ショート小説『1,000日目の夢で』
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:鳥井春菜(ライティング・ゼミNEO)
※この記事は、フィクションです。
「すごい、すごい……!」
そこかしこがキラッキラッとまたたいている。真っ白な世界にところどころに雲が浮かんでいて、まるで空の上にいるようだ。その雲には色とりどりの岩石が埋め込まれていて、それが光を浴びてかわるがわるにキラッと輝くのだ。ときには小さな雲の群れがまるで白波のようにうねって、寄せては引いてを繰り返している。
「本当にきれい……これって私の夢の中……?」
そうだ、こんなに美しく現実離れした世界はきっと夢なのだろう。現実の世界はこんな風ではない。大きなビル、たくさんの人、小さなマンションの一室、公園のベンチと空き缶……そういうものの気配すらここでは何一つとして感じられない。あるのは眩いばかりの美しい風景だけだ。
——絶対に夢なんだろうけれど……
遠くの方で小さく夕焼け空が広がって、雲が薄ピンクに染まってきている。思わず、今一度、両手のひらをみて片足ずつ足踏みしてみる。うん、やっぱり思った通りに動く。夢の中なのに、感覚も思考もいつもの自分とリンクしていて、妙な感じだ。ぼんやりと夢だと分かるのではなくて、頭がすごくはっきりしている。まるでリアルの自分が異世界に迷い込んでしまったかのように。
「おいおい、『私の夢』だって? 勘弁してほしいね」
急に天から声が降ってきて、思わずビクッと首をすくめる。
「そりゃあ確かにここはあんたが眠ってみてる夢の世界だけどさ。でも、あんたが作り出してるみたいに言ってほしくないもんだね」
見上げると、頭上には黒服の男が浮かんでいた。腕組みをして、雲に寄りかかるようにして空中に立っている。ブーツから髪の先まで黒い男。ズボン、シャツ、コートすべて黒だった。
「あなたは……?」
誰だろう。見なれない人物が夢の中に現れるのはよくあることだろうけれど、こうして自分の意識がしっかりとある今、聞かないわけにはいかなかった。
「この夢の創造主さ」
創造主……なんだか神様みたいな言い方だ。
「この夢をつくったのは俺だからね」
黙っていると、男は自慢げに付け加える。
「夢をつくった……?」
どういうこと? これは私の夢じゃないのだろうか。さっきこの男もそう言っていた。だったら、この夢は私の頭が作り出したものじゃないのか……怪訝な顔の私を前に、男はいらだたしそうに舌打ちした。
「だから嫌だって言ったんだ、こんな面倒くさいこと」
私を睨んで、左のブーツをトントンッと二度鳴らす。
「何よ、どういうこと?」
普段なら、どんなに失礼な男が現れたって、こんな風に突っかかったりしないかもしれない。だけど、夢の中でまで我慢する必要はないだろう。
「何か私のせいって言いたいわけ?」
男はフンッと鼻を鳴らした。見たところ二十代後半ぐらい、私とそんなに歳は変わらないはずだが、そこはかなとなく偉そうだ。
「お前、今日は一段と夢の世界を楽しんだようだね?」
空中を蹴ると男の体はふわりと浮かび上がり、雲の上に行儀悪く横たわった。
楽しんだ?
確かに、それはその通りだ。
この夢の世界は本当に素敵! 雲の草原を抜けて、きらめく宝石を見つけては拾いながら歩いていたら波の音が聞こえてきて、そっちに歩いていくとこの開けた場所に出ていた。
この世界は、昔よく行った海の近くのおばあちゃんの家で日が暮れるまで貝殻拾いをした記憶にも似ているし、高校生の頃に合宿で山登りをしてみた雲海の風景にも似ている。けれどそのどちらよりも美しくて魅力的で、私は夢の中で自分の心までどんどんきらめいていくような気がしていた。
「これは、お前のリクエストだよ。メルヘン好きめ、どうしてこう手のかかる夢ばかり頼んでくるのか……」
憎まれ口とは裏腹に、男の表情は柔らかかった。どうも、自分のつくった夢とやらにすっかり私が魅了されているのでご満悦らしい。
「だけど、この瞬間はやっぱり慣れないな」
そういうと、男は苛立たしそうに頭をかいて、ジロリと私に視線をやる。そろそろ人を見下すのはやめて、こっちに降りてきてくれないものだろうか。首の後ろも痛くなってきた……
「だいたい、インキュパスは生身で夢の中に出てこないものなんだよ」
「イ、インキュパス!?」
聞いたことある……! いわゆる「夢魔」というやつで、夢の中で……
「ちょ、ちょっと! もしかして、何かした!?」
思わず、ばっと自分の肩を抱いてセクハラ上司を陰で睨みつけるときのように黒服男をギロリと見上げる。男は一瞬、キョトンとして、
