プロフェッショナル・ゼミ

柿の実が生らなくなる方法、教えてください。《プロフェッショナル・ゼミ》


記事: 村井 武 (プロフェッショナル・ゼミ)

「ひぇー、もう無理、やめて。降りてきて!」
「大丈夫。三点で重心をとっていれば落ちることはねぇのさ・・・・・・」

齢86歳のじいさんが、地上3メートル程の脚立の上で出初式のような姿勢でそっくりかえっている。下から制止する私の声は軽やかに無視される。

脚立の上にいるのは私の年老いた父。体もすっかり細くなって、歳相応にあちこち体も悪くなって、病院通いが続いている。

東北の地方都市で暮らす両親。いずれも80代に達し、それぞれ大病も患ったのに「こんなに生きると思わなかった」と言いつつ、まだ二人で暮らしている。

現役を60歳で引退した父の殆ど唯一の楽しみは、春から秋、毎朝暗いうちから太平洋岸の運河に自転車を走らせ、ハゼを釣り、秘密の場所にウナギの罠を仕掛け、秋には運河沿いの松林で松茸を探すことだった。太平洋沿いの砂浜が、生涯最後の遊び場だった。海の幸、林の幸の収穫が生きがいだったのだ。

しかし、東日本大震災がすべてを変えた。運河はコンクリートで固められ、堤防工事の現場は立入禁止。松林もすべてが流された。

海の楽しみを奪われた父は、すっかり、見るからに老人となった。手足も細くなり、頭も真っ白になって、その髪の毛も細くふわふわ。顔も一回り小さくなった。一日の大半を寝て暮らすことも少なくない。体のあちこちに故障も抱えている。

その父が、年に一度、どうしてもやめない「収穫作業」が11月の柿もぎなのだ。

実家の狭い庭には枝の先まで入れると4メートル近い高さのある柿の木が1本生えている。植えられてから少なくとも50年は経っている老木。一説には福島より北に育つ柿は、一般に渋柿だそうで、実家の柿もやはり渋い。とってすぐに口に入れると口がしびれる。渋柿は2週間ほど焼酎につけて渋抜きの作業を経なければ食べることができない。

そんな面倒くさい柿の収穫を、年老いた父は、どうしても自分でやる。植木屋さんや業者に頼むでもなく、息子である私や親せきにやらせるでもなく、自分で4メートル近い木に錆びた脚立を立て掛け、アクロバティックな格好をして、最後のひとつまで執念深くとりきる。どう考えても後期高齢者のとる姿勢ではない。

下から見守る私は気が気ではない。

「もう、その枝の実はいいから。カラスのエサにすればいいから。あー、無理。やめて」
「なーに、黙って見でろ」

理解できない。目の前で実の父親がどう考えても、ものすごくリスクの高い行為をやめてくれない。

みるからにヨボヨボの老人が脚立に上って、ぷるぷる体を震わせながら、秋の青空の下、柿の実に手を伸ばす。

近所の手前もあるので、文化の日を目安に、東京に住んでいる私が帰省して
「今年は僕がとる」
と言うのだが
「おめさんがはしごに上る方がおっかねくて、見てらんね」
と言いながら、脚立をよちよちとのぼり、体を震わせながら高いところの柿の実に手を伸ばす。

道行く見知らぬ人が見かねて声をかけてくれる。

「あれ、柿の木は、あぶねよ?」
「はい、はい。ありがど」

言ってやって下さいよ!

