いつかユリが咲き乱れるあの場所で、私はまた君に会いたい
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記事:渡辺エリナ(ライティング・ゼミ)
学生時代から今にいたるまで、「友達」と呼べる人は多くはないが、それなりにいる。
その多くは、毎年会うほどではないにしても、たまに開催される飲み会や同窓会、あるいは結婚式なんかで顔を合わせる機会がある。
しかし、私には会いたくても、どうしても会えない人がいる。
うまく書けるかわからないけれど、今日はその話をしてみたいと思う。
* * *
私の傍らには、いつもユリがいた。
仲良くなったきっかけはなんだったか、今となっては思い出せないが、最初に話したのは小学校の頃だったと思う。
生年月日が同じだった私たちは、席が前後になることが多かった。
彼女はいつも難しそうな本を読んでいて、テストも毎回よくできて、「とても頭のいい子」という印象だった。
私は彼女が読んでいる本を盗み見ては、図書室に行ってその本を借りたりしていた。
そして、朝の読書の時間に、さりげなく「私も読んでいるよ」アピールをする。
今思えば、彼女と仲良くなりたいがために必死だったのだと思う。
おかげで、だいぶ世界の名作と言われる小説や、戦国武将には詳しくなった。
そんな努力の甲斐あってか、ユリと話す機会はだんだん増えていった。
お互いに読んで面白かった本を紹介しあったり、自由にグループを作る授業の時は、自然と同じグループになるようになっていた。
しかし、私はユリの一番にはなれずにいた。彼女には他に親友がいたからだ。
私も私で、その時期ごとに「親友」と呼べる存在がいた。
小学生女子の友情というのは不思議なもので、一度親友になると強い束縛が生まれる。
私自身はあまり束縛したいと思うタイプではなかったが、その当時、「他の子と二人きりでしゃべったら絶交ね」と言われることは、そう珍しいことではなかった。
絶交されて一人きりになる、というのは、学校生活では死にも等しいと感じていた私は、とくに抗うことはしなかった。
そう言った親友に違和感を覚えることもなく、普通に仲良くしていた。
けれど、掃除が同じ班になった時や図書室に本を借りに行った時、親友がいない場所でユリと会えると、ものすごく嬉しかったことを覚えている。
今にして思うと、その当時、親友になるということは、結婚よりも重い契約だったのかもしれない。
そのときユリに対して抱いていた想いは、不倫にも通じる背徳感があった。
時は流れ、私たちは小学校を卒業した。
通っていた私立のミッションスクールには、同じ敷地内に女子中学校があり、女子はほぼ全員そこに行くのが普通だった。私とユリも例に漏れず、同じ中学校に進学した。
そこで私たちの関係に変化が訪れる。
同じクラスになった私たちは、前にも増して一緒にいることが多くなった。
中学に入り、部活も始まって少し大人になったせいか、小学校の時のように束縛したがる子はいなくなった。かわりに、複数人のグループで仲良くなる子たちが増えていた。
そんな中、私とユリだけは、お互い束縛するでもなく、二人きりでよく一緒にいた。
朝、授業が始まる前に、話す時間が欲しいがために、早く登校した。
会うのは決まって誰もいない図書室で、小説を一日で読んでしまうユリに、その感想を聞くのが日課となっていた。
彼女は遠藤周作や星新一、外国文学など、ありとあらゆるジャンルを読んでいた。
スピードでは到底、彼女には敵わなかったけれど、私もユリに「それ面白そうだね」と言ってほしい一心で、図書室にある本を片っぱしから読みあさった。
休み時間や放課後には、ユリをモデルによくスケッチをした。
当時、ルネサンス期の絵画を模写したり、とにかく人物を描くことにハマっていた私。ユリはその絵を褒めてくれていた。
そして私の誕生日に、上等のスケッチブックとコンテをプレゼントしてくれたのだ。
大人になった今、それよりも高価なプレゼントをもらうことはたくさんある。
けれど、あの時の感動を超えるものには、きっとこの先も出会うことはできないだろう。
いつしか私たちは、クラスメイトはおろか、先生にも公認されるほどの“二人だけの世界”を築いていた。
当然のように、高校も同じところに進学した。
ユリが推薦で合格してしまったため、私は必死に勉強し、なんとか一般受験で入学。私たちは隣のクラスになった。
同じクラスで仲のいい友達ができた私に対し、ユリはあまりクラスメイトと馴染もうとしていないようだった。
休み時間に会いに行くと、いつも一人で自分の席にいて、私だけを待っている子犬のようだった。
ユリのことを変わり者扱いする友達もいたが、私だけは彼女の理解者でいようと思っていた。
