私が聖橋の上でガリレオを探す理由
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:リコ(ライティング・ゼミ)
「僕は3年の夏まで野球してたからね。部活終わってすぐの夏の模試はひどい成績でね、帰りに聖橋から身を投げようかと思ったよ」
三田先生がいうとクラスはわっと笑いに包まれた。
神田川にかかる聖橋は御茶ノ水駅のそばにある。
橋の上はいつも多くの人が行き交い、橋の下は中央線が通っている。
身を投げるような静かな雰囲気の場所では、ない。
橋の周りには大手予備校が立ち並ぶ。
聖橋のある御茶ノ水は受験生の街だ。
10年以上前のこと。
高校3年生になった私は受験勉強のための塾を探していた。
私は中学、高校とエスカレーター式に内部進学してしまったため、大学受験に相当な不安を抱いていた。
受験勉強は範囲が膨大だ。
試験といえば学校の定期試験くらいしか受けたことがなかった私は、膨大な範囲の受験勉強にどう取り掛かればよいのかさっぱりわからなかった。
多少のタスクをこなす覚悟はあった。
でもそのかわり、このタスクを全部こなしたら合格するって、そういう保証をしてくれる人がどこかにいないかな、そんな都合のよいことを考えていた。
そんな私にぴったりの塾があった。
それは大学生が立ち上げたという塾だった。
講師も大学生ばかりだった。
その塾は他の大手予備校と違うところが2つあった。
1つは毎週膨大な宿題が出されること。
もう1つは、宿題さえこなせば志望校に受かることを「必ず約束」してくれること。
絶対受かる保証を求めていた私はその塾に行くことに決めた。
理系志望だった私は、数学、物理、化学の全部をその塾に託すことにした。
化学の三田先生は大学4年生だった。
背が低くていつもパッとしないTシャツを着ていた。
塾に通い始めたばかりのころ、同じクラスのキラキラした女子高生達はひそひそと話していた。
三田先生ちょっとカッコ悪いよね。
私はこっそり同意した。
でも、先生は講義になると一変した。
先生は難しい式をさらさらとホワイトボードに書いた。板書のスピードは速く、それをノートに書き留めるのは大変だった。
説明は学校の先生よりはるかにわかりやすかった。
毎回とても熱の入った授業で、いつも授業は時間をオーバーしたけれど、誰一人文句は言わなかった。
授業のあとは毎回1人ずつ先生に宿題を提出しに行った。
わからなかったことや、心配なことがあれば、そのときに相談した。
時間がないのに丁寧に相談にのってくれて、足りなかったら別の日にマンツーマンで時間をとってくれた。
いつしか生徒達の間では、「三田先生のクラスは当たり」だと囁かれるようになった。
先生のクラスに入れたことが、誇らしかった。
先生はいつしか私の中でメンターのような存在になった。
先生が、メンターでなくなってしまったのは、ある日の授業のことだった。
その日の授業には、ある溶液の濃度を計算する問題が出てきた。
答えにたどり着くにはすごく長くて複雑な計算が必要だった。
先生はいつものようにさらさらと式を書いた。
やがてホワイトボードはいっぱいになった。
もうこっち側はけしてもいいかな、先生はそう言って計算式でいっぱいになった左半分を消して、更に計算を続けた。
3行ほど書いて、先生は急に手を止めた。
必死で板書していた何人かは、異変を感じて先生をみた。
それでも先生は動かなかった。
やがてクラス中の視線が先生に集まった。
数秒後、先生は言った。
「……わかんなくなっちゃった」
クラスは一瞬シンとなって、直後に爆笑の渦につつまれた。
顔を赤くした先生は子どものようだった。
先生はノートを確認すると、そうか、思い出した、と何事もなかったかのように、またさらさらと式をかいて答えを導き出した。
確信をもってホワイトボードにペンを走らせる先生は、いつもと同じ冴えないTシャツを着ていた。
でも、その日から、私の目には先生が福山雅治演じる「ガリレオ」のように映るようになってしまったのだ。
「ガリレオシリーズ」は理系ミステリーだ。
どんな問題でも解決する「ガリレオ」、湯川先生のその天才っぷりに惹かれる人も多いだろう。
でも、湯川先生の魅力はそれだけではない。
天才「ガリレオ」は、実は美女に弱いし、ペーパードライバーだ。
