過去の優等生が、カツ丼を食べて改心した話。
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記事:南のくまさん(ライティング・ゼミ)
「なんで?」
午後8時。カウンター越しのサラリーマンが、広げた新聞紙の隅からこちらを一瞥した。店内には1組の家族連れと、若い大学生風の男性1人。
その空間で、私は空っぽになったどんぶりを目の前に、人生最大ともいえるピンチに陥っていた。
私は公務員の父と専業主婦の母を両親に持ち、そこそこ厳しかった教育のもと子供時代を過ごした。
私は非常にまじめであった。まず、学校の宿題は絶対に忘れずにしていたし、時間割は必ず前の日にランドセルに教科書やらノートやらプリントを詰め込んで準備していた。ランドセルに入れる順番も、きちんと時間割通りにしていたくらいの徹底ぶりだった。学校でもらったプリントはきちんと四隅をそろえて皺がないように折り畳み、帰宅するや否やすぐに母親へ渡し、間違っても提出日に間に合わなかったり、失くしたりなどは決してなかった。授業中はいつも背筋をピンと伸ばし、終始私語は慎み、班に分かれてのグループワークになれば、すすんで班長になろうとするなどのリーダーシップを発揮した。
私語が過ぎるワンパク男子がいれば「静かにしなよ」と自ら注意もしていたと思う。まさに、ハリー・ポッターでいうハーマイオニー的な口うるさい女の子だった。
小学校の時、家庭訪問で担任の先生は母にこう言った。
「みんなのお手本になってもらいたいくらいです」
中学生になって、授業は真剣に聞き一言一句漏らさずノートをとり、宿題は忘れずにし、定期テストも真剣に勉強して臨む姿勢は相変わらずだった。「ちょっと宿題見せて」と度々言われることがあった。
小学校の頃と違ってきたといえば、家の近所の図書館ではなく学校の図書室へ足しげく通うようになったのと、積極的にクラス委員とか班長とかをやるだとか、「静かにしなよ」などと言うことがなくなったことくらいだ。
私はすっかり図書館の常連だった。思春期真っ只中、読書をしている私のような子は「暗い」とか「地味」「ガリ勉」だとかそういうイメージの対象で、私はなんとなくそれが恥ずかしくいつも教室の隅っこで隠れるように本を読んでいた。そうやって年間通して読んだ本の数は、ゆうに100冊は超えていた。
初老の物静かで穏やかな優しい女性の先生だった。常連になって、司書のこの先生とも仲良くなって、新着の本とかおもしろい本などの情報をよく教えてくれていた。
「先生、あの本返ってきてます?」
「あるよ。どのくらいかかる?」
「明日返します」
「じゃあいいよ」
読むのが早かった私は、1日あればたいていの本は読み終えることが出来た。そんな私に先生は、予約待ちの本もこっそりと優先して貸してくれたのだ。
変化が訪れたのは、高校生の時。中学校までの地道な積み重ねが功を成したのか、私は片田舎ながらも地元の公立進学校に入学できた。私は今まで通り、勉学に勤しみ順調に大学へ進学を進めるのだと意気込んで入学した。
しかし、私は入学してすぐにこれまでとは違う異変に気付いたのだ。まず授業中だ。教室は静まり返り、聞こえてくるのは先生の話す声とチョークが黒板を打つ音と、カリカリとみんなのペンがノートを走る音のみである。中学校の時は、先生は何度「静かなしなさい」と叫んでいたことか。そして休憩時間。授業が終わり「んー」と大きくの伸びをして、友達と話そうと周りを見ると、翌日の予習に取り組んだり、すでに宿題をしたりと机に向かっている者が半数ほどいた。ここでは、休み時間に勉強をしていることで「ガリ勉」とか「暗い」と思われることもなかろうが、逆に勉強しない事で皆に見放されていくんじゃないかという考えに駆られた。そのくらい皆、お互いがお互い以上に勉学に対してやる気に満ち溢れていた。
私はひねくれていたのもあってか、「よし、私も頑張るぞ!」という気持ちにはなれず、入学前のやる気は一気に消え失せた。頭の中で何かがガラガラと音を立てて崩れていくのがわかった。
そこからの変わりようは自分が1番驚いた。まず、宿題は家でしない。部活を終えて一旦帰宅すると疲労困憊で時間割の準備もすることもなくベッドに倒れ込んだ。そして翌日、登校後にバタバタと宿題を済ませ、間に合いそうにない時は、人の回答を写したりもしていた。
「なんだ、お前また失くしたんか」
宿題のプリントはよく失くし、よく先生に貰いに行った。
「あ、英語の教科書忘れた。まぁ借りればいいか」
教科書は時々忘れた。朝、バタバタと準備をするようになったからだ。忘れた教科書は、違うクラスの子に借りた。知り合いが持っていなければ、会話もしたことがない子にやけに親しげに話し掛け、借りることもあった。
苦手な数学はよく赤点を取った。授業中はよく寝ていた。小テストは合格点が得られず、何度か放課後に再テストを受けた。そして気づけば成績の順位は、高校2年生になる頃には急降下していた。
忘れ物したら友達に借りればいい、何かを失くしたらまた先生に貰えばいい、授業中居眠りしてノート取れなくても、後で友達にノートを見せてもらえばいい。
私は、様々なピンチのやり過ごし方を身に着け、ズルすることの味を覚え、日々怠惰な生活を送った。