中学の頃と変わらず、休みの日にはよくお互いの家に遊びに行った。
私はその頃、毎日のように小説やら詩を書いていて、それをユリに評してもらうのが楽しみだった。かなりの読書家のユリが褒めてくれると、ものすごく自信になった。
私たちは、お互いの才能を心底認め合っていた。
2年生になると、私は文系、ユリは理系に進んだため、校舎が分かれてしまった。
正確には、廊下で繋がっているのだが、とにかく教室が遠い。1年の時のように、10分の休み時間で会いに行ける距離ではなくなってしまった。
初めての彼氏もでき、ユリと過ごす時間は徐々に減っていった。
そんな中、ユリは1年間の留学を決めた。私が知ったのは、すべて決まった後だった。
今まで、どんなことでも話してきたのに、こんな大事なことを相談してくれないなんて……。
私は悲しいと同時に、この頃から少しずつユリのことが分からなくなっていった。
ユリが旅立つ前の夏休み、私たちはちょっとした悪さをした。
所属していた軽音部の部室に、わざわざ視聴覚室から二人で押してようやく動くような、でっかいキャスター付きのテレビを運びこみ、映画を大音量で上映した。
観たのは、私のリクエストで借りてきた『ピーター・グリーナウェイの枕草子』。
クーラーもなく、汗をかきながら狭い部室にこもって観た極彩色の映像は、今でも鮮明に私の脳裏に焼きついて離れない。
しかし、私は終始ビクビクしていた。
というのも、この映画、かなり際どいのだ。裸体が惜しげもなく晒されるシーンが多く、もしその瞬間に先生が注意しに入ってきたら……と思うと、気が気じゃなかった。
実際、真面目な進学校だったため、場合によっては停学もありえたと思う。
ユリは、そんな私を「意気地なし」と罵った。
ユリが留学していた1年間は、ほぼ連絡を取った記憶がない。
当時はお互い自分専用のパソコンも持っていなかったし、海外の友達とやり取りできるなんて思っていなかったのだ。
ユリがいない間、私はバンド活動に明け暮れ、まさに青春を謳歌していた。この時期が高校時代でもっとも楽しい時期だったと思う。
ユリは帰国すると、1年下の学年に復学することになった。
その頃には私も受験生になっていて、やはり休み時間に会いに行くことは難しかった。
それでもたまに会っては話していたが、ユリはなんだか変わってしまったように思った。
ドライさと攻撃性が増し、「誰も自分を知らない世界に行きたい」と、よく口ぐせのように言っていた。
私は危うさを感じさせるユリに、どう返していいのか分からなかった。
変わらずユリのことは好きだったので、いつかはまた元のユリに戻ってくれると信じ、深くは考えないようにしていた。
以前と同じように好きな男の子の話をする私を、この頃のユリはどう思っていたのだろう。
春になり、東京の大学に無事合格した私は、真っ先に電話でユリに報告した。
ユリは自分のことのように、電話口ではしゃいでくれた。
そして上京前の春休み、私はユリにあるお願いをした。
2つのピアッサーを手渡し、耳に3個目と4個目の穴を開けてほしいと伝えた。
離れ離れになる前に、何か二人の証のようなものが欲しかったのかもしれない。
私に一生消えないような跡をつけるのは、ユリ意外ありえないと思った。
ユリと最後に会ったのは、大学に入って最初のゴールデンウィーク。
東京で一人暮らしを始めた私は、とたんにオシャレや化粧を始め、すっかり別人になって故郷に帰ってきた。
駅前のスターバックスに入り、二人とも同じコーヒーを注文すると、ゆったりしたソファに向き合って腰かけ、前と同じように話しはじめた。
私はユリに、彼女の知らない東京について伝えるのに一所懸命だった。
ナースの制服を着てみたくて歯医者でバイトを始めたこと、大学の授業は高校とは全然違って面白いこと、ようやく大失恋から立ち直って新しい彼氏ができたこと……。
早くユリにも東京に来てほしい、という思いでしゃべり続けた。
最初はユリも楽しそうに聞いてくれていたと思う。
けれど、少しずつ、どこか会話が噛み合わなくなっていく感覚があった。
私は、どうしたらユリが心底楽しいと思ってくれるだろう、と考えはじめた。
ユリは気難しいところがあり、昔からいつも、私は無意識に彼女に気を遣っているところがあったと思う。
それは、小学生の頃、ユリとなんとかして仲良くなりたい、と思っていたのと同じ感覚だ。
一方のユリは、微妙な歯車の狂いは感じていないようだった。いつもの毒舌で、家族や友人への不満を延々と語っていた。
私はこの時、そんなユリを正直、子供っぽく感じていた。大学生になって調子に乗り、彼女を下に見ていたのだと思う。
