カウンセリングなどで治療していくという実は内科の一種である。しかし、戦後、K大学から始まった本来の心療内科の流れは徐々にすたれていき、今では一般的には、心療内科はマイルドな精神科のイメージとなってしまった。その頃の私は、言葉を用いて、心ではなく身体を治療していくことにより興味があり、あえて精神科ではなく、今でも本来の心療内科のスタイルを守っている数少ない国立K病院で心療内科レジデントとなることにした。関東近郊の典型的なベットタウンにある国立K病院は、心療内科だけでなく精神科でも有名な病院で、心療内科と精神科は完全に別の専門として存在し、新人医師の教育にも力を入れているので有名だった。幸い、レジデントの席に急遽キャンセルがあり、3月というかなりぎりぎりの時期に応募したにも関わらず、私は無事に心療内科レジデントとして4月から働けることになった。
実際に、心療内科レジデントとなって驚いた。私の予想と異なり、入院患者の9割以上は摂食障害の女性ばかりで、他の疾患はほぼおらず、年代は10代から70代までとかなり幅広かった。摂食障害とは、食行動に異常がある疾患で、摂食中枢に障害を生じたため、拒食もしくは過食になる病気である。ほぼ女性が中心で、基本的に先進国にしか見られず、社会的・文化的影響が強い疾患といわれている。この現代日本で自ら食べられない、もしくは食べても人為的に下痢嘔吐し、著名な体重減少のため餓死することもあるという、実は身体的にかなり重篤な病でもある。高校時代にとても親しかった友人が大学で摂食障害になり、当時、何度もお見舞いに行ったり摂食障害の関係の本を何冊か読んだりはしてある程度は知っているつもりではいたが、医者となってからは摂食障害の患者さんを診たことはなかったため、彼女たちの心身共に置かれている状況のシリアスさに、私は圧倒された。私で果たして務まるのかやや不安になりながらも、指導医の外来を陪席したり、病棟回診に入ったりする毎日が始まった。
今までいた内科とは全く勝手が違う心療内科の病棟にかなり戸惑いながらも、ようやく多少慣れてきた2週間目に、指導医からこの病院に初めて入院する摂食障害の少女の主治医にならないかと打診があった。摂食障害としては軽症で、体重コントロールのために入院する若い女性なので、私でも大丈夫ではないかということだった。大学時代にカウンセリングの勉強はかなりしていたとはいえ、あまりに重篤な患者さんが多いことに圧倒されていた私は、自分で主治医が務まるのかやや不安になりながらも、折角の機会と思って引き受けることにした。その患者さんが、19歳の少女Sだった。
初めて彼女と会ったのは、病院の正門の並びにある地元でも有名な桜並木がすっかり散ってしまった頃だった。殺風景な病棟の面会室に入ってきた彼女は、同年代よりやや幼く見えるが、顔立ちは可愛らしくファッションも流行りの恰好をしている一見普通の女の子だった。しかし、病歴を聴いてみると、実は、小学校高学年から過食嘔吐を繰り返し、そのあまりの激しさに家族も殆ど見放していたほどだった。兄と弟がいたが、兄弟とも交流はなく、一人で自室にこもって、大量の食べ吐きで一日の大半が終わっているようだった。あまりに食べ吐きが激しいので、学校にも行けなくなり、高校は一応、通信制に所属はしていたが、殆ど課題も出せておらず、ずっと留年していた。書類に記入してもらった字を見ると、小学生のようなひらがな交じりの幼い字で、同年代の女の子たちが一番学校に友達に楽しい時を過ごしているときに、自室で一人こもって食べ吐きにほとんどの時間を過ごしてきた彼女の病状の深刻さが察せられた。
私は、自分自身の緊張を悟られないように注意深く言葉を選びながら彼女の病歴を聴き、そして、最後に何か質問したいことはと問いかけた瞬間、待っていたかのように彼女がこう言った。「何のために学校に行くのですか?」「何のために勉強するのですか?」と。私は不意打ちを食らって、一瞬何も言葉が思いつかなかった。「いろんな医者に連れていかれたけど、みんな上っ面ばっかり。お父さんやお母さんは、学校に行けというけど、何のために学校に行くの? 何のために? 誰も答えてくれない。答えられないのに、どうして私に学校に行けというの?」
