左胸が軽かった日のこと
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記事:西部直樹(ライティングゼミ)
しかたない、諦めるしかない。
わたしは、車窓に映る自分の姿を見ながら、呟いた。
今からとって返したのでは間に合わない。
なんてこった……。
いつもより軽い左胸を押さえた。
そうだ、まだ充分ではないから、と置いておいたのが失敗だったんだ。
朝の通勤ラッシュの電車、人波に揉まれながらやっと掴んだつり革。
一息ついて、左胸のポケットを探った。
やや、
ズボンのポケットを、前、後と探る。
やや、
前にかけているビジネスリュックのポケットを開ける。
やや……。
どこにもない。
ああ、机の上に置いてきてしまった……
今日は、午前中に打ち合わせが一本。
午後は、初めてのところで講演が一本。
夜には、いつもの仲間と下北沢で一献。
打ち合わせは、いつものところだし、このまま行けば間に合う。
午後は、初めてのところだが、地図は用意してある。大丈夫だろう。
夜の飲み会も、地図はある。大丈夫だ。
たぶん、大丈夫だ。
携帯電話を忘れたけれど、何とかなるだろう。
渋谷の駅を降りて腕時計をみる。
時間は携帯の時計ではなく、腕にした時計で確かめている。
だから、携帯はなくても大丈夫なのだ。
でも、少し左胸が軽い。
打ち合わせはつつがなく終わり、宮益坂を下りながら左胸ポケットを探る。
ああ、そうだ、携帯を忘れたのだった。
メールのチェックも、LINEのチェックもできない。
できないけど、まあ、いいか。
寸秒を争うような仕事でもない。
昼食のために入ったケンタッキーで、オリジナルチキン2ピースとジャスミンティを前に、左胸を探る。
ああ、そうだ、携帯を忘れたのだった。
今日の昼食の写真を撮れない。
健康診断の結果を受けて、少々の食事制限中なのだ。
きちんとお医者さんから出されたガイドラインに沿った食事をしているか、外食時には写真を撮って妻に送っている。
しかし、携帯がないと写真が撮れない。
LINEで妻に写真を送れない。
まあ、いいか。
手帳に昼食:ケンタッキー、オリジナルチキン2つ+ジャスミンティーとメモをとる。
携帯がないと、いささか手持ち無沙汰だ。
いつも読むニュースサイトが見られない。
妻からのLINEも読めない。
まあ、妻からのは、健康情報に、カラオケ半額チケットあるよ、とか、息子が相変わらず勉強しないとか、娘が反抗的だとか、家族の情報がほとんどだ。
今、どうしても見なければいけないものはないだろう。
今すぐに見なくてもかまわないものばかりだ。
たぶん。
私はいささか行儀が悪いなと思いつつ、リュックから読みかけの本を出し、チキンを片手に読みはじめた。
周りの人たちは、忙しそうに携帯をのぞき込み、指を動かしている。
本を読んでいるのは、私だけだった。
午後の講演会場は神田にあった。
千代田線の新御茶ノ水を下り、地上に出て神保町方面に向かう。
先方から送られてきた地図は、いたってシンプルだ。
よくわからない。
こんな時は、グーグル先生に道案内を……。
ああ、そうだ、携帯を忘れたのだった。
しかたない、住所はわかる、電信柱や建物にある住所表記を頼りに歩く。
店の前でゴミを片付けている人にも聞いた。
割とすんなりと目的の場所に着くことができたではないか。
左胸が軽い分、フットワークもよくなったのか。
講演が終わり、主催者側と少し雑談をして会場を出たら、夕闇が迫っていた。
ちょっとメールでもチェックしておくか、と左胸に手を伸ばしかける。
ああ、そうだ、携帯を忘れたのだった。
メールは帰ってからにしよう。
LINEも見なくてもいい。
「いまどこ?」のひと言に、ドキドキしてしまうこともない。
GPSで今どこにいるのかを知られることもない!
おお、そうだ。
堂々とというか、LINEで家人に断りを入れることなく、池袋の本屋さんとか、映画館とか、とかに行けるのだな。ふふ。
まあ、今日は下北沢で飲み会だけれど。
乗った電車は、どこかで車両故障があったとかで、しばらく動かなかった。
予定より半時間ほど遅れて下北沢に着いた。
小田急線が地下になって、下北沢の様子も変わった。
30年前に遊んでいたのとは、少し違っている。
飲み会の会場の地図を手に、いささか途方にくれた。
この店はどこにあるのだ?
こういう時は……
ああ、そうだ、携帯を忘れたのだった。
グーグル先生もない。電話をして聞くことも叶わない。
公衆電話も見あたらない。
神保町の時のように、自力救済しかない。
しかし、行きなれない街の中で、迷ってしまった。
道行く人に聞いても「あ、私もはじめて来たので……」とか、
「わからないなあ」といわれるばかり。
小一時間も彷徨った末、やっと目的地に着く。
店に入り、仲間のいる部屋に案内される。
個室の扉を開けると
友人が
「遅かったなあ、もう、はじめているよ」といい、
妖艶な人妻が
「どうしたの?」と聞いてくる。
背を向けて座っている華奢で可憐な彼女が、ククと笑う。
彼女の隣には、誰だろう、いつもとは違うメンバーだ。
しかし、その女性の後ろ姿はどこかでみたことがあるような、というかなじみ深い感すらある。
その女性が振り向いた。
「何やっているのよ、はやく座んなさいよ」と、聞き慣れた声で叱られる。
私は息をのんだ。
なぜ、彼女がいるんだ。
私の方を見ながら、妖艶な人妻が
「遅いからどうしたのかと思って、あなたの携帯にかけたら、美和ちゃんがでるじゃない。びっくり、まあ、ついでに飲み会だよっていったら、来たのよね」
そうか、そういうことか。
ああ、そうだ、携帯を忘れたのだった。
机の上に。
私の机の上で、私の携帯が鳴っているので、妻がでたのだろう。
妖艶な人妻と我が妻は知り合いだ。
いささか、いやかなり狼狽えながら、華奢で可憐な彼女と妖艶な人妻の間に座る。
華奢で可憐な彼女が私に向かって囁く。
「奥さん綺麗ですね」
私は「むむ」と返事とも言えないうめき声を出すしかなった。
ハイボールを大ジョッキで飲む妻を盗み見る。
妻が、「あ、そうだ」といって、わたしに携帯をわたしてきた。
「もう、忘れちゃダメよ」
「はい!」少し大きな声で返事をしてしまった。
皆が笑う。
携帯をいつもの左胸ポケットに入れる。
重いな。
ああ、そうだ、今日は携帯を忘れていたのだったな。
携帯をとりだし、メールをチェックしようとして、手を止めた。
いや、今しなくてもい。
携帯を鞄にしまい、
「ハイボール、炭酸多めでね」と頼んだ。
***
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