「ねぇ、一緒にこのムカつく世界ごと爆破してさ、名を残して死のうよ。エリナなら乗ってくれるでしょ?」
コーヒーも飲み終わる頃、ユリは唐突にそんなことを言った。
「え……?」
確かに私は、中学・高校とセックスピストルズのシド・ヴィシャスに憧れていて、なんでもいいから有名になって、シドと同じ21歳までに死にたい、なんてよく言っていた。
今思えば、完璧な中二病というやつだ。
その当時は多分、ある程度本気だったと思うけれど、大学生になった私は、そんなことを言っていたことさえ忘れていた。
私はその時、ユリになんと返事をしたのか覚えていない。
けれど、きっと多かれ少なかれ、「ありえない」という反応をしたのだと思う。
その時の彼女の、ひどく失望したような、寂しそうな表情が、私たち二人の世界はもう二度とは戻らないことを物語っていた。
毎年恒例だった、同じ誕生日に“おめでとうメール”を送り合う習慣も、その年のうちに途絶えてしまった。
初期登録のままの、数字とアルファベットの難解な羅列のユリのアドレスは、「宛先が見つからない」とエラーを表示するばかり。
最初の頃は、共通の友人にユリの近況を知らないかと、定期的に聞いていた。
幸い、知っている友人がいて、元気なことが分かっただけで、私は満足していた。
きっとユリは、計画に乗らなかった私を怒っているに違いない。もう少し時が経てば、また何事もなかったように話せる時が来る。
私はそんな風に思っていた。
けれどそれ以来、10年以上経った今も、私はユリと会えていない。
もはや、友人の誰にも彼女の消息は分からなくなってしまった。
同窓会が開かれるたびに、私は記憶にポッカリと穴が開いたような感覚を味わい続けている。
だって、私の中学・高校の思い出にはいつも、ユリが傍らにいたのだから。
他の誰にも分からない、二人だけの世界の話は、どこに行ったらできるのだろう?
私は誰と、思い出話に花を咲かせればいいのだろう?
ユリが開けた穴は、今も2つ、変わらずに私の耳に存在している。
ユリに開けてもらう穴は、それだけでよかったのに。
他にはいらなかったのに。
今でも年に一度くらいは、喪失感に涙することがある。
……連絡が取れなくなってから、実は一度だけ、池袋でユリを見かけたことがあった。
あれは私が大学2年生の頃。彼女も東京の大学に進学していることは、友人に聞いて知っていた。
私がユリを見間違えるはずがない。見た目はあか抜けて変わっていたけれど、あれは確かに、ユリだった。
けれど、私は彼女と会うのが怖くて、咄嗟に見つからないよう、その場を立ち去ってしまった。
スタバで聞かされたユリの計画が、どこまで本気だったのかは分からない。もしかしたら、本人は軽い冗談のつもりだったのかもしれない。
だけど、私がもし乗り気になっていたら……結構高い確率で引き返せなくなっていたと思う。
あの頃のユリには、そう思わせるような危うさがあった。
きっとその当時、彼女は色々な悩みを抱えていたのだと思う。
家族や友達とどこかうまくいかなくて、自分の人生をリセットしたくなったのではないか……?
今になってようやく、そのことに気がついた。
ユリは以前から、「誰も自分を知らない世界に行きたい」と言っていたのに。
どうしてもっと、あの言葉の意味を考えてあげられなかったのだろう。
ユリは私に、助けを求めていたのかもしれないのに。
分かっていたら、あんな反応はしなかったのに……。
ユリという唯一無二の存在を失った代償は、あまりにも大きかった。
今でも、まるでテロみたいなユリの誘いを断ったことは、間違いじゃなかったと、確信を持って言える。
たとえ、分かりにくいSOSだったのだとしても、乗るべきじゃなかったことだけは確かだ。
だけどあの日、池袋で彼女に声をかけなかったことを、私は今、死ぬほど後悔している。
最後のチャンスを、私は自ら逃したのだ。
ユリは今、なにを感じて生きているのだろう。
私は彼女になにができただろう。
ユリにとって私は、なんだったのだろう。
今、無性に彼女に会いたい。
何を話せばいいのかなんて、もはや分からない。
ただ、会って抱き合って、涙を流したい。それだけでいい。
でもやっぱりその後で、「よく頑張ったね」って、昔みたいに褒めてほしい。
……私が今も編集者として本に携わっているのは、少なからず、ユリにいつか会えた時に、認めてほしい気持ちがあるからなのかもしれない。
最近、天狼院に行くために池袋に通っているせいか、ずいぶんと昔のことを思い出してしまった。
彼女を思い出す時、いつも私の頭の中には真っ白なユリが咲き乱れている。
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