33歳のはずの上司は、実は23歳だった!
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記事:松浦美穂(ライティング・ゼミ)
ヒラリンと初めて会ったときのことは、今でも忘れられない。
配属部署のM部長との面談が終わり、直属の上司を紹介するからと連れていかれたフロアでボーッと立っていると、突然、背後に大きな圧を感じた。
振り向くと、「顔」がドシドシと近づいてくる。
!
私はたじろいだ。体の3分の1が顔!
それほどまでに、その人、ヒラリンの顔は大きかった。
しかし、ヒラリンを上司に持った会社生活は、それ以上にインパクトのあるものとなる。
転職して2社目の広告代理店だった。
M部長の下に、最近課長に昇格したというヒラリン、私より数ヶ月前に入社した元有名商社のOLだった蔭山がその部署にはいた。
海外広告を展開する転職先のその会社の業務は、それまでやってきた仕事と根本的に違った上に、膨大な残業量が待っていた。まったく仕事が終わらないのだ。その原因のほとんどはヒラリンだった。
ヒラリンは基本、午前中は出社しない。昼過ぎに不機嫌そうな顔でやってくる。
1時頃出社すると溜まっている仕事処理に没頭し、その後は来客応対。そんなことをしているうちに、あっと言う間に定時になる。そして定時過ぎからヒラリンは、私たち部下の仕事に目を通す。なので、夕方が始業みたいなものだった。
ある日、いったい、なぜヒラリンは午前中に来ないのかと蔭山に聞いた。
「寝てるんです」と言う。意味がわからない。時差出勤があるのかと思ったが、違った。
理由は酒だった。朝方まで飲んだくれているので起きられないのだ。
一番困ったのは、午前中出社しないくせに、午前中にアポを入れていることだった。しかもそれを私と蔭山は聞かされていない。突然、受付からの来客の内線を受け、慌てるのが常だった。
そして教えられたのが、ヒラリンの自宅に電話して、寝ているヒラリンを起こすヒラリンコールだった。
「彼は普通に電話しても起きないから。3回コールして1回切る。そしてまたコール。そしたら、10回ぐらいで起きるからね」
なぜかヒラリンの上司であるM部長が教えてくれた。
やってみる。
チョー不機嫌なヒラリンのかすれ声が出る。
「はい」
「10時のアポということで、お客様がいらしてます」
「待たせておいて」
「え、待たせるんですか!」
ブチ! 切られる。
「外出先からの帰社が遅れていて」などと適当に嘘を言って来客に謝る。
その後、ヒラリンはきっちり身支度を整えて、不機嫌そうな、まさに大きな顔をしてドシドシとやってくるのだ。
仕事のことを聞けば不機嫌そうに答える。上司だからと思うから丁寧に対応すればするほど、なんだか不機嫌になる。
何が気にいらないのか、さっぱりわからない。ともかく不機嫌さを解消しようと、さらに丁寧に接すると、さらにさらにムっとした雰囲気になる。
負のスパイラルで、どうしていいのかわからない。
もうー!! いったい、何なんだ、この人は!
あー! もう最悪だ! 最悪だ! 最悪だ!
思っていたのとは全く違う仕事と激務と安月給とヒラリンに揉みくちゃにされて、何一つ思うにまかせない状況にのたうち回っているうちに、私はウツになった。
相手が言ったことも自分が言ったことも覚えていない。そのせいで仕事でトラブルを起こし、やっと自分が壊れているのでは? と感じ、精神科の門を叩いた。
「軽い神経症」と言われた。
私は抗ウツ剤を飲みながら、朝来ないヒラリンの代わりに来客に謝り、ヒラリンコールをし続けた。
3回目のカウンセリングのときだったか、ヒラリンのことをグズグズと語る私に、カウンセラーは言った。
「でもね、僕はその課長さんも気の毒だと思うんですよ」
「はぁ?」
「あなたと6歳しか違わないじゃないですか。プレッシャーだと思うんですよ。たった6歳しか違わない人を部下に持つって」
知るか! そんなこと!
と、思ったのが顔に出たのかもしれない。
カウンセラーは続けた。
「覚えておいてください。男性の精神年齢って、実年齢より10歳下なんです」
な、何だってー!!