私は、自分自身が逆に混乱しているのを感じた。彼女の問いはもっともだとも思った。確かに、学校に行く意味なんて大多数の学生は考えもせずに、ただ行かなければいけないと思って行っている。それに何の意味があるかと聞かれて、仕事をするのに必要だからというのはたやすい。でも、例えば、ファッションのお店で働きたい人に、高度な数学がなんでいるのか、ということには全く答えていない。自分自身、かなり回り道をして医者になったこともあって、彼女の問いにはもっともと思うところもかなりあったと同時に、これは手ごわい相手だということにようやく気が付いた。なんとか答えをごまかして、まずは入院生活を頑張ってみようということで初回の面談は一応終わったが、これから毎週2回、1回1時間の面談は私にとって色々な意味でかなり試練になりそうだと覚悟した。
入院患者としては、彼女はどちらかというと模範的だった。過食で体重が増えていたため、入院中カロリーコントロール食のみにして、おやつなどは一切禁止にしたところ、まだ若いこともあって、順調に体重は予定通り減っていった。しかし、新米心療内科医の私には、彼女はかなり手ごわい患者さんだった。彼女には殆ど表情がなかった。かなり警戒心をむき出しにしていた彼女に、まずは、信頼してもらうことを第一に私は週2回の面談を繰り返した。徐々に心を開いてくれたのか、両親ともに共働きで、幼いころから家事を手伝っていたこと、兄弟は全く手伝おうとしなかったので、一人で頑張っていたこと。お母さんのために、少しでも役に立ちたいと思って頑張っていたけど、小学校高学年くらいから、中学受験のプレッシャーもあって、徐々に過食が進んでいったこと。塾帰りにおやつを大量に買って食べるようになって、でも、太るのが怖かったから見つからないように吐くようになったこと、そのうち、それが一日の大半になって、学校に行くことすらできなくなっていったこと、何度も死のうと思ってリストカットしたことなどを、ぼつりぼつりと教えてくれた。もともとは、きっととても賢くて親の言うことを聞くどちらかというと優等生タイプの女の子だったのだろうということが察せられた。
私は、混乱した。彼女の話はかなり壮絶で、よくここまで生き延びてきたと思えるくらいだった。しかし、話の内容とは裏腹に、彼女の口調はまるでロボットのようだった。全くといっていいくらい感情が感じられなかった。彼女は同年代の友達もいなかった。唯一、通信制の学校で友達になった女の子がいたが、彼女も、リストカットや摂食障害を抱えており、お互いよっぽど調子がいい時でないと話すことはできなかった。兄弟はともに順調に進学しており、やっかいな彼女と関わりたくないのか、2カ月間の入院の間、一回もお見舞いには来なかった。父親も仕事が忙しいことを理由に必要な時以外、殆ど来ることはなかった。唯一、母親だけが家族の中で、彼女の味方だったが、その母親さえも彼女の激しさを持て余しているように見え、最低限以外は殆ど見かけなかった。どちらかというと、家族全員が彼女の入院でほっとしていることが、部外者である私にもひしひしと伝わってくるような家族関係だった。
主治医としての力不足を感じながらも、なんとか彼女のトラウマや家族関係をときほぐそうと私は四苦八苦し、渋る両親を説得して一緒に家族面談も行った。しかし、両親ともにこれまで彼女で散々苦労したという思いが強く、どんなに話しても平行線のままで、彼女が望んでいたような理解は得られなかった。そして、不思議なことに、そんな親にも、彼女は一見とても淡々としていた。そして、親もなぜか淡々としていた。私は、そんな彼女と両親に何かずっと違和感があった。何かうまく説明できないけれど、何か一番大事なものをみんなが見ないようにしている、そんな気がしてならなかった。私は罪悪感で一杯だった。私は彼女の話を聴くくらいしかできなかった。しかも、彼女の深い心の傷の奥底までとても癒しきれなかった。前から多少カウンセリングを学んでいて、きっと彼女の役に立てると思って主治医になったけれど、実際には、殆ど何の役にも立ってなかった。両親も変わってなかったし、彼女も変わったのは体重だけに思えた。彼女の心の病の入り口にさえ立てなかった、そんな気がしてならなかった。
もう退院が決まったある日のことだった。いつもの面談の最後に何か聴きたいことがないか私が尋ねると、彼女はしばらく下を向いて口をかみしめ、そして意を決したように私の眼をまっすぐ見てこう言った。「先生、何ために私は生きているのですか?」と。余りの不意打ちに私はすぐに返事ができなかった。何と答えていいか、わからなかった。もちろん、哲学書のように通り一遍の答えをすることもできたが、そんなお手本のような返事をしても、今まで修羅場を潜り抜けてきた彼女が納得しないことは明らかだった。私と彼女の間にしばらく時間が流れ、時計のコチコチと時間を刻む音だけが静かに部屋に響いていた。私が何か言おうと口を開きかけた瞬間、突然、彼女は泣き出した。