彼が垣間見せる「ダメなところ」は、天才の魅力を引き立てる。
その日の先生の失敗で、私は先生のことが好きになってしまった。
ある日の授業でのことだった。
授業はいつも小テストから始まる。
テスト用紙が配られるとともにクラスのみんなは問題に取り組んだ。
テスト用紙が配られてすぐは、教室は静かだ。
みんなは問題を読んでいる。
しばらくすると、答が見えた子からカリカリを鉛筆を動かしだす。
少し遅れて、私も鉛筆を動かし始めた。
計算式をかいているとその脇を先生が通った。
先生は私の答案用紙を見ると、
「お、あと一息」
と呟き、他の生徒の様子を見に机の間を歩いていった。
次に先生がまわってきたとき、私はほぼ解き終えていた。
私の左手はすでに書き終えた計算式の上に置かれたままだった。
ちょっといい?といって先生が私の左手にふれた。
その瞬間、私の時は止まった。
先生は固まってる私には目もくれず、私の左手を脇において、さっと解答用紙に目をはしらせた。
先生は、
「おみごと!」
といって、また他の子の答案を見に行ってしまった。先生が行ってしまった後も私はしばらく動けなかった。
手が触れた瞬間は今も写真のように焼き付いている。
その日、ピンクのタンクトップを着て、上に白い半そでのカーディガンを羽織っていたこと。
その日はホワイトボードの真ん前の、一番前の席にすわっていたこと。
どうしてだろうか。今も鮮やかに覚えている。
私の友人の女の子で、妙にスペインのサッカーリーグに詳しい子がいる。
片思いの彼が、レアル・マドリードのファンだったのだ。
先生がガリレオにみえるようになってから、私の化学の成績はめきめきアップした。
塾に通い始める前、定期テストで20点台をたたきだしていた私とは、別人のようだった。
学校では1位をとることすらあった。
塾の効果は、確かにあった。
高校3年生の秋はあっという間に過ぎ去り、最後の授業の日がやってきた。
私は、その日を最後にもう定期的に先生と会えなくなってしまうことが寂しくてたまらなかった。
でも、もし志望校に合格したら、合格の報告に来れる。
だからもう一回会えると、そう信じていた。
先生は、受験日までの過ごし方について一通り話した後、
「実は僕からもうひとつ話がある」
と言った。
「最初の授業で話した通り、僕は今薬学部の4年生だ。
薬学部に行きたいと思って受験して、薬学部にはいった。
ところが入学して勉強するうちに、やっぱり医学部に行けばよかったと思ったことが何回かあった。
僕は自分のそんな気持ちに向き合うこともなく、4年生まできてしまった。けど、この1年間、こうしてみんなが一生懸命夢に向かって勉強しているのをみて、恥ずかしくなった。だから、決めた。僕も医学部の編入試験を受けることにした。
来年度の試験を受けようと思う。そのためには、もう今から自分の勉強をしないといけない。
残念だけど、この塾で先生をすることはもうできない。
だから君たちは僕の最後の生徒だ。僕も頑張る。君たちも頑張ってくれ」
先生の急な報告にクラスのみんなは戸惑った。でもしばらくすると教室は拍手で包まれた。
私はみんなと一緒に拍手をしながら気づいた。
もう、合格の報告にきても会えないんだ。
思いがけず訪れた最後の日、私は月並みな応援の言葉しか言えなかった。
受験日までの時は、更にあっという間にながれた。私は先生と塾のおかげでリケジョになった。
結局、塾への合格報告は手紙で済ませてしまった。あの最後の授業の日以来、先生には会っていない。
先日、久しぶりに聖橋を通った。
一緒に歩いていた息子に、
「ほら、橋の下を電車が通ってるでしょ」
と説明すると、息子は、
「抱っこして」
と言った。
ダメだよ、落ちたら大変だよ、といった途端、先生のセリフが蘇った。
「聖橋から身を投げようかと思ったよ」
今頃どうしているだろうか。
私は苦心して先生の下の名前を思い出だし、子どもが電車に夢中になっている隙にこっそりGoogle検索した。
先生は大学病院で、お医者さんになっていた。
きっとガリレオさながら白衣をきて頑張っているのだろう。
聖橋のある御茶ノ水は大学病院の街でもある。
私が聖橋の上で白衣を着たガリレオを探してしまうのはこういう理由だ。
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