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壊滅的に愛情表現のへたくそだった祖父が最後に起こした奇跡


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記事:前田光(ライティング・ゼミ4月コース)
 
 
多分祖父はその生い立ちのせいで知らなかったのだ。
「愛している」を相手に分かるように伝える方法を。
 
だから私は祖父が息を引き取るまえに起きたできごとを、祖父がそれを伝えるために起こした奇跡だと今でも思っている。
 
祖父は田舎の漁師町の片隅で、三男三女の次男として生まれた。
大正十四年のことだ。
本来ならそのまま生家で暮らすはずだった祖父は、子どものいない叔父夫婦からぜひにと望まれて養子に出されることになった。
両親と大勢の兄弟姉妹に囲まれて、まるで子犬がじゃれ合うような日々を過ごしていたと思われる祖父の生活はここで一変した。
わずか七歳で、自分の実の家族から切り離されてしまったからだ。
 
それからは叔父夫婦が義父母となり、叔父の母親が義理の祖母となって、大人だけに囲まれた一家四人の生活が始まった。
あの時代、子どものいない家に子どもが養子に出されることは珍しくなかったとはいえ、なにしろ物心ついてからのことだ。
大勢の兄弟がいるなかでなぜ自分が他所に出されねばならんのか、自分は親にとって大して大切でもない子どもだったのかといった行き場のない思いを祖父が抱いたとしてもおかしくはない。
しかも(私の母が誰かから聞いた話のそのまた伝聞だが)義母と姑はすこぶる折り合いが悪く、すさまじい喧嘩が頻繁に繰り返されていたそうだ。
だからこの辺りは憶測だが、喧嘩の絶えない家の居心地はさぞかし悪かっただろうし、終始いがみ合う義母と義祖母の板挟みになることもあったはずだ。
そして実の子ではないことへの遠慮から言いたいことも呑み込み、いつも大人の顔色を読まなければならないような子供時代を過ごしたのではないだろうか。
 
祖父が十四歳の時に戦争が始まって赤紙が届き、祖父も十代で戦争に駆り出された。
このときに祖父が何を体験したのかは誰も知らない。
祖父は自分の子どもにも当時のことをほとんど話さなかったからだ。
だが語るに語れぬ多くのことを抱えながら終戦を迎え、やっとの思いで戦争から帰ってきた祖父を待っていたのは、義両親も義祖母も病気で亡くなっていたという事実だった。
祖父はこれで二度、家族をなくした。二十歳だった。
 
近所の人たちは一人残された祖父を見て、「早う結婚させんと、やけを起こして何をするやらわからん」と話し合って見合いの席を設けたそうだ。
 
その見合いの相手が私の祖母だった。
 
二人は結婚すると極貧の生活の中ですぐに年子の兄妹を、それから四年後に末っ子の娘を授かった。
真ん中が私の母だ。
三人目ができたとき、祖父母はやはり子どものいない親戚から「生まれたらうちに養子に欲しい」と打診され、いったんは承諾した。
だが生まれた赤ん坊の顔を見た二人は、どうしても手放せなくなって断ったそうだ。
このとき祖父はかつての自分を重ねていたんじゃないだろうか。
 
それなのに祖父は自分の子どもに対する愛情表現が、絶望的にへたくそだった。
 
祖父は戦争から帰ると、「他に仕事がなかったから仕方なく」小学校の代用教員になり、それから教員免許を取って正式に小学校の教諭になった。
その割には祖父を慕う教え子はとても多くて、夏休みや冬休みになると教え子が毎日のように遊びに来ていたとは私の母の談だ。
 
そして自分と同じくらいの年の隣町の小学校の子が祖父の膝の上に座ったり背中によじ登ったり甘えたりするのを見たとき、母は「私はそんなこと一度もしてもらったことがないのに。なんでよその子にはこんなに優しいん?」と大きなショックを受けたそうだ。
祖父は「愛情あふれる教師として」子どもたちに接するのには長けていたのに、「子どもを愛する父親として」実の子に接する方法は分からなかったのだろう。
 
私が十四歳のときに、祖父は病気で入院した。
医者から告知を受けた母の兄がそのことを誰にも言わなかったため、私の母もその妹も、がそう長くはないことを祖父が死ぬ間際まで知らなかった。
 
それでも病状が一日一日と悪化しているのを見て、周囲も覚悟だけはしていたのではないか。
徐々に衰弱していく祖父を、母と母の妹、そして母の兄嫁が毎日交代で、祖母を連れて病院に出向いて病床に付き添うようになっていた。
 
祖父が亡くなった日、本当なら母の妹が付き添うはずだった。
だが職場で問題が起きて急遽店に出ざるを得なくなり、「今日はどうしても行けなくなったから代わりに行ってくれないか」との連絡を私の母が受けた。
だが母も家業の都合でどうしても時間が取れなかったため、兄嫁に電話した。
すると兄嫁は自分とその娘がそろって食中毒になってしまい、自分だけならまだしもその子も朝から嘔吐と下痢が続いているので、とても家を空けられないと言った。
その子はまだ六歳だったので、家に一人残していくことはできなかった。
 
今日は誰も行けない、どうしようと案じているとなぜか母の仕事が先方の都合で繰り下がり、数時間の余裕ができた。
急いで祖母をピックアップして病院に駆けつけると母の妹も来た。
妹の方も職場の問題がなぜか解決したので店に行かなくてもよくなったと言う。
すると「義妹二人も病院に行けないと言っているし私も食中毒で家から出られない。あなたが代わりに行って」と妻から連絡を受けた母の兄が、自分の仕事を早仕舞して病院に現れた。
 
それと前後して祖父の兄弟姉妹が次々とやってきた。しめし合わせて来たわけではなく、ただ「時間があったから」「顔が見たくなったから」「具合はどんなかなと思って」といった平凡な理由だ。
 
そして最終的に病室には、祖母つまり祖父の妻とその三人の子ども、そして兄弟姉妹全員が集まった。
お昼をだいぶ回っていたので誰かが私の母に「ご飯まだじゃろ? 私らが見ようるけえ食べてき」と声をかけたが、母は「いや、もうちょっとここにおるわ」と答えた。
すると、祖父の容体が急変した。
 
そのまま祖父の意識は戻らず、心拍が弱まるなか、母たちはずっと「お父さん」と呼び掛けながら代わる代わる祖父の手を握っていた。
だが母の手の中で祖父の手はだんだんと冷たくなっていった。大勢に見守られながらのご臨終だった。
 
こんな偶然ってあるだろうか。
 
七歳で生家から出され、二十歳で二つ目の家族も失った祖父。
 
だが祖父は最後の最後で、自分の最初の家族と三度目の正直でようやく手にした最愛の家族を、嫁と孫を食中毒にしてまでして呼び寄せて、みんなに囲まれながら旅立った。
私にはどうしても、あれは本当に祖父が「呼んだ」としか思えないのだ。
 
本当に大切な人に対しては、あまりにも不器用だった祖父。
だが去り際に、言葉こそ使わなかったけれども、一世一代の「愛している」を伝え切ったと、私は思っている。

 
 
 
 
***
 
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2022-08-03 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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