25歳、社会人。映画監督になる。
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記事:迫 真由美さま(ライティング・ゼミ)
「映画監督になりたい」
と、中学時代夢を語る授業で私は言った。
同級生の反応はキョトンと言った感じだった。
映画館もない、レンタルビデオ屋もない、九州の中でもドのつく田舎に生まれながら、私は映画監督になる夢を見ていた。そんなだいそれた夢を声高らかに同級生の前で言えたのには、
「きっと頑張れば夢は叶う! なんとかなるやろ!」
という、どこからきたかわからない根拠のなき自信があったからだ。
テレビを見るなら教育テレビ。しかも見られるのは夜の8時まで。
「8時以降はテレビの電源をつけると爆発するんだよ」
と小さい頃、親に教育された。そのバカみたいな嘘を小学校低学年まで信じて守っていた。
そんな私の楽しみは、本とラジオと映画だった。
漫画は絶対に読ませてくれない親だったが、小説や絵本などは際限なく買い与えてくれた。音楽やドラマもラジオがあれば十分だった。
土日は映画好きな父の影響で映画を見ることが多かった。隣町のレンタルビデオ屋まで車で30分、その道すがら次は何を借りるかと父と話すのが楽しみだった。
そんな偏った幼少時代を経て、青春時代は漫画や小説を読みあさった。お小遣いはすべて本に消えた。
私の青春期はいまほどオタクが市民権を得ていなかったので、おしゃれや恋に目覚めていく同級生の中で映画や漫画のキャラクターに夢中だった私はクラスメイトの中で少し浮いていたと思う。
思うというのは、実際周りが見えていなかったので自覚がない。とにかく寝ても覚めても本や映画の世界の中にどっぷり浸かっていた。自覚がないのは幸せなことだ。
しかし、少数の友人に恵まれ、一緒に絵を描いたり漫画を描いたり創作する楽しみをその時に知った。親は相変わらず変に厳しかったので、家族が寝静まってからこっそりと起きて朝まで絵を描いたり、小説を書いたりしていた。
大学に入ると親の監視の目が離れたからか、映画三昧の日々だった。映画研究会に入り、先輩に色々な映画を教えてもらった。先輩の映画の撮影を手伝うことで、作る楽しみを知った。自分でも映画を作って上映した。
そして、わかりやすく挫折した。
大学に入って自分より強い個性に出会ったというのもある。自分より絵や物語をうまく作る人に会ったということもある。
それよりも私にとっての挫折は映画が多くの人によって出来上がるというその構造にあった。
今まで自分で話を書き自分で絵を描く世界とは違って、映画は多くの人々とのコミュニケーションが必要だった。特に監督となると、人に説明し、説得し、統率しなければならず、幼少期から物語の世界の中で生きていた私にとって、何よりもそれが難しかった。創作をすればするほど自分の才能のなさに自信を失っていった。
田舎にいた頃にあった根拠のない自信はいつの間にかなくなっていた。
映画を見るのも嫌な時もあった。
結局、映画監督になると公言しておきながら就職活動では映画関係はまったく受けず、営業として就職をした。
しかし、田舎に戻り営業として仕事をすればするほど、同じ会社にいる制作部のデザイナーが羨ましくてしょうがなかった。自分で創作活動から逃げておきながら、何かを作りたいという気持ちがだんだんと大きくなるのを感じた。
そんな気持ちが抑えきれず、大学時代撮った映画の台本を引っ張り出し、また脚本を書き始めた。仕事の休みの日に、どうやったら面白くなるかをひたすら考え何度も書き直した。青春時代に親に隠れて小説を書いたように、毎夜毎夜原稿に向かった。あの時と違ったのは、
「誰かにこの物語が届けばいい」
その一心だった。自分の書きたいものだけを書いていた自分が初めて人のために脚本を書いた。
書きあがった脚本を家の近くのポストに入れた時、ふっと力が抜けた。
「届きますように」
と願いを込めて、ポストに大きく両手でぽんっと柏手を打った。
映像を制作している会社から連絡がきたのは、そのすぐ後だった。
映像作品を送らずに映画の台本を送ってきたのは初めてだと面接官に笑われた。面白がって面接をしてくれることになった。
面接を受けるために仕事を休み、5時間ほどバスを乗り継いで街へ出た。
私は面接で、一度あきらめた夢を取り戻そうと必死に夢を語った。3時間にわたる面接が終わる頃にはもう合否はどうでもよくなって、清々しい気持ちになっていた。帰りのバスでは疲れているはずなのに一睡もできなかった。もしこれで落ちても、今の会社で働きながら創作活動を続けようと決めていた。
次の日、採用の電話が来た。結果は合格だった。それからはあっというまだった。
勤めている会社に事情を説明したら、社長は快く送り出してくれた。引越しをし、10日もしないうちに転職した。
転職からの1年間の記憶は曖昧だ。とにかく忙しくて、最初の1ヶ月は休みもなかったし、ちゃんと寝ていたのかどんな生活をしていたかさえ記憶にない。ただがむしゃらに仕事を覚えようと必死だった。
2年目になると、少し余裕が出てきて一人でできる仕事も増えていった。しかし、やはり自分が監督となり作品を作るのはまだ遠い先だなと感じていた。