高校三年生の最後の3者面談で、担任の先生は遠慮がちに母にこう言ったのだ。
「だいぶ……頑張ってもらわないと」
そして、今。また私はピンチに陥っている。問題はこの空っぽのどんぶりをどうするかだ。
今日は本当に仕事が忙しかった。忙しくて忙しくて、目が回るほど動き回り、やっとひと
息ついたのが午後4時。軋む足腰を休めようと、椅子に座った瞬間襲ってきたのは空腹だった。そういえば、昼食もまともにとっていない。
「夜、何食べようかな……」
旦那は今夜飲み会で夕飯はいらない。なので、どっかで済ませよう。私は仕事にぽつりぽつりと手を付けつつ、頭の中で考えを巡らせた。疲れたし、なんかがっつり食べたい。コンビニ弁当は飽きたし、外食がいいかな。でも1人だから気軽に行けそうな所。そうだ、帰り道にカツ丼屋があった。ちょっと家まで遠回りになるけど、あそこへ行こう。
それから仕事を終えるまで、私の頭の中は、カツ丼をめいいっぱい美味しそうに頬張る自分の姿でいっぱいだった。
午後8時。「1名です」と小さい声で伝え、私は念願のカツ丼屋に来ていた。カウンターにつき、メニューをさっと眺め、右手をすっと挙げて中盛りのカツ丼を頼む。カツ丼はすぐ運ばれてきた。あつあつの美味しそうなカツを一気に頬張る。至福の時だった。空っぽの胃に優しい甘いカツが転がり込んで、「きゅるきゅる」と嬉しい音を立てる。今日頑張った甲斐があったなぁとしみじみ思うこのひととき。
カツ丼が空になるのにはそう時間はかからなかった。食った食ったと、食後に軽くスマホをいじり、さあて帰るかと鞄の中から財布を取り出す。
財布を取り出す。
財布を……財布……さい……。財布がない。
「なんで?」
なんでないの?財布。うっそー。普段からとっちらかっている鞄の中である。あ、このポーチの陰に隠れているのかも……ない。あ、このファイルに挟まっているのかも……ない。
ない、ない、ない! やっぱりない! 財布忘れた! どうしよう!
朝は仕事に行くたった30分前に起きる私だ。準備はいつもバタバタである。昨夜、コンビニにアイスを買いに行くために、仕事の鞄から財布を抜き、それをダイニングテーブルに置きっぱなしにしていたってドタバタの30分間じゃあ気づかないし思い出せないはずだ。
ひとまず一呼吸置いた。
「あきらめたら、そこで試合終了ですよ……?」
有名な某バスケット部の顧問のセリフが頭をよぎる。そうだ、あきらめるな。いつものようにどうにかなるはずだ。電子マネーとかのカードは入ってないか?……入っていない。旦那は……そうだ、飲み会だ……まだ終わるはずがないし、だいたい飲んでいるからここまで車で来るのは不可能だ。そうだ、この辺に仲のいいA子がいるからLINEしてみるか。いや、だめだ。A子は今実家に帰省中だった!
……だめだ……。これは……恥を承知で正直に白状するしかなかろう。ピンチに強かった私だったが、ここばかりはどうしようもなかった。
「えっ」
ことの経緯を説明すると若い女性店員は案の定目を丸くし絶句した。私はすぐさま「自宅に一旦取りに帰ってすぐ持ってこさせて下さい」と言葉を付け加え謝罪する。店員はそれを聞いて我に返り、店長に確認しますと後ろの店長らしき中年男に耳打ちする。
「えっ、財布?」
まあまあ大きな声である。やめてくれ、大きな声での伝言ゲームは止めてくれ。まわりに聞こえるじゃないか。数名の客が不思議そうな顔でこちらを見る。
「あぁ、いいよ」
はあ、と女性店員が返事をしてこちらに駆け寄ってくる。その背中に店長が「電話番号も聞いといて!」と雑に叫ぶ。まわりの客の視線が痛い。
私は視線に耐え、自分が完食したカツ丼の伝票に、名前と電話番号を走り書きし「すみません」と連呼し逃げるように店を出た。ありがとうございましたーと間延びした店員の声が背中を押した。
とんでもない日だった。しかしお金は無事支払った。財布にはいつもにしては多めの3万円が入っていたのだが、たかだか600円のカツ丼の支払いができなかったのである。
習慣、というものは本当に重要であり、悪い習慣ほど恐ろしいものはない。そして習慣とは人の人生を大きく左右するもので侮れない存在だ。あのイチローでさえ、試合に臨むまで毎度決まった事前準備、つまり日々の習慣を欠かさず行っているのだ。私も、中学生まではきちんと前日から準備をし、学校へ行き、腰を据えて落ち着いて授業を受け、そして何事もなく帰宅するという事を「きちんと」繰り返していた。それが今はこうだ。忘れ物をして人様にご迷惑を掛けている様は、高校生のあの頃と同レベルで、よりタチが悪くみっともないレベルに達している。
お金を支払い、無事に帰宅し、あぁ……と呆然としていると、部屋の片隅に山積みなっている本の山が目に留まった。そういえば、あれだけ子供の時とは真逆の生活を送ってはきたが、本を読む習慣だけは、あの頃からずっと今も残っているわけだ。
私は自分の愚かさに大きなため息をつき、スマホのアラーム画面を開く。7時の設定を削除し、新たに6時の設定を作成する。そして鞄の中を綺麗に整理しなおし、明日いるものを揃え床についた。
この一件以来、私はあの頃の習慣を取り戻し、忘れ物をしなくなった。
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