プロフェッショナル・ゼミ

女が美しいのは満月の夜だけじゃない《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミプロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:市岡弥恵(プロフェッショナル・ゼミ)

港の夜は静かだ。
綺麗に整備された港は、オレンジ色の街灯に照らされ、静かに揺れる水面がちゃぷちゃぷ音を立てる。遠くの方から車のクラクションの音や、低音のベースの音が刻みよく聴こえてくる。どこかでパーティーでもやっているんだろう。

私は、何かあると、この港にやってくる。
家から歩いて来れて、とりあえず一人ぼっちになれる場所。あぁ、もちろん家に居ても1人なんだけれども……。ただ、家の中で体育座りをして、無意味に流れてくるテレビを見るよりも、気休めにこの綺麗なオレンジ色を見ている方が、精神衛生上良い気がしていた。

私は、等間隔に置かれた丸い杭の上に腰掛けた。
綺麗に整備されている割に、この港はベンチが少ない。座る場所がなく、私は船を括り付けるのであろう杭の上にちょこんと座る。お尻から伝わってくるその冷たく硬い感触が、少し痛い。時たま、バシャッと魚が跳ねる音が聞こえる。暗いので、どこで跳ねたかは分からない。潮の匂いよりも、ドブ臭い。

スマホがバッグの中で震えていた。

—着信 ケンジ

私は、そのまま電源を切り、スマホをバッグに入れた。

視線を感じて、ふと左を向くと、隣の杭のところに猫が横たわっていた。しばらくその猫と目が合う。すると、その猫が伸びをするようなゆったりとした動作で、空を見上げた。猫のアゴがすっきりとシャープで、なんとなくメス猫だと思った。
星は見えないが、月が綺麗な夜だった。細い先端まで綺麗に見える、下弦の月。
もうすぐ新月だ。

ケンジって名前は、いかにもカッコイイ男子の名前だ。
小学生の時、クラスに1人はこんな男子がいた。運動がめちゃくちゃ出来て、ドッジボールとかすごく上手い。上手いけど、女子にはそんなに痛いボールは投げず、足元に軽く当たる程度の球を投げる。顔は全然違う方向を向いているのに、投げる球は逆の方向で、気を抜いていた男子にバシッと当てる奴。いつも女子にキャーキャー言われて、バレンタインとか大変な事になる。それで、ホワイトデーにはお母さんがため息をつく。

友人のマリエ曰く、ケンジは昔からそんな男子だったらしい。

ケンジと出会ったのは、マリエに連れて行かれた合コンでだ。ケンジとマリエが幹事をしていて、私は頭数合わせの補欠要員。合コンとか基本行かない。面倒くさい。男が喜ぶような事を言わないといけない気がして、うんざりする。
しかし、今回は、会費を払わなくていいから、なんとか人数を合わせる為に、とマリエに言われて参加した。
それに、このホテルのレストランは好きだった。トイレに行くにも足元がおぼつかないぐらい照明が暗いのは嫌いだが、ホテルの庭が吹き抜けになっていて、それを囲むように客室がある。その庭は綺麗にライトアップされて、中央に四角いプールの様な池がある。池の中にもライトが入っていて、暗い店内からその庭が綺麗に見える。料理も悪くない。雰囲気に飲まれるというのもあるかもしれないが、私はこのレストランが好きだった。

「今日、ありがとね来てくれて」
ケンジが左隣に座り、そう話してきた。

「いえ。タダ飯なんで」
「いや、助かったよ。マリエとは大学の友達?」
「社会人になってからです。何かのセミナーで会ったんじゃなかったかな?」
「へぇー。どう、良さそうな男子いた?」

少し開いた両足の太ももに、両肘を乗せ指を組む。下から覗きこむ様に私を見ながらそう聞いてくる。

ジャケパン、細いニットタイ、カフス。
ツーブロックの髪には、柔らかくパーマ。
腕時計は……、ガガミラノ。
金曜の夜、仕事終わりに直接来たであろう時間帯に、このセンス。大手広告代理店か、外資系保険の営業マン。もしくは、MR。そんな事をぼんやり思いながら、「どうでしょう」と言い、トイレに向かった。

数日経って、facebookにケンジからメッセージが届いた。

—ドライブにでも行く?