撮りたいものを書きためる日々が続いた。あの時と同じように寝る間を惜しんで脚本を書く日々が続いた。
ある日、先輩に誘われものづくりをする人々の集まりに参加した。
絵を描く人、写真を撮る人、アロマキャンドルを作る人、演劇をする人、歌を歌う人。仕事をしながら、自分の好きなものを作る人々の話を聞いているうちに私も制作したい欲求にうずうずをしてきた。
その中の一人に
「君は何かしたいことはあるの?」
と聞かれ、私はとっさに
「映画監督になります」
と答えていた。
なりたいではなく、なりますと高らかに公言していまい、恥ずかしさでどうにかなりそうだったが
「楽しそうじゃん!」
「わたしも参加したい!」
と周りから声が上がり、びっくりするとともにうれしくてうれしくてたまらなかった。その時に出会った人に助けられ、私は映画を撮ることになった。
鉄は熱いうちに打てと言わんばかりに、すぐに映画の脚本を書き、手伝ってくれる人をみんなで探した。役者さん、カメラマン、照明さん、映画を撮るには色々な人の手が必要だった。
看護師さんや、主婦、カフェの店員や営業マン、様々なお仕事の人が集まった。みんな映画制作は素人だったが、映画への愛を持っていて、どうやったら映画が撮れるのか学び、こんな作品が撮りたいと熱く語り合った。
そして同時に、映画監督になりたいと思っている同志も探した。
私が手伝ってくれるみんなのおかげで映画を撮れている様に、同じく映画監督になりたいという思いのある人と共に映画制作をしたかった。
初年度は30人のメンバーで、3人の映画監督の元に3つの映画製作がスタートし、私の「週末映画監督」生活が始まった。
キャラクターにあった衣装をそれぞれの家から持ち寄ったり、役者さんと稽古をしたりみんなで考え形にしていった。映画が撮れる場所を探しに行くロケハンはピクニックの様だった。
皆仕事をしていたり学校に通っていたので平日は仕事をし、週末や夜に制作会議や撮影のために集まった。みんな自分の生活の合間合間にどうにか時間を作り、映画制作に参加していた。
手探りな状態から一つずつ形になるのが楽しかった。とにかく時間がある時はメンバーと話すことに時間を割いた。人付き合いが苦手な私が、どんな映画を作りたいかみんなに知ってもらうには語り続けるしかないと思った。
制作を進めるごとにメンバーと衝突することもあったが、面白いものを作りたいと考えぶつかることに、すこしずつでも前進しているのを感じていた。
春頃からスタートしていた映画制作は、秋には完成を迎え、冬には上映会の話が上がった。
映画は作っただけじゃ完成じゃない、人に見てもらって初めて完成すると思っていたので、映画だけでなく上映会も自分たちの手で行いたかった。
映画制作から上映会までの25歳の1年間で、私は一生分のわがままと無茶振りをしたんじゃないかと思う。
上映会のチラシを作ったり、会場設営をしたりすべてを自分たちで準備した。
前日には会場の設営のためにほぼ全員のメンバーが揃った。文化祭の先日準備みたいにわくわくした空気に包まれていた。
みんなといると大丈夫だった不安が家に帰り一人になると、どっと疲れとともに襲ってきた。自分たちの映画をお客さんたちは見てどう思うだろう。そんな気持ちで眠れなかった。
上映会当日、思ったより大勢のお客さんが会場に訪れた。少しずつ埋まる座席に緊張感は増した。
上映時間になって、照明が消えた時すっと私の緊張は消えた。
お客さんのくすっと笑う反応や、真剣に見ている様子が後ろから見ているだけで伝わってきてきた。
映画が作れてよかったと心底思った。
そして、この感動を共有出来る仲間がいて本当によかったと思った。
一人一人のメンバーの名前がエンドロールに流れはじめ、監督と表示された自分の名前を見た時
「あー映画が完成したんだ」
と、初めて安堵した。
その後、メンバーの増減を繰り返しながら何本か映画を撮った。
しかし、しだいに仕事が順調になり忙しくなってくると、映画を撮る時間と余裕はなくなっていった。そして、映画を撮りたいと思う気持ちはありつつも、それを実現させる一歩は時間があくほどに重くなり、ついに踏み出し方がわからなくなってしまった。
映画の脚本を書かなくなって数年経った頃、ひたすら仕事から追われる日々も落ち着き、ふとこの数年の自分を振り返る時間ができた。
がむしゃらに夢を追ったあの時期を経て、出会った人・もう会えなくなった人、いろんな人との出会いがあった。
そんな折、私が映画を撮っていたという話を聞いた人から
「映画撮りましょう!」
とお誘いをいただくことができた。
ふっと映画を撮っていた頃の、懐かしい騒がしさを思いだした。
「私、また映画を撮れるんだ……」
自分にとって願ってもいない提案だったのに、突然のことで驚き色よい返事が出来ていたかわからない。
数年前、映画を撮り始めた25歳の時と同じように、今回も人に背中を押してもらったことで、映画の世界に再び戻る道が見えてきた。
そのお話をいただいた帰り道の足取りはとっても軽やかで、日頃の自分には似合わない鼻歌を歌っていた。
帰り道、夜露に濡れた街のキラキラとした風景を私はきっと忘れない。
***
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