ヒラリンは33歳。すると心は23歳ということになる。私より4歳年下だ。
そう思うと、ヒラリンの数々の奇行が、急に腑に落ちてきた。
目から鱗がパラパラと音をたてて落ちた。
曇の隙間から青空が見えた瞬間だった。
「ヒラリンは23歳」。
この視点はとても新鮮だった。ヒラリンを23歳の男として扱ってみようと思った。すると、それまで見えなかったヒラリンが見えるようになってきたのだ。
ヒラリンは、ストレスやプレッシャーに極端に弱く、気もメチャクチャ小さく、上の人には平身低頭なのに、下の人間には強気に出る。それで酒を飲まずにいられない。いつも不機嫌そうなのは、本当はドキドキしている心を隠すための鎧のようなものだったのだ。ヒラリンを上司扱いしたら、追いつめることになる。
年下扱いが功を奏し、ヒラリンとのコミュニケーションはスムーズになり、私のウツ症状はメキメキ回復していった。
ある日、ヒラリンとM部長と三人で会社の近くのバーで飲んだ。
私はこのとき初めてヒラリンと酒の席を同じにしたので、ヒラリンがどんな酔い方をするのか知らなかった。
ヒラリンのピッチは速かった。ヒラリンは楽しそうに喋りながら、グイグイ飲む。それでも酔ったふうはない。
「やっぱり強いんだな」と思ったその時だった。
ヒラリンが座っていたスツールから、何の前触れもなく、まるで土嚢が落ちるかのようにドサリと音をたてて落ちた。突然すぎて声が出ない。
私はスツールから飛び降りて、慌ててヒラリンを抱き起こした。
「大丈夫か?!」M部長が言う。
「大丈夫です」
何事もなかったようにヒラリンは立ち上がったが、再びスツールに座ろうとしたときにガクっと崩れ落ちた。
「もう飲ませちゃダメだ。帰ろう」。M部長に促され、ヒラリンを地下の店から二人で引きずりあげてタクシーに乗り込んだ。
ヒラリンを真ん中に後部座席に三人。「こういう酔い方かー」と隣のヒラリンを見た。ヒラリンはグッタリしている。
その動かないヒラリンに、M部長が「ピッチが速過ぎるんだよ」、「だいたい君はねえ……」と小言を言い出した。
昼間、会社では野放しなのに。
「あんた、言うんだったら、ヒラリンがシラフの時に言いなよ」と思った。
と、そのとき、グッタリしていたヒラリンが突然、ガバと体を起こし、M部長の襟を掴んで叫んだ。
「オラー! もう一度言ってみろ!」
!!!
「な、何するんだ! やめろ、やめなさい!」
M部長がヒラリンに締め上げられながら呻くように言う。
「テメエ、誰にモノ言ってんだ!」
ヒラリンは、さらにM部長の首をグイグイ締め上げる。
私は驚きと恐怖で口がアワアワ動くだけで声が出ない。
ヒラリンの体をM部長から引き離そうとしても、腕に力が入らない。
「ケンカするなら、降りてくださいよ!」
今度はタクシーの運転手さんが怒鳴る。
狭い車内はヒラリン、M部長、運転手さんの怒号が飛び交い、もうグチャグチャだった。
その夜はどうやって帰ったのか、まったく思い出せない。
精神年齢うんぬん以前の問題だ。ヒラリンは、ほんまもんのアル中だ。
なぜ、この状態がいつまでも許されているんだ?
驚くべきことに、そんなことがあったのに、M部長もヒラリンも翌日は何事もなかったかのようにお互い普通に接し、普通に仕事をこなしていた。
それどころか、M部長は隣の部のN部長に、「いやあ、昨夜、首を締められちゃってねえ」と笑いながら話し、N部長もN部長で「ほぉ」などと言っていた。
何なんだ、この会社は!
それから、一カ月ほど後。
事件は、またまた起きた。
ヒラリンが出張先の香港で行方不明になったのだ。
香港オフィスに、いつ何度電話をしても出ない。ホテルからもいなくなっていた。さすがに会社もザワザワし始めた。協議の末、常務とM部長、さらにヒラリンの奥さんを加えた三人が香港に捜索に向かった。
2日ほどして、M部長からヒラリン発見の連絡が入った。
話を聞いて、頭に浮かんだ言葉は、
「さすが、精神年齢23歳のアル中野郎」だった。
ヒラリンは、香港に出張のたびに行っていたフィリピンバーのホステスとねんごろになり、何がきっかけなのか、駆け落ちしたのだ。
ヒラリンは、ホステスのアパートにいた。
常務とM部長と奥さんの三人がマンションに踏み込んだとき、ヒラリンとホステスは昼からベッドの中にいた。
奥さんはひと言、「このクズ!」と吐き捨てるように言って、その場を立ち去ったそうだ。
ヒラリンは懲戒解雇になった。
私は会社に4年在職した。仕事上で身に着いたものは取り立ててないが、ただ一つ、「男の精神年齢は実年齢より10歳下」の教えは、今もおおいに役立っている。
***
この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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