「頼むからやめて、もう、その実はいいから」
「さーわぐな」

片足だけを脚立に乗せ、もう片足を枝にひっかけ、覚束ないリウマチの左手を柿の枝にかけ、手前に引っ張りながら右手のハサミでもって強引に枝に切り付ける。

86歳のじいさんのやることではない。

「僕がやるから」
「・・・・・・」

ソーシャルワーカーの経験もある妹に言わせると、この頑固さはもはや認知症の表れではないかという。高齢者の運転免許返上問題と共通するものがあるかもしれない。幸い父は運転をしないが。

柿の木、枝は折れやすいというのが定説だ。脚立をかけられた老木はたわみ、いつボキっと折れるかわからない。

青い秋晴れの空をバックによぼよぼ出初め式をやってみせる老父。

私は脚立の下で、じいさんが落ちてきたときにどうショックなく受け止めるか、下敷きになるか-私自身も細い体で考える。こっちの身体が震える。

「よーす。これで一丁上がり」

一丁あがりじゃないよ・・・・・・。

今年も2時間ほどで、恐怖の作業は終了し約200個の柿がとれた。私は殆ど何もしていないのだが、体中の筋肉がひきつり、気が遠くなるほど疲れ果てた。

「来年は植木屋さん頼むからね。もう、どう考えてもお父さんには無理だよ」

私の言うことを聞こえぬふりをして無視するじいさん。

母は「私が何言ったって聞かないんだから」とあきらめている。「あんたがいないときなんか、もっと危ないことやってるんだよ」

どうしてこうなったろう。

子どもの頃、柿もぎは本当に楽しみだった。若かった父は細身ながら、力があって、身も軽く、柿の木の上での動きもまったく安心して見ていられた。私も子どもながらに父の真似をして、枝にしがみついた。

一本しかない柿の木だが、毎年数百の実が生った。数を数えるのも、面倒な焼酎漬けすらも楽しかった。

黄金の時代。我が家の収穫祭。

父は、鉄道の信号の技術屋だった。自分で図面をひいて電気回路を設計し、自ら現場で支柱をかついで信号を建て、電線を敷設していた。理系の大学を出て携わった仕事は専攻に関わる専門職でもあり、同時に危険を伴う肉体労働でもあった。
大学を出て、初出社の際、ネクタイを締めて行ったら
「ネクタイ締めて仕事ができるか!」
と一喝されたという。私は父がネクタイを締めて勤めに行く姿を見たことがない。ネクタイなしのスーツか作業服が定番だった。

上司・先輩から「怪我と弁当はてめえもち(手前持ち)」と教えられたとも聞いた。

重い電柱、レール、高圧電線、作業を中断して通過する列車からの退避。子どもの頃はわからなかったが、今考えると生命、身体に対するリスクが相当高い職場だ。

怪我は自己責任って、現代ならブラック企業認定か。

私が生まれた頃には東北本線の複線・電化工事に携わっていた。父は、工事の進行に合わせて出張し、信号を建てた。工区が実家近くのときには、毎日帰宅するが、工区が遠く離れるにつれて、出張の期間が長くなる。時には一年の半分以上、線路の傍で働き、家に戻らなかった。

給料日には父の信頼する後輩の中村さんが給料袋を家に届けてくれた。給料の支給が手渡しで行われていた時代のことだ。中村さんが給料を届けてくれることが何カ月も続くことがあった。中村さんはわが家が不在のときには、何度でも出直して、恥ずかしそうに給料袋を手渡してくれた。

東北本線の工事が父の職業人生前半の大仕事だとすると、後半の大仕事は、東北新幹線の信号工事だった。東北新幹線は「ひかりは北へ」のキャッチコピーとともに1971年に着工。

父が働いていたのは国鉄、JRの下請け会社だった。鉄道工事で信号の敷設というのは、最後の最後の作業だという。国鉄、JRが全体の工期を守ろうとすれば、前の工程の遅れを最後に吸収せざるを得ないのが信号を建てる作業になる。新幹線は国家プロジェクトだ。ずいぶんストレスの溜まることもあったであろうことは想像に難くない。

家にいる父は「なぜ、こんなことで」と思うような、つまらないことで瞬間的に怒りを爆発させることがあった。「理不尽な親父だ」と思ったが、今思えば、小さなストレスの爆発でもあったのだろう。

東北新幹線の上野・東京間が開通した頃、父は定年を迎えた。私はその数年前に就職で実家を離れ、上京していた。慣れないバブルの都会で、自分の仕事と生活を切り盛りするので精いっぱいだった私の心の中から、実家の両親はしばしば消えていた。

私の上京から数年、引退した父は、料理を覚え、母から料理の仕事を奪い、2人の間は微妙にぎくしゃくしていた。そして、春から夏の間は、毎朝、毎朝夜明け前に釣竿を自転車に積んで、運河までの道を飽きもせず通っていた。

仕事で一線を退いても、秋の柿もぎの主役は父だった。さすがに60代を超えていたので毎年その時期には帰郷して、補助するようにはしていたが、まだまだ身も軽く、安心して見ていられた。「怪我と弁当はてめえもち」という身体的リスクと隣り合わせの職場で30数年を過ごした成果だろうか。現場での作業を見たことはないが、きっと信号の柱にもよじ登っていたのだろう。その感覚が柿の木の上での作業を可能にしていたのかもしれない。

70代になると身体のあちこちに不調を来たしていたが、それでもまだ、足元はしっかりしていたし、私が帰らずに父一人で数百の柿をとった年もあった。

いくつか大病もして、入院生活も送ったが、退院すればまた動きだし、まぁ、年の割には元気な方なのだろうと高をくくっていた矢先に震災が起きた。

瓦礫に覆われた運河を見て、収穫の楽しみを失った父は、目に見えて衰えた。周囲の人間との軋轢も増えた。

同時に、わずかながら残るエネルギーのはけ口を求めたのか、頼まれもしない町内会の仕事に、勝手に手を出すようになった。それも見るからに衰えた年寄りにはリスクや無理のある作業ばかりを。

家の前を流れる細い川は、冬になると水が枯れる。父は柵を超えて川底の掃除を始める。少子高齢化の波をかぶる町内会に増える空家に入りこみ、木の枝を剪定する。草刈りをする。若いお父さんたちにただ一人混じる老人として、子ども会の廃品回収につきそいリヤカーを押す。Windows XP(!)のパソコンで見栄えの悪い、コピーとホチキス止めの町内会史を勝手に作って役員に配る。パソコン、買い換えよう、というのだが、もう新しい操作は覚えられないから、これでよい、という。

町内会の役員の方々は、町内でも長老クラスの高齢者にあたる父の「仕事ぶり」を見て、むやみに叱る訳にもいかず、苦慮されていた。

母は「お父さんが勝手に川底に転げ落ちて怪我でもしたら、町内会長さんの迷惑になるんだから」と言い、私は「人の家に無断で入り込むのは、はっきり、犯罪だからさ」と諌めたが、まったく言うことをきかない。

信号を建てながら線路の延伸を追っていた現役時代には、料理にも、町内会にもまったく見向きもしなかった父が。

妹のいうように、老いが精神を侵し始めたのだろうかと強い疑念を抱かざるを得ない状態になった。実際本人も「人の顔と名前はもう覚えられない」という。

明らかに身体が衰えたにもかかわらず、自分での柿もぎに執着するのも、精神の荒廃のひとつの現われではないだろうかとも考えた。

来年から、どうしたものだろう。

今年の柿もぎが終わった後、Googleで「柿もぎ 代行」「植木屋 柿とり」「柿の枝 折れやすい」「便利屋 柿もぎ」などと検索したが、どうもぴったりしたものがない。高齢者夫婦の実家に、無闇と他人である業者を入れることもためらわれる。

私が暗い表情をしているのを見たのか、父がぼそっと言った。

「おらも、来年は、もう気力がおきねぇから」

「え?」

「柿の木に登りでぇとは思わねべよ・・・・・・昔は町内のことも何にもせずにきたから、まだ、やる気のあるうちに、皆さんのお役に立つべとも思っていろいろやったども、もう、気力がなくなった。身体もそろそろ動がね。アダマもバガになったし」

身体と気力。

あぁ、このおじいさんは、父は、身体と気力を生きているうちに使いきろうとしていたのか。長いこと気になっていたある人の言葉が心をよぎった。

「生は重く、死は軽やかに」

私にとって寺子屋の師匠のような方がいる。医師でもあり、伝統仏教での僧籍も持ち、大学のトップとして教鞭もとり、心と体の関係や、祈りと運命の関係について私塾のようなところで20年近くあれこれ教えを頂いている師匠。

師匠が若い頃書いた本の中に、心と身体を使いきって、生きることを全うすれば、死は軽やかにやってくるという趣旨の一節があった。多くのベストセラーを持つ師匠の著書の中でなぜかもっとも「売れていない」一冊の中に一か所だけ出てくる一番心に引っかかっていた言葉が「生は重く、死は軽やかに」だった。この言葉に出会ってからぼんやりと「軽やかに死ねたらな」と思い続けていた。

ひょっとしたら、頑固頑迷になった父は、「怪我と弁当はてめぇもち」と文字通り身体的リスクを背負いながら家族を養い、子どもを育て、「あのおじいさん、なんだか変わってるごど」と後ろ指をさされながら地域に恩返しをするために、残りの身体と気力を使い果たそうとしているのか。

柿もぎにこだわるのも、身体と気力がある限りは自分で収穫した柿を離れ離れになった子どもたちに食べさせたいと思っての、狼藉なのか。

期せずして、うちの老人は、軽やかな死を目指していたのか。

そこまで考えているのか、本当のところはわからないけれども、よれよれなのに、家族を呆れさせているのに、休むことなく身体を使いきろうとしているかに見える父と、20年来気になっていた師匠の言葉が結びついた。

「そうなの? 軽やかな・・・・・・近いのかな」

「気力がおきねぇから」という思わぬ父の一言に、ざわつく心が「しん」と静まった。

86年使い続けた身体。そりゃー、ガタも来るよね。でも、意図してか、せずしてか、父はよぼよぼになった精神と身体で、私たち家族に、自分がこの世からあの世に向かう背中を見せてくれているのかもしれない。

父が身体を最後まで使い切りたいのなら、来年も、本人がやる、と言えばやらせるしかないだろうか。

いやいや、その気持ちは汲むにしても、現実問題、来年の秋、また脚立の下で
「もう、降りてきて。僕がやるから」
と叫ぶのは、つらすぎる。

「自宅で柿の実を収穫していた87歳の男性が作業中に木から転落して亡くなりました。亡くなったのは……」なんてローカルニュースは、父の訃報としてこの上なく相応しいのかもしれないけれども-きっと父を知る人はみんな「ああ、やっぱり」というはずだ-シャレにはならないし、死なずとも、それが原因で寝た切りということも十分にあるわけで、それも現実に本当に困る。

父の気持ちを損なわずに、危険を回避する方法はないものか。

母や妹との間では「父の不在中に植木屋を呼んでこっそり柿の木をひっこ抜いてしまう」という荒業的陰謀も、何度も浮上しているのだが、父が怒り狂うか、がっくりさせて老いに拍車をかけてしまうか、反応が読めず、実行は難しい。

あ、待って。柿の木は残っても、秋に赤い実が生りさえしなければ、柿もぎは成立しない。

来年以降、柿の実が生らないでくれればいいのか。

もしそうなれば「この木も老木だからねぇ。今年は残念だねぇ」と穏やかに父と柿の木を眺めることができる……はずだ。私も、もう54歳である。ジジイとおっさんの会話としては結構心和むものがあるのではないかしら。

そうなったら、そうなったで、父は老木と自分を重ね、何かを思うかもしれないけれども、私の精神の安定のために、そこはお許し頂けないだろうか。86歳の脚立乗り、ほんとに見ていて怖いのですよ。

柿の実、生らないようにする方法、誰か、教えてくれませんか。

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この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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