「ハッ! まったくそれは人間の勝手な想像だろう?」
馬鹿にしたような笑いで一蹴すると、急に雲の上から飛び降り、私の鼻の先に立ちはだかる。グッと屈んでこちらの顔を正面から捉えると、
「あのねぇ、インキュパスっていうのは『感情』を食べるんだよ。密度の高い感情は極上の味わい。だから、感情の種類はなんでもいいんだ。インキュパスの寿命は長いからな。次第に薄れていく感情を、短命な人間から補給して精神の安定を保っているのさ」
急ににじり寄ってくる男に、私は半歩後ずさる。
「恐怖、悲しみ、絶望だって強ければ強いほど、芳しい食事に。欲望を刺激して、強烈な感情を引き出すのが俺たちのやり方だからね」
たった今気がついたけれど、男の目は宝石のように赤い。本当に人間ではない生き物なのか。急にこの得体の知れない相手に、胸が大きく鳴り出す。私の瞳をじっと覗き込んだ後、男はニヤリと笑うと、
「まったく、人間ってのはスケベで嫌になるね〜。そりゃあ、感情密度が高まりやすいからね、性欲を刺激する夢を見せて感情をいただくサキュバスもいるけれど、それがみんなだなんて決めつけられちゃあ、心外だ」
急にぱっと身を離して背中を向けると、やれやれというように首をふる。ふっと息ができるようになった。
でも、確かにそうだ……この男がつくったという夢は本当に美しくて、素晴らしかった。それを、自分の知識だけであんなふうに非難するなんて。
「あの、ごめんなさい……素敵な夢を見せてくれたのに」
男は、チラリとこちらを振り返って、まったくだ、というようにわざとらしくため息をついてくる。
「えっと、それで、何回目なんですか?」
ここは話題を変えるしかなさそうだ。
「なんだか、以前にも会ったことがあるような話ぶりでしたけど。会うのは、何回目かなんですよね?」
男が言うには、この夢は私のリクエストによってつくったものだそうだ。こんな黒づくめの奇妙な男にあった記憶はないのだけど、夢の中だから忘れてしまったのかもしれない。
「ていうか、夢のリクエストなんて、できるんですね」
夢を事前にお願いしてつくってもらっているなんてなんだか不思議でおかしくて笑ってしまう。ふと目をあげると、男は少しだけ小首を傾げてこちらを見ていた。
「お前、よく笑うようになったな」
「え?」
男の声がちょっと戸惑うくらいに柔らかくて、吹いてきたぬるい風に、私の知らない記憶がふっと通り過ぎたような感覚がした。
「まぁ、どうせ明日には忘れるんだけどな」
そう呟くようにもらすと、男は「今日で1,000日目だよ」と私を見つめた。
「最初は俺がドジって、感情回収をするのに夢に入るのが早すぎたんだよな。そしたらお前が話しかけてきて。お前、インキュパスに交渉してきたんだぞ、覚えてないだろうけど」
男は何かを思い出すように笑った。1,000日、およそ二年半前から、この男が私の夢をつくり続けていたのだろうか……
「極上の『感情』を食べたいなら、私のみたい夢を見せるべきだって。そしたら最高の感情を食べられるようにしてあげるからって」
私がそんなことを………? 普段、自分の意見を主張する方ではないはずだ。むしろ、いつも言えないことが多くて、家に帰ってもんもんとしてしまう。
「夢の中だからって、言いたい放題でさ。しまいには、毎回、夢の終わりには出てきて次のリクエストを聞いてほしいなんて言ってさ」
なんという……覚えがないとはいえ、過去の自分の厚かましさが恥ずかしくなる。
「だから、今回の夢は『空と海のキラキラした世界』っていうお前のリクエストってわけ」
手を広げた男の後ろで、夕焼けが赤く濃く輝いている。もう時期、沈んでしまうだろう。
「それで、次のリクエストは何にしますか、お嬢さん」
男の表情が影になってよく見えないのだけど、その声だけを聞いていると、なぜだろう、夕日のせいか少し寂しげに聞こえて……
「ねぇ、もしかして、あなたが『感情』を食べるから、私は夢のことを忘れちゃうの?」
男は黙っている。
「だったら、今日は食べないで。私、あなたのこと覚えていたい」
そういえば、二年半前くらいからだった気がする。いつもよりぐっすり眠れるようになって、朝、体が重くて起きがれないことが減っていった。
あの頃の私はいつも疲れていて、誰かに気を遣っていて、びくびくしてしまう自分のことも好きじゃなかった。上司から言われたことや何気ない友人の言葉が頭から離れなくて、だんだん寝つきも悪くなっていた。それなのに、気がつくと、いつからか自然と目が覚めるようになっていた。
——もしかして、夢のおかげ……?