行かない? じゃなくて、行く?
その誘い方が、少し強引な感じがして、気持ち良かった。

—迎えに来て。
私は、港の近くにあるコンビニに来てもらうようメッセージを返し、小さなショルダーバッグに財布とスマホを入れた。リップぐらい入れとくか……。

意外にもケンジが乗っていたのは、プリウスだった。
マツダのRXシリーズなんかに乗っているイメージだったから驚いた。というか、それは私の欲だったのかもしれない。むしろプリウスで良かったのかもしれない。ミッションを華麗にさばかれてしまったら、私はそれこそ、ころっと落ちていたんじゃないかとも思う。

連れてこられたのは、高層ホテル最上階のバーだった。
全面ガラス張りの店内から、福岡市内の夜景が一望できる。福岡タワーほどの高さではないものの、女を喜ばせるには十分だ。

「いっつもこんなとこに女連れてくんの?」
「あはは、確かにココいいよね。いい感じになれば、部屋はあるしね」
「いやらしい……」

そう言いながらも、この男の粋な演出に私は喜んだ。窓際の席に案内され、ボーイが椅子を引いてくれる。私は椅子に腰掛けながら、足元に広がる街の風景に見とれていた。テーブルに置かれたキャンドルがゆらゆら揺れて、手元が少し暖かい。

「なんかあったの?」
私は、とりあえずそう聞いた。そういえば、彼の事は何も知らない。年齢も知らなければ、苗字すら知らない。

「もう少し話してみたいと思って。この前、軽く流されちゃったから」

女慣れしている。
オーダーの取り方も、お酒の進め方も、話題の振り方も。分かってはいながらも、こういう男と居るのは不快ではない。自然な流れで、話が進む。
ケンジは、広告代理店に勤めていて、マリエとは小学生の時からの幼馴染。
歳は同い年、彼女無し、結婚歴も無し。
一度東京に出ていたが、この春から福岡に戻ってきた。福岡に戻ってきたのは、アジアでの仕事が増えたから。アジア拠点が、福岡支社になっているらしい。

「海外出張が多いの?」
「今は、インドとかフィリピンが多い」
「インド! お腹大丈夫だった?」
「もーね……。やばいよ、あれ……。見事に下す」
「ひー! やっぱりそうなんだ?!」

私は、自分の事はあまり話さず、ケンジの話ばかり聞いた。仕事で海外に行くことが多い彼の話は面白かった。それにこのシチュエーション。少しだけ気を許してしまいそうになる。
バーの窓から綺麗な月が見えた。新月から、また少しずつ太陽に照らされる様になった上弦の月。満月まであと10日ぐらいかな?

閉店ギリギリまで、そのバーに居た私たちは、その日はそのまま帰った。ケンジに下心がなかったわけではないと思う。席を立つとき、手を差し出された。差し出された手を、振り払うほど強気な女ではない私は、そのまま彼の手を握った。2人きりのエレベーターがなぜか急に狭く感じる。繋いだままの手を、どうしたらいいか分からなくて、私は俯くしかない。

それから、彼とは二度会った。
三度目に何もなければ、私はそのまま彼をやり過ごしていたと思う。一度目で何かあれば、大抵男はそのまま姿を消す。三度目まで何もしてこなければ、私がしびれを切らしてしまう。だから、三度目でケンジが私を誘ってくれたことに女としての喜びを感じていた。

三度目は、福岡市内が一望できる山の上にあるレストランに行った。
本当に山の上。丘の上とかじゃない。道中、こんな山奥に連れて行かれて大丈夫か? と不安になるぐらいの山道を登っていく。その山の中腹にあるレストラン。彼は、車のフロントガラスから夜景が見えないところに車を停めた。
レストランの入り口までアプローチがある。私は車を降り、芝生に埋め込まれた平らな石の上を、彼に手を引かれ歩いた。

数歩行ったところで、私はまた立ちすくんでしまった。

「いっつもこんなとこに女連れてくるの?」

私は、一度目と同じ質問をした。
180度見渡せる、光の世界。車のライトが作る数本の光の道。ところどころ点滅信号が作るキラキラした光。マンションから漏れる、規則正しい光の箱。赤、青、黄色、オレンジ。海岸沿いまで広がるその世界が美しかった。

「ほら、おいで。冷えるから中入ろう」
ケンジにそう言われるまで、私はいつまでも、その場に立って居られそうだった。

その日、私はケンジと寝た。
ゆったりとした、波の上で漂っているような気分だった。ぬるま湯に入った時のような、いつまでもそこに浸っていられる感覚。それはきっと、私が支えて欲しいところを支えてくれ、私が撫でて欲しいところを撫でてくれたからだと思う。マンションの最上階にある彼の部屋の寝室は、天井が斜めにカットされていた。その天井にはめられた窓から、空が見える。私は彼の肩越しに、その空に浮かぶ満月をぼんやり眺めた。枕からローズの香りがしていた。