今まで面談でどんなに悲惨な話をしてもなくことがなかった彼女が初めて泣くのを私は茫然と見ていた。生きていることがつらい。何のために生きているかわかれば頑張れるけど、何のために生きているのかわからない、それがわかれば、がんばれるのに。お父さんもお母さんも、私がいなければいいと思っている。お兄ちゃんも弟もそう。私が家にいるだけで邪魔者扱いする。汚いものを見るみたいに見る。居場所がない。せめて、生きる意味がわかればまだ生きたいと思えるのに、生きている意味を教えてほしい、と彼女は泣きじゃくりながら一気に話した。今まで感情を表に出さなかった彼女から、2カ月間の入院の最後になってようやく絞りだされた言葉に、私は愕然とした。
彼女の言っていることを、思春期のありがちな人生の疑問として片づけることもできた。でも、面談室に響いた彼女の泣き声は、そんな単純なものではなく、彼女の今まで食べ吐きに費やされた10年近い年月を彼女自身がどう消化していいかわからないくらい未消化のまま抱えていることが、私にもよくわかった。学校に殆ど行けてないとは思えないほど、彼女の質問は人生の核心をついていた。こんな大事な質問に、まだ医者4年目の私が答える能力も資格もあるとはとても思えなった。でも、その時の彼女に何も答えないのは、彼女からようやく伸ばしてくれた細い糸を切るような気がしてならなかった。
苦し紛れに私は言った。もしかしたら、人生は山登りみたいなものかもしれない。時々は平地で時々は山で、つらいこともあるかもしれないけど、山登りをすること自体に意味があるのかもしれないよ、と。彼女はあまり納得してない顔をしながらも、泣き止んで私の言葉を聞き、言った。「山登りはいつ終わるの?」と。私は言った。人生ずっと山登りが続くと思うよ、この山が終わったらまた次の山って。それが人生なんじゃないかな、山登り自体が人生なんじゃないかな、と。自分の中途半端な答えに半ば罪悪感を覚えつつ、私は彼女の眼をなんとかまっすぐ見て答えた。私の眼を一瞬見て、彼女は突然もっと激しく泣きだした。今までの人生全部の悲しみを吐き出すかのように、激しく泣いた。私はそんな彼女を静かに見守ることしかできなかった。
今思い返しても、その時の私の答えは答えになっていなかったなと思う。それでも、なぜか、その面談の後から、彼女は少しだが変わったように見えた。相変わらず、精神的には不安定で、家族との関係もあまり何も変わっていなかったが、何かが彼女の中で沈殿していったようで、退院前の短い間だったが、少しずつ、親との関係を整理して考えられるようになってきたように見えた。
摂食障害の体重コントロール目的の入院としては模範的だった彼女は、予定通り2か月で退院していった。外来では、ベテランの指導医が主治医となった。退院後、かなり荒れていた時期もあったが、その指導医の外来が功を奏したのか、それとも、幸運なことに、たまたま理解ある優しくサポートしてくれるボーイフレンドができたためか、徐々に回復に向かっていったと後から指導医から聞かされた。純粋に、嬉しかった。
あれからもう6年近く経った。だが、私はまだ彼女の問いの答えを知らない。彼女の問いはずっと私の心の奥底に響いている。あの時は、まだ医者4年目で、心療内科に移ったばかりだから答えられなかったのかと思っていた。でも、医者10年目となった今でも、あの時よりまともな答えを言える自信は全くない。あれから精神科に移り、社会から何十年も隔絶された慢性期病棟にいる重篤な患者さんたちの主治医も沢山した。生きる意味は何だろうと思うようなこともあれからも沢山あった。でも、そんな私の思いよりも、患者さんたちのほうがたくましかった。何十年も病院の中でたくましく生きていた。私の中途半端な感傷とか同情なんて全く何の役にも立たない位、患者さんたちはたくましく生きていた。
もしかしたら、本当になぜ生きるかという答えを心の底からわかっている人は殆どいないのかもしれない。それぞれが、それぞれの意味を見つけながら、毎日をすごすことが、もしかしたら生きることなのかもしれない。もしかしたら、生きるとは、生きる目的を探して歩く旅路そのものなのかもしれない。
そんなことを思いながら、スターバックスでこの原稿を書いていると、突然、横に座っている女の子が楽しそうに友達にこう言っているのが聞こえた。「山登りしているみたいだね」と。私は一瞬耳を疑って、そして一人微笑んだ。
(登場人物のプライバシーに配慮して、登場人物の詳細は特定できないようにかなり変更してあります)
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