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1秒のとまどい


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記事:木村保絵(ライティング・ゼミ)

休日の午後、ずっと読もうと思っていた小説を持って近所のカフェに入った。
慌ただしい日々が続いていたので、ようやくゆっくり読めるとウキウキしながらカフェオレを待っていた。

――それってさ、もう彼のことを好きってことでしょ?」

隣の席から声が聞こえてきた。

「え、違うよ。好きとか、そういうのじゃないよ」
「えー、もう完全に好きじゃん。どう聞いても好きじゃん」

どうやら恋バナをしているようだ。

「なんで自分で気付かないの? もう完全に好きじゃん、それ」

なるほど。
恋をしているのに、本人はそれを自覚してないということか……。
確かに、10代の頃は好きかどうかなんて考える余裕もなく、
気付けばその人が視界に入るだけで心臓がバクバクしていた。
だけど、20代、30代と歩みを進めるうちに、なぜだか鼓動は弱くなってくる。
あれ? これって恋なのかな? と、自信が持てなくなってくる。

「ねぇ、その彼に対してさ、1秒のとまどいって、感じた?」
「1秒のとまどい?」
「そう。もし、1秒のとまどいを感じてたら、それは彼に恋をしている証拠だよ」

1秒のとまどい? 
何だ、それは。
目の前に置かれたカフェオレに口をつけるのも忘れて、声に夢中になる。

「そう。たとえばさ、男友達と飲みに行った帰り道に、2人で歩いていても別にとまどいを感じることはないでしょ?」
「とまどい? うん……。楽しかったね、とか。あー、あれ美味しかったなとか。そんなかんじ?」
「でしょ。でもさ、恋をしている人と歩いていると、とまどいを感じるのよ。それも1秒だけ」
「1秒だけ?」

――たとえばね、
初めて2人で飲みに行って、想像以上に楽しくて、距離が縮まったとするでしょ。
あー、この人といると楽しいな。また会いたいなって。
でも終電があるからって、お店を出て駅に向かう途中、ふっととまどいを感じるの。
今にも肩が触れそうな距離まで近付くのに、その直前に、1秒だけとまどいを感じるはずなのよ。
息をハッて吸い込んだり、吐き出したり、どっちにしろ1秒だけね、とまどいを感じるの。
それで、そこからは壁を感じるみたいに、自分の力じゃ越えられないの。
近付きたいのに、近づけない。意識しているわけじゃないのに、ふと、とまどいが生まれて、足を止めちゃうの。
もっと近付きたいのに、そのとまどいが邪魔をして、素直に近付けないの。

あぁ、それならあるかもしれない。
たとえば終電を逃して一緒にタクシーに乗った時に、わざと座席の上に手を置いて。
本当は、もう少しだけ手を伸ばして彼に触れたいのに。
あとちょっとだけ勇気を出して、答えを知りたいのに。
なぜかギリギリのところで、動けなくなる。
「どうしよう」って1秒のとまどいが心の中に生まれて、手を止めてしまう。
それで、もう少し手を伸ばそうか、もう手を引っ込めてしまおうか迷っていた瞬間に、
スッと彼の手が、そのとまどいを越えてきてくれる。
動揺していた手が、やわらかなぬくもりに包まれた瞬間、
「あぁ、わたしはこの人が好きだ」って、実感に変わる。

「でしょ? 
恋の始まりはさ、大体その1秒のとまどいが、1歩前に進もうとする勇気を邪魔するの。
もし、相手の気持ちが違ったら。もし、これ以上進んで今の関係が壊れてしまったらって不安になるの」

「そうだね。友達だと逆に近すぎて肩がぶつかっても「おー、ごめんごめん」って思うだけだし、むしろ「久しぶりー」って両手広げられたら、何の迷いもなくそのままハグとかできちゃうもんね」

わたしはすっかり聞こえてくる声に夢中になっていた。
楽しみにしていたはずの小説は、ただページを捲るだけで、内容は一文も頭に入ってこなかった。
1秒のとまどい。それが生まれるシーンを想像し、ドキドキしていた。

――目が合った瞬間もそうでしょ? 
この後のことなんて想像もついているのに、目が合った瞬間に、ハッ! って、1秒だけとまどうの。
1秒だけ。
それで、段々相手が近づいてきて、もう顔が影に覆われて、今にも唇が触れ合いそうな瞬間。

1秒だけ。
そうだね、1秒だけ。

あるね。
あるかもね。

これがさ、2秒とか3秒になってくるとさ、迷ってるんだよね。
うん、この人でいいのかどうか。本当に好きなのかどうか。

それに、0秒も、違うんだよね。
うん、まぁ、好きだって言ってくれてるしね、っていうね。

やっぱり1秒なんだよ。恋に落ちた瞬間に感じるとまどいは、1秒だけ。
うん、「ドキ」っていう鼓動が鳴るのと同時に、生まれているんだね。

そう。それで、相手も自分のことが好きだって思える自信が生まれると、とまどいも消えていく。
手を伸ばせばつないでくれるし、目が合えばニッコリと微笑んでくれる。しあわせだなって感じる瞬間が、日常に溶け込んでいく。

「あぁ、わたし、やっぱり彼が好きかも。気付いていなかったけど、彼に会う時は、1秒のとまどいの連続だった」
「でしょ、だから言ってるじゃん。もう完全に好きでしょって」

「自分の気持ちって、わからないもんだね」
「わからないんじゃなくて、わからないふりをしたかっただけでしょ」

え? 

「好きだって気持ちを認めて、もしだめだったらって、傷ついたら嫌だなって思うから、認めたくなかっただけしょ」

そ、それは……

「うろたえるってことは、図星って証拠だよ」

なかなか鋭い指摘だ。

「じゃあさ、恋が愛に変わる時には、何が生まれるの?」

それは良い質問だ。教えてほしい。

「それはさ……あ、もう時間じゃん。とりあえずここは出よっか」
「そうだね、続きはまた後でだね」

え……ちょっとちょっとちょっと。
残念。
隣の席から聞こえてきた声は、あっけなく途切れてしまった。
恋が愛に変わる瞬間。
その答えは、ただ耳を澄ませるだけでは知れないようだ。
たとえそれが、誰かの話す声であっても、自分の心の声であっても。

まずは、とまどいを振り切る勇気。好きになったことを認める勇気。
恋を成就させる第一歩は、10代も30代も、変わらないのかもしれない。
自分が動き出さないことには、何も始まらない。

ふー。
すっかり冷めてしまったカフェオレにようやく口をつけた。
ふわっと甘苦い味が、口の中に広がった。
中途半端にめくっていた小説の栞を外し、また1ページ目に視線を戻した。
そしてすぐにそれを閉じ、バッグの中に仕舞い込んだ。
カフェの窓からは、やわらかな陽の光が差し込んでいる。
わたしは店を後にし、あたたかな光の方へ向かって、歩き出した。

 

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