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財布でつなぐ、日本人の心


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:鈴木 千弥(ライティング・ゼミ4月コース)
 
 
ボタッ!
 
重たげなものが落ちた音がして、私は振り向いた。娘を保育園に迎えに行き、家に帰る途中の事だった。
振り向いた10m程先に長財布が落ちていて、その先を足早に歩く女性が見えた。女性は両手に荷物を抱え、右肩の大き目なトートバッグは口のところまで荷物が入っていて膨らんでいる。
 
「ああ、あのパンパンなトートバッグから、長財布がこぼれ落ちたな」
 
私は瞬時に察した。私はこう見えて、数々の物を落としてきた、「落とし物をする方のプロ」だ。
ハンカチ、ストール、携帯、もちろん財布、落としていない物はない。落とす時は必ず、たくさんの荷物を口が開いたバッグに詰め込み、何か別の事や時間に気を取られていた。その状況に、その女性は当てはまっている。そしてその女性と私達以外、道に人はいなかった。
 
「お財布、落としましたよー!」
 
私は叫んだが、女性に声は届かなかったらしい。立ち止まらずどんどん歩いて行ってしまう。しょうがないので私は追いかける事にした。いつもだったら追いつく自信があったが、今は4歳の娘の手を引いている。娘をその場に待たせて自分だけで追いかけようとしたが、色々あるこの世の中を考え、諦めた。
「財布が落ちているから、届けてあげようね。頑張って早く走ろう」
娘に声をかけ、娘の速度に合わせて早足で財布を拾いに行く。財布に近づくと、それは某ブランドの長財布だった。そしてフルジップタイプといって、長四角の形の財布の三辺を全てチャックで閉じるものだったが、目の前の物はチャック全開で、中のカードやお札が見えている。うーん、私より慌て者だな。
私は財布の中身が落ちないように片手でつかみ、もう片方の手は娘とつなぎ、遥か先を歩く女性を追いかけた。両者の距離は中々詰まらず、女性は角を右折してしまった。
角を目指して娘と小走りし、角を曲がると、女性の姿は消えていた……。
そしてどこかの家の扉がバタン、と閉まった音がした。
この辺りの家の人だということは分かった。住所が分かれば届けてあげられる。私は開いていた財布を覗き込んだ。だが運転免許証は入っていなかった。
これでは住所が分からない。しょうがない、交番に届けよう。
私は娘に交番に財布を届けてあげようね、と言って踵を返し、手に財布を持ったまま道を少し戻る形で交番を目指した。
 
交番に着くと、「パトロール中です」と看板が出ており、中には誰もいなかった。
お札が入っているから、交番といえども置きっぱなしにはできない。
交番の扉を開けると、机の上に電話があり、「受話器を上げると警察につながります」という案内があった。これは助かる。机に財布を置き、受話器を上げると秒でつながった。
「はい、警察です」
「財布を拾ったので今〇〇交番に届けに来たのですが誰もいなくて。どうすればいいですか?」
警察の人は財布と聞くと慌てた様子で言って来る。
「今すぐパトロール中の警官を戻しますので、ちょっと5分程待てますか」
「……子供がいるので、急ぎでお願いします」
5分と聞いて、一気に気分が落ちる。子供の機嫌が持つだろうか。
ところが5分経たずに自転車に乗った警官が到着。子供の機嫌も悪化せず、おとなしく手をつながれているので、落ち着いて警官に机の財布を指し示す。
警官は何も書かれていない、わら半紙とボールペンを渡し、住所と名前と電話番号を書いて欲しいと言ってきた。最初から取得物の申請書みたいなものに書くのかと思っていたが、違うようだ。書き終わったところで警官がいきなり言う。
「権利どうします?」
「は? 何ですか?」
「ですから、権利です」
警官からそれ以上の説明はない。
……ああ、取得物の何%を拾った人がもらえるという権利の事だろうか。
「要らないです」
私は即答した。別に御礼の金額を貰いたいから届けたわけではない。落とし物を落とし主に戻してあげたいだけだからだ。拾った経緯を説明すると、警官が眉間に皺を寄せながら不機嫌そうに聞いてくる。
「落とした人が分かっているのに追いかけなかったんですか」
財布を届けたのに、なぜ不機嫌そうに言われなければならないのだろうか。
「いや追いかけましたけど、この子がいるので走れなくて追いつけなかったんです」
警官は納得した様子だったが、私の中で不愉快な思いが残った。
 
その後警官はトレイの上に財布の中身を出し始めた。
出てきたものは、スーパーのポイントカード、お札、薄型のお守り、レシート。そしてファスナーポケットの中から顔写真付きの身分証明書。
警官からは落とした人が写真の人かどうか確認されたが、後ろ姿しか見ていないので分からなかった。
ああ、財布を落とすと、こんな風に身分証明書の顔をじっくり眺められたりするのだね。私がお財布を落とした時も、どれほど眺められたのだろうか。ちょっと恥ずかしくなった。
次に落とした時の為に財布の中身を綺麗にしよう……いやいや、今後一切、落とさないようにしなければ。
やがて警官は出したお札を数えてこちらに見せてくる。
「53,000円ですね」
1割の謝礼だったら5,000円。ちょっと惜しいかも? だって
 
……にんげんだもの。
 
警官の手続きは進み、出された正式な申請書に署名した。権利放棄の欄や、拾った人の情報を財布の持ち主に知らせるかどうかの欄にも、「知らせない」という方にチェックを入れてやっと私の任務は完了した。
良いことしたはずなのに、複雑な気持ちを味わったせいでモヤモヤした気分だったが、交番を出ようとすると警官が敬礼をしてくれた。
お財布だけに現金なもので、あっという間に気分が晴れ、良い事をした実感が湧いてきた。今までさんざん色々なものを落として、人に拾ってもらったけれど、初めてその方たちに恩返しできたような気がする。
私は娘の手を引き、気分よく帰宅した。
 
その後調べたところ、財布の届出は37万件とのことで、物凄い数だ。警官がちょっと不機嫌そうにした理由が分かった気がした。
財布の権利について詳しく説明しなかったのも、おそらく権利の比率や手続きなどで質問や揉め事になることが多いからではないだろうか。
ただ2018年のデータだが、日本では財布を落としても93%が戻り、現金は46%戻ってくるという。
落とし物や現金がこのように高い確率で戻るというのは凄いことだ。かの東京オリンピックの招致の際に、滝川クリステルさんは、日本の「おもてなしの心」の例として「落とし物が持ち主の元へ戻ってくること」を真っ先に挙げている。これは日本人の心に「落とし物はそのまま持ち主に返す」ことが根付いているからではないだろうか。
だから私も躊躇なく財布を届け、手続き中の誘惑にも負けずにすんだのだと思う。
 
後日、保育園からの帰り道で、娘が財布の落ちていたあたりを指さし、嬉しそうな顔をして言った。
「あそこで、さいふをひろって、とどけてあげたんだよね」
 
ああ、財布届けて良かったー!!
 
こうして日本人の心は次世代に受け継がれていく。
 
 
 
 
***

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2022-07-05 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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