忘れてしまうとはいえ、夢の中で思いっきり楽しんで発散したおかげで気持ちが楽になっていたのかもしれない。現に今日だって、この心地いい世界で存分に走りまわって、夢の中だからといって男には言いたいことを言っている。
「今日のことを覚えていて、明日のあなたに会ってみたいの」
男の影がゆらりと揺れた。
「それは、交渉違反だよ。俺はお前の『感情』を食べるためにこの夢をつくったんだ」
私が忘れてしまうのが、少し寂しそうだったくせに。
「インキュバスが人間の『感情』を食べるのは、自分の感情が薄れていくからだって言ったよね。だったら、私が今度、あなたにいろんな話をしてみる、なんてのは……」
食い下がると、男の影がもう一度、ゆらりと揺れた。夢の中だからって、大胆になりすぎたのかもしれない。次の瞬間、その影が大きく揺れて、ガッと両肩を掴まれた。
「ごめんだね、人間と馴染みになるなんて。そうやって、ひどい目にあった仲間を何人見てきたことか」
迫る、赤い瞳。苛立った声なのに、苦しそうに顔を歪めている。
「人間は、そのうち疑い出す。知らないうちに自分の『感情』が食べられているんじゃないかって。夢の中で何があっても、インキュパスが食べればそれはなかったことになる。だから、知れば知るほど、触れ合うのを恐れだすんだ」
その声を聞いて、私のこの思いつきを、男はもっと昔から考えていたんじゃないかと、はっと気がついた。
「だから自然と、人間は、夢という柔らかな領域に踏み込まれるのを無意識に拒絶するようになる。インキュパスの前では自分のあらゆる『感情』が引き摺り出されるかもしれないからな……そしてそれを食われるかもしれない。そうなったら、もう俺は夢の世界には入れない。二度とお前に会うこともないだろう」
赤い瞳は、燃える炎のように揺れている。悲しいのだろうか、怒っているのだろうか。いや、怖いのだろうか……
「ねぇ、大丈夫だよ」
そっとその黒いコートに手をかける。
「だって、こんなに素敵な夢をつくる人が悪い人なわけないもん。あなたのこと拒絶したりなんかしない」
それでも男の手の力は弱まらない。グッと喉の奥が鳴るような音がした。
「そうやって、人間は夢の中から締め出しておいて、自分は勝手に忘れるんだ。あれは夢だったんだ、って忘れて生きていくのさ」
男の手が、急に、まるでしがみついているような気がした。
「お願い、信じてよ」
不敵な笑みを浮かべてやってきて、自信満々で。けれどこんなに美しい世界をつくりだすほど、きっと心は繊細なのだ。この1,000日の間、彼は私に会うたびにどんな気持ちでいたんだろう。どんなに素敵な夢をつくっても言葉を交わしても、かけらも覚えていない私に少しがっかりしたりしただろうか。
その手にそっと触れてみると、ビクリと肩を揺らして、後ろへ下がる。男の後ろでは、もう夕日が最後の光をジリジリと揺らしながら沈めている。手を伸ばしたけれど、男はそのまま夕日の中へ消えてしまうように、スーッと後ろへ下がっていく。
「待って……! 待ってよ!」
映画館の照明のように、急に辺りが暗くなっていく。もう完全に日は落ちてしまったらしい。黒い男の輪郭線が急速にぼやけていく。
「ねぇ、待って!」
私の声も男の耳に届く前に、闇に溶けていってしまうような気がする。
「食べないでよ………!」
———ジリリリリリリリリ………
騒々しいアラームをとめて、目を擦る。最近は寝覚めがよかったのだけど、今日はまだもう少し眠っていたいような気がする。けれど、休日といっても、早起きしたほうが充実するというものだ。開かない目に目薬をさしてこじ開けたら、よろよろと立ち上がる。
——なんだっけ、なんだろうこの気分。
どうも胸につっかえがあるような気がするのだけど、その原因がわからない。歯ブラシを口に突っ込んだまま、まだぼーっとした頭でわずかな感情の残り香から糸をたぐり寄せるように考える。
——うーん……ダメだ、やっぱりわからない。
胸にもやもやを抱えるのは今に始まったことじゃない。最近の煩わしい出来事のどれかが夢にでも出てきたのかもしれない。口をゆすいで、ついでに顔を洗ってタオルから顔を上げる。と、戸棚に飾ってある写真が目についた。大好きな地元の海と、初めて見て忘れられない雲海の写真。この風景が好きで、癒されるのでずっとここに飾っている。だから見慣れた写真なのに、どうしてだか目が離せなくて………
「………はっ」
思わず口元を抑えたのは、不思議な「記憶」が頭の中に飛び込んできたからだ。
——え、どうしよう。なんだこれ。
妄想? 幻覚?
だけど、それにしてはあまりに熱烈な私の感情。お願いだから、待ってよ、と叫んだときの気持ちは、確かに自分のものような気がする。
それに、何より、あの赤い瞳にもう一度会いたい。
——そうだ、今すぐに。
思い立つとベッドに飛び込んで、布団をかぶる。あぁ、こんなんで眠れるだろうか。本当に会えるだろうか。どうして、私、思い出せたんだろう。
頭はグルングルンと回転していたけれど、今日はもうこのベッドから一歩も出るつもりはなかった。だって、早く夢の世界へ。寂しがり屋の黒服男に会いに行かなきゃ。
***
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