ケンジとは、激しく愛し合ったというわけではない。
お互いこの歳になると、20代の時のようにベタベタとした付き合い方をしない。どちらも、仕事を優先させるし、お互い相手にはそうして欲しいと思っている。月に何度かは会えるし、特に喧嘩をするわけでもない。付き合っていたのかどうかも定かじゃない。私は、マリエにも特に何も語らず、ケンジとの関係を続けた。
女が結婚を意識しなければ、男女関係なんて意外とスムーズに行く。ただ、こうして今日も抱き会えればいいじゃないか、そう思えてくるのだ。私は、猫のように気が向いた時に彼の足元になすり付き、そしてまた自由に生きる。そんな生き方のほうが性に合っているような気がしていた。

満月の夜を、10回ほど繰り返した後。
季節は夏だった。
毎日、熱中症に注意するよう朝のニュースが流れる。私は朝からクーラーをかけ、身支度をしていた。朝6時に起き、7時には家を出る。そんな生活を繰り返していた。

家を出たところで、ケンジからLINEが入る。
しばらく出張で海外に行くから、今日会えないかと。
私は、その時仕事が立て込んでいた。今日も終電までかかるだろう。会えないのは残念だったが、しかしこうして10ヶ月過ごしてきたのだから、ケンジも分かってくれるだろう。私は結局、彼に会わないまま夏を終えてしまった。

私は、マリエともさほど仲が良かった訳ではない。年に数回会う程度だ。
ケンジと会わない夏の間、一度だけマリエとお茶をした。特にお互い何かあった訳ではない。ただ、30歳を超えると休日に会える友人が少なくなる。独身の女友達は、お互い貴重な存在だ。それにしても、私はなぜ、ケンジと寝た夜に気付かなかったのか悔やんだ。なぜ、あのローズの香りに気付かない振りをしてしまったのかと。

彼と久しぶりに会うことになったのは、10月に入ってからだった。何度か会えないかと電話が来ていたが、私が断っていたのだ。
なんとなく、会えば本当の事を言われる様な気がしていた。

顔は全然違う方向を向いているのに、投げる球は逆の方向で、気を抜いていた男子にバシッと当てる奴。

ケンジはやっぱり、そんな奴なんじゃないかと思うようになっていたのだ。
最初にケンジと出会った合コン。幹事だったケンジとマリエ。あの時にちゃんと気づいていれば良かった。

ケンジはまた、あの高層ホテルのバーに私を連れて行った。

「いっつもこんなとこに女連れてくんの?」
そう言った自分を、ちゃんと守ってあげていれば良かったのに。

久しぶりに会ったケンジは、フィリピンでの出来事を色々話してくれた。今回は長期だったのでホテルではなく、部屋を借りていたこと。治安が悪いので、運転手付きの車が付いていたこと。フィリピンで働く日本人のコミュニティーがあったこと。私は、無理に話をしようとする彼が可哀想になって、話を遮った。

「マリエと付き合ってたの?」
「……。」
「もう、いいよ。ほら、別に私たちちゃんと付き合ってたわけじゃないでしょ?」
「……ごめん」
「いいって。マリエは知ってるの?」
「この間話した……」
「そっか。私からもマリエに話した方がいい?」
「いや、それは大丈夫だと思う」

私は、それ以上話すことが無くなっていた。
激しく愛し合った訳じゃない。ただ、私も都合が良い時だけ、彼の足元になすり着いていただけだ……。

「マリエとは、籍入れようと思う」

もう、いいって……。
それ以上、喋らないで。

「実は、マリエ妊娠してて……」

だから、いいって……。
それ以上は、聞きたくない……。

「分かった。ごめんね、会わないままはぐらかしちゃって。じゃあね……」

私はそう言って、席を立った。
長細いバーを、まっすぐ振り向かずに歩く。
エレベーターに乗り、何度も「閉」ボタンを押す。やっと扉が閉まり、エレベーターが下に降りる。高層ホテルなんて嫌いだ。下に降りるまでに時間がかかる。

私は、フロントロビーに出ると、大理石のロビーをまっすぐエントランスまで歩いた。さすが高層ホテル。ロビーにも人が多い。

玄関の自動ドアが開いた瞬間、冷たい浜風がフワッと髪を後ろに靡かせた。
私は、冷たい風にハッと我にかえり、正面を見据えた。暗い海が広がっている。
エントランスから続く階段の下で、「タクシーですか?」とドアマンが話しかけてくる。私は、「はい」と答え階段を降りた。

「はい、こんばんは。お客さん、どちらまで?」
「港の方まで」
「こんな時間にですか?」
「大丈夫です、港から家近いので」

タクシーの窓から、月が見えた。どこまで走ってもついてくる月。
下弦の月。もうすぐ新月だ。
大丈夫。私はまた、1からスタートできる。